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スサノオの梅雨空に寄せて,

ウチの奥さんは,スイカの実は常温が良い。ってゆう。
確かに畑の息吹を知りたいのなら,大地の匂いは常温だから。
飴玉を噴かすようにして,ヤマモモの果汁をソーダで割ると,
それはやはり,大地の匂いがするものだ。常温は到って,平温。
要するに,梅の花は,冬に咲いて,春先より芽吹いて,梅雨空梅肉。
早くも,梅ジャムなどを舐めこんで,実に五十鈴川に飛び込む気配。
お伊勢参りに,柔らかい醤油うどんと,抹茶のかき氷を頂くのを避けて,
その二大珍味を頬張ることなしに還った,私のスサノオは融けてゆく。
お伊勢さんは実に霊験あらたかだ。本当に,女性的な日本,とゆうメソッド。
そんな,日本メソッドを教わった気のして,返った我が里。お伊勢さんかあ,
餡餅を喜んでたべてくれる家族をよそに,天岩戸はどこにあるのだろう?
そんな不可解な気持ちで,あの霊験のあらたかさを追憶していたようだ。あっ,と
ゆう間に,一週間たっていた。そうして,私は,スサノオ。漱石山人のリスペクト。

昼寝から起きて,奥さんは嬉しそうだ。またすぐに眠ってしまった。なので,
もう少し,アマテラスさんと,スサノオのお話を振り返ってみよう。昨今,初夏の
勢いのある日差しのなかでは,野鳥の虫たち捕まえ啄んでいる様子も珍しくない。
鳥の喉仏は恐ろしい,こんなスサノオ。虫たちの生命は無限だ,そうしてアマテラス。
ボタニカル・アートの植物のパートナーは,植物に鳥ではなく,地球には虫の生命。
親和する地球に生命体は女性性の強みを持って今にも吹き出しそうなエゴの共鳴を,
崩しては去って,くずしては取りさって。今にも醤油うどんを頬張ることを適えて
くれそう。餡餅に抹茶のみぞれなどどうして考えられようか,とも含みつつ想い,今更。
この昨今のスサノオの梅雨空に寄せて,淋しそうな翳り顔をみせる。自然とは,常に。

梅の実とヤマモモ。微炭酸ソーダとパイ・シューの冷えたものなど,スイーツに手を
伸ばしては,水風呂だけでは飽きたることを知らない,そんな開局したラジオ電波の
ような,そんな面持ちで,表情の映らない,妙なイントネーションで魅力を誘う。もう,
黎明はもうすぐなのだ。

漱石山人,あなたの私であるならば,そんなけもののような眼差しで天然自然を眺めず,
きっと,それは,あなた。『剽窃した自然の生き物じみた形が,人間の鑑なのですよ。
だから,どうしたって敵うものでもないでしょう,自然は私の裡にもある。あなたの,
そうですね,私とあなたの裡にもある,自然の,あなたと私はあの自然の支配下にある
のですから。』もっとも荒涼とした態度で漠然と叫んでしまうのでしょう,天然自然,あの。
もうすぐ,対等なチカラ程は目に見えて付けて存じ上げましょう,この言葉は不可思議に
あのスサノオの梅雨空に寄せて,地球と意志の世界は融け合うでしょうとの由。今更ながら,
漱石山人,もうすぐ愛読書棚は,あなたの本で埋め尽くされるでございましょう。


こちらは如何?

三島文学におけるニニギとジングウの関わりにつき。

三島文学におけるニニギとジングウの関わりについて,その 両者の,ニニギとジングウの異性同士の神々の天孫と八幡神の つながる所に,甘酒より酵母を採ることと,お米を炊いて頂くことの その両面性のつながるような気のして,抑圧の残酷に響く時も, それの獅子と舞うような心地。また,女神のスピリチュアリティと, 咳込む男神の綿帽子に,無論,秋の木陰にもう舞い散ってしまう紅葉の ダンスさえも,そのように,むろんの事。それは残酷な抑圧ではなし, トビナガスネヒコ=大黒=タケミナカタ,ニニギ=神功=タケミカヅチの, そういった,縄文と弥生の入れ替わりのあったとしても,果たしての 自分のジャーマンポテトとバゲット・サンドの対比を好き嫌いしてみたって, 濃いブラック・コーヒーはフランスパンには合うものだし,ビターなチョコも リンゴのシードルなどの酸味も欲しくなるところ。まだ,酸味の必要な時期に でも,いくらそれだって,にゅうめんにはカツオ出汁だしビネガーは入れない。 決して,そうめんにも,暑いからと言って,オイスター・ソースのつゆは,あまり ススまないので,和食を冬に,中華を夏に食べるにあたって,季節自体は入れ替わる ことは,ないのだから。時代性として,ポスト・天孫降臨などは起こりそうもない。
キッチンの照明を換えてもらった節,知り合いの電器屋さんから,父と同い年と伺って 驚いた折には『私も,入換え時で,車も,この間あと先あまり要らないのに替えました』
と聴いて,ああ,そうか。IH調理器も見てもらって,ガスに替える話をしていた矢先 前回のその話題を踏んで,よもやま話をして下さったのだなあ,紅葉の季節に実に風情の あって,落ち葉も,そのように電器を換えて行くさまにも似て,季節と入れ替わり移る。 家の奥さんの,朝の出勤時に,目の前で接触事故をした折などは,正直ぼくの方の動揺は あまりに動転して激しく,それで,奥さんは冷静だったらしい。昼にもなって,ようやく 電器屋さんに渡し余った珈琲缶などを啜って一息つく心地。その車で先週よりの,旅行を 予定していたあげく,天孫降臨の名所旧跡めぐり観光を考えていたものの中止になって, なぜかぼくの方は,ホッとしている。不可思議なくらいホッとしている。それはたぶんの 小難に切り替わったように,無意識は安堵しているのだろう。ガスに替えるようにして, 祖父母か…

エーテル体質は,お炬燵の昼間意識

経済的な観念の上に,聴覚を用いるのか,さて,視覚は, エーテル体質は,お炬燵の昼間意識によって,幻視の ように進む,エーテル的経済体質の,それは秋の日の 田園風景。かくのごとく,瞑想式にモノを考えるのならば 幻視を支える頭の各種感性は,まず水分補給をし,深呼吸, それよりの座敷に座ってモノを描く,そんな執筆習慣より。 視覚によって,経済を支えず。聴覚によっても,まだ頼らず。 手先指先に慣性を集中して,集中力によって慣性的に支える, それが,エーテル体質は,お炬燵の昼間意識の幻視経済体質。 大地の親和を図るのと同時に,何によって浪費するのかさえ, 気力=生命力=エーテル式にモノを把えて,消費を試みる, それが,エーテル式経済体質。瞑想的でもあるけれど,ようやく そういった,安心できる,精神的な自給自足の循環性に至った。
何か,糖代謝とか,セロトニンのような,そういった自給式の 安定した生活を可能にする,消化一般耐性の,農耕定住化なので, エーテル体質は,お炬燵の昼間意識による,この例えば糖質制限など 肉食や,生食菜食との関連は,一般の三食常識による栄養補給に よっても解決される,ハイキングと,ふくらはぎマッサージと, 咳風邪の過程に,何とか自力で治した,トンカツや,アイスクリームを 臆さない,常識的な栄養補給の何と功を奏したことなのか,多分は。 そうして,一般常識としての経済は,消費者としての住民は一律とゆう 真逆に把えれば『生産者としての人間性は多種多様で掴めない。』って, 言っていることの常識性は,つねに循環していなかったのだけれど, 何故か,昨今台風の通り過ぎたあとでは,そんな国土親和性とゆう磁気的 変化とともに,再編成する転換変貌する,消費社会の姿を,垣間見る,その 訪れは,夢見るイマジネーションの世界を連想させて,それはほぼ瞑想的な 幻視経済体質の到来,いわんや生産者の対置されない経済の薄明僥倖なのだ。 くらげのように生きる必要が,災害時の自然一体化には,必要であるから。
なにがそんなに,エーテルとか,大地との親和性を感じ考えさせるのだろう?
そうして,経済性や精神性の一貫した循環を垣間見させてくれる,この幻視は
一体どうして,瞑想的に安定して一体訪れるのだろう?ひとつは,そんなに,
ふくらはぎのマッサージの効果のあったのだろうか?とゆうことと,そうゆう