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曖昧とストラグドブルグ。

野心とゆうものが,名誉利心にむけられるのではなく,ただ
闘志に,戦いに向かうホルモン的には男性性へ向けられるなら
なお一層の事よい。struggle=ただ一心にモガくだけの事を,
曖昧に不安定な調子で,悶々と繰り返すこんな生活を,浪漫と。
闘志が猛々しく涌いてくる夜更けなどには,ただそれだけの事。
闘志だけを,ただ悶々と反芻しつつ闘志だけを味わっていたい。
この,静かな夜更けにstruggle=ただ一心にモガくだけの事を,
曖昧に不安定な調子で,悶々と繰り返すこんな生活を,浪漫と。
ただの浪漫と呼んでいたい。幸せで静かな夜だ。そうして,朝焼け
の,静かさより小鳥の一声を聴くその瞬間だけ,それまで,ただ。
物音は闘志のゴトゴト,最初に嵌入を淹れる,闘志の初茹で。
僕は,字義の捻じ曲げと言われても良い。最初の印象よりの,あの
陶器にヒビの這入る,最初の貫入とゆうものを,あのヒビを,まるで
象嵌細工のように,嵌入と現したい。水晶も,大きな結晶とまでなれば,
水に浸すだけ,象嵌細工のような,シミの這入る。あれは,まるで,
貫入のようで,嵌入である,液体にもイノチを与えよう。大げさにも,
液体の成分にはイノチは宿る。

ホノ薄むらさきにひかっているようなそんな夜もあるものだ。手洗いに,
ふと,夜明けごろ立ち上がって,階下ではガタゴトいつものように,誰も
いないはずのキッチンなど鳴いているような気のする夜明けには,手洗いに
さあ,出かけよう。大げさに立ち上がると,さては,ひかった。水晶の,あの
薄むらさきにボワアっと目指している,共に手洗いに出かけよう。すぐ降りて,
キッチンよりも手前にある,階下直ぐの手洗いに。元来,祖父母の家だった,
父兄弟の生家でもあるこの家は,祖父の生前より居候しながら借りていた。そう,
祖父の亡くなったあと頃より,ほんとうに家の物音は減っていった。ガタゴトと。
もう,怖くなくなった頃とは言え,ほんとうに鎮護の鎮守の森ほども笹の生える,
このお家の,祖父は神様にでも還っていったのだろうか?不謹慎ながら,ほんとうに
疑うわけではないのだけど,物音は実際にめっきり減って,鎮静化されていった。
ヒステリクスとゆうこのガタゴトとゆう物音にしたって,あるいは,物音の不審さ,
それに継ぐ僕の闘志の顕れにしても,多分は,組織化された何らかの”美”の表現。
それ自体,すべては”美の鳴らす表現”だったのだ,ヒステリクスさえ,そうだった。
不審さはすべて,ウツクしさの前触れで,そうやって,勇敢な闘志は現われて行く。

あの水晶のようなホノあかるさは,だんだんと,夜明けに伴って,”美の表現”として
世界全体の水晶になったように,守護精神として世情をまもっている,だから,この
小鳥の鳴き声の一声を,またそよ風の不思議と吹き込んでくるほど涼しく感じる”美”も,
なので,そろそろ,お茶を一杯くちに含んで,曖昧とストラグドブルグ。闘志を抱えて,
再び,実に曖昧に不安定な調子で,悶々と繰り返すこんな生活を,浪漫と。ただの浪漫と
呼んで,もうそろそろ,スポーティな夜明けより,寝台に戻らねばならない。曖昧だ,目を
閉じる,すると実に曖昧とストラグドブルグ。こんな,闘志の建材で構築された,街の
あんな風景や,こんな不可思議な光景。実に曖昧な,闘志も揺らぐような不安定な決意,
悶々と繰り返す脂汗を拭き合いながら。浪漫。だ,浪漫の飴玉とゆうようなそんな基準で
判断を,価値基準を定め合いながら構築されてゆくこんな街を拝んで,”おじいちゃん,”
こんな街に住んでいるのか,例えば以前,伊勢神宮で,50半ばくらいの当時の祖父に,
実によく似た男性を何度も目にして還ったあの白昼夢には,あの曖昧とストラグドブルグ。
神さまの世界とは,本当に闘志に裏打ちされた,幽玄さのある。曖昧とストラグドブルグ。
浪漫と呼んで,もうそろそろ,スポーティな夜明けより,寝台に戻らねばならない。
朝のスタートするこの香りだかさこそ,神さまの世界らしい。こちらの神さまの目覚め。
あちらの神々さまは,闘志のなかで露々に,草の葉々より千々に落ちて行った。こうして
闘志は,朝焼けと共に,塵芥と消えて行って,僕もほんとうの無の中に消え去ってゆく。
こんな,曖昧とストラグドブルグ。

こちらは如何?

ロマン地図えがく,記憶の地平にみぞおちの安心するあたり

パインを食べて,ホッとするひと時。フルーツは実際松ぼっくりと どれだけの点で似ているかはさておき,リスやムササビが綺麗に 掃除して食事後のエビフライと言われる松ぼっくりの遺物構群は, はてさて海老の味のするのだろうかなんて,実際はものすごい松の ヤニや樹液針葉みたいな芳しい匂いに照らされて,針葉樹林の朝は いかほど気持ちよいのでしょう。と,こんな話で北海道の湖畔に, あとそんな優雅な心地でパインを食べているのだった。奥さんはまた 朝方生活を始めると言って,たまたま明け方たてつづけに地震のあって 目が覚めたのだけれど,どうにかしてしまって,大地の揺れると安心する ような,奇態な心情を抱いてしまっている昨今の情況であるため,そのまま 寝ていたら,ちょっと早いが,と早すぎる三時代に起き上がってキッチンに 立つ羽目になってしまった。八時にもなって,彼女はもう一時間も寝ずっぱり, 休日の朝を満喫してる夏の扇風ファンを浴びて。朝食は唐揚げを揚げ始めて, ウチの朝方生活の食事は,ブレックファーストとディナーの逆転していて, 音楽なども,NYファッションなジャズやインストピアノな演奏会をスマホに, 食事会の終われば好き勝手に掃除などを始めて,もっぱら興味関心はこの夏日に どうやってエコを体現して過ごす健康志向の実現可能かを,僕は水風呂にしっか,と 身を埋めて早々にカルマティックな瞑想的夏日陽光被射体より逃れる心情的な準備を とっさの猛暑対策に始めてる。

もう気付けば,二十年近くも安定剤をのまされ続け,とゆうのは被害妄想っぽいけれども その副作用に,離職率や,血糖値との付き合いを苛まれし続けていた僕だったけれども, 最近,つとに経験上の記憶の上では,ハーバルティーや,その烏龍茶ドリップ珈琲豆乳の 実践など,腸活にメインの対策を置いて,元来のファスティング傾向も手伝ってか,この 数年は体調も安定していた気の感じられた所ではあったのだけれど,ずっとこのブログで 綴っていたように,全体主観的な瞑眩作用は強く生活に現れていたのだった。CBDとゆう 聴き慣れないワードと出逢ったのは,そうゆう安定剤などにあって,ウィキペディアなど 副作用や有職率の試験的検証についてCBD成分とゆうのに,非常な効果の期待できる旨の 記してあったからなのだった。オイルなどで売られているようなのだけれど,副作用,…

解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを

足元のゴキブリをきちんと処理できてからでないと、ものごとの全体的な オーガナイズなど、できたモノではない。かと、言って大きく自然は常に 世界にあるのだから、とりもなおせば、オーガナイズすなわち全体性とは 自然相手に行う人間の営為と言っていい。これは、自然相手の常識を壊す と称しても良いことで、その人間の中の自然、知性や、また、昆虫類の 自然と呼ぶにふさわしい集合意識的な流麗なエナジーに対しての、技術。 意志と呼べば、意志である。かと、言ってワガママには振る舞えない、 無意思の意志である。最近、穀物の喉元を通らないのは、こういった 自然への意志が挫かれている。むしろ、そういった意図を失うべきな 自然バランスの崩れを食欲不振や、情動麻痺に親い感情に観て取れる。 なので、その解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを起こして どうやったら貧血にならず、穀物も避けてよければ避けて通りもして この栄養失調との闘い、いや付き合い。にしても、快く自然のなかを 通り過ぎてゆけるか。酒でもない、薬でもない。とりあえず、イカの つまみでも摘んで、その勢いで、お豆腐、納豆。そうめんをすすいで 二束ほど掻き込んだ。これが精一杯だ。拒食の強い癖はないだろうが 温かい調理など食べられたモノではない。ましてやこれは過覚醒代謝 でもあるだろうが、意識を上向いていられる分、夏の大気は天国へと 持って行かれそうな暑い上昇気流をたずさえているのだから、すこし グラウンディングするように、穀物の製品も頂くべきだろう。夏の夜 昼間はラマダン期間のように食を細めていた自分の夜食に祈りの姿を みせて冷たい食品ばかり頂くのだから、自然の乱れとゆうよりそれは 自分の乱れである。そうして、呆然と朝を迎えて、鳥の声は盛んだ。

生命システムを収束させているようにも感じるのは、真夏の景色だ。 乱れは美しくもあるが、それは整えられた収束するシステムの過程を まざまざとミクロに見ているのだから、そう乱調の美を感受するのか とも思うのだった。いわずも全体性のオーガナイズは自然への技術的 意志の欠如のうちでは成立せず、そこには知恵の要る知的作業の求む らく、あの野草の薬壷へ手を突っ込むような感じで、よもぎ餅を摘む 大きな頬っぺたで味わう春の蠢きを再現させる作業を必要とするのだ。 夜食の後でアイスバーをたべた。空になったバーの木の匂いは象徴的に その感慨を現している。きっと、自然の芳香を実際…

珈琲プレグナンスとゆうは、地球号温室にて培う

さもなくば、右側頭部の情欲野ともとれる情緒的ヒステリクスは肝要。 男性性が這入りこむので、情念はヨコシマなアーリマン的要素をあらわすので、 いたって自然理にあれば、そのヒステリクスは肝要。アーリマンは赤鬼。 ともすれば、男性性を太宰など、イザナギ神話にあてはめまた、 女性性のイザナミ陣営を、アナトールと芥川氏のフレンチな文学に例えて、 大谷崎=イザナミ女神の文学性へ返すように、そうすれば、 自然体の情緒的ヒステリクスは肝要なのだった。能面が、般若に変るのは 黄泉比良坂において、三島文学=菊理媛の仲介役によって、その岩によって 光り輝く太宰のイザナギ男神的精悍さを、情緒の乱れによって見送る時に。 怒り狂えるイザナミ女神の発端は、男神の一枚岩の正義がわがままに響く その呆然とする知性に対しての怒りであって、それは何か裏腹への怒り。 表裏一体こその静けさであるのに、表面的な反射によって判断する誤りに。 この般若の相貌には、ひとかたならぬ静かな暮らしへの想いがあってこそ。
正しく、情念には破壊を浄化してゆく知恵のコントロール技術の含まれる。 そうして裏の循環摂理はなりたっているので、光りによってすべて消す といったようなのは、戦争経済と何も変わらない志向であって、情緒的な 日常の天然湿度の中で解決する身体由来の経過のあるとするなら、それは 情緒の情念的ないわゆる情欲循環コントロールによってしか、その常温は 保たれないのだった。般若は常に嫗である。いや、そうあるべきなのだ。 そうやって、いつも怒りに枯れている茫々と寂寥とした感慨を現すのが、 情念にはふさわしい。計らずも男性性は遠く彼方に押しやってしまえと、 巌に蓋をされた、彼らの国は、もう鉱物的なスピリチュアリティにしか、 含まれず囲われ、だき入れられてはいないようだが、そこに、男性性の 隔絶とした、中和され赤青に別れた大地と空との、水と風との調和は 有りえないのだった。珈琲プレグナンスとゆう造語を嗜好しだすのは、
そこに、情緒ヒステリクスの地球温室においてはぐくまれる暖かさの中で 結果的に正しさとは受容するのによって見出されるモノの多分に大きい、 そうして、正しさとは、ストレートさ素直さ一面性のたぐいにはなく、 多面性を受け容れること。情念コントロールは情欲循環的な何かでは、 そうして破壊を調整してゆく暮らしの技術におきながら、戦争経済とは 一線を画す技術の生活意欲として、裏側の…