スキップしてメイン コンテンツに移動

”常識=定式”とは。

地球全体を認識するのには,人間の脳髄身体ひとっつでは,
あまりに,重すぎる。だから,酵素的生活で”世界を分解して,”
のちのちのデジタル定式に向けて,準備しているのだ,その重み。

その重み自体に,対応できる,”常識=定式”の,また”不定=一定”
の,結びつく所に向けては,駆けて行く,定式とは脳の軽さ。

空調の中でこそ,熱中症の危険を感じることはある,電磁線の極み
際立って,熱さを感じる空調の中でこそ,そうゆう風にして,脳の
地球の,全酵素的世界の中で,重さを体感する一致するのは不一致。

熱源の元?何だろう,そんな危険思想を以て,対峙する,軒下の雨の
詰まり出口を必要としている,お風呂がまに溜った水風呂の後の,
あの灌漑を必要とする,水風呂の感慨深き浄化作用のクリーニング後。

彼は,暑さを回避して軽くなった,軽くなった後の”酵素的生活”は,
そんなにも,回避して居なくなった者に対しては,想像も付かない,
何らかの否定形を,否定形でありながら,存在の呵責を物ともしない,

あの回避して居なくなった者には,想像も付かない,骨壺の重み。あの
壺中天,とゆう僕は今,骨壺の中で,すでに既存のデジタル・ドリームを,
夢みているのだ。彼は,風葬に如かず,カーテン・コールの舞台裏で,
このすでに既存のデジタル・ドリームを,夢みているのだ。夢から醒める?

そんな可能性は持っていない。世界の原理?そんなものには興味はない。
埋まっている壺の中には僕がいる,ただそれだけの,この清浄さにも。
あるいは,恬淡と不可思議さにも身を委ねられない。こんな不屈な作用,

幸不幸の定義でもない,あれは多分,身を失ってゆくデジタルイズムの,だから
幸せは,不幸の裏より遣って来る,もうすこし,身を翻して,やってごらん?
この一本綱渡りはチーズケーキを食べながら遣ってゆくもの,壺の裡より,

自分を眺める,この僕は”離見の見”?大正琴?あの音色の発信元の,尋ねる,
夢のうちより遣って来た,世界は変わるのならば,そんな世界=僕の在り方は,
きっと,軽くなる宇宙の軽くなる,そんな姿の溶融点の相似点。有り様に,

イチョウの葉の黄色を,樹の倒れる音になぞらえて,もうすぐ,勝手の気ままに
僕の心柱の倒れるのだ。

こちらは如何?

KARMA SPRINGとゆう、LONDON ONEの書類群。

腸がつまる、など。必然的な兆候を含む、現代のシンドロームには業の湯浴み、として。沢山の娯楽をエンターテイメントのように軽く、 楽しめるかとゆう、趣味の時間を1分2分。どうしようか? ほんとうに湯舟に浸かれる瞬間は、ご褒美だけれど、郵便物を 受け取るための深夜窓口も、寒くって伺う気にはならない。
疲れている?いいや、眠たいのはいちばんのご褒美で、またあの 思考を放棄する瞬間にこそ、曖昧で朦朧とした意識の、それは、 諦念する、問題も、なにもかもなくしてしまわれるのだから、 業の問題を考えるにしても、その問題をこそ、考える理由にこそ、 思考をなくしてしまえる瞬間に、解決されるとゆう、自己回帰。
スムーズに、ヨーグルトのプレーンを朝食に、必然的にも トーストの欲しくなるのは不可思議以上の不思議な事で、 思考し過ぎる事かあ、趣味と言えば趣味らしいモノだろうけれど 逆に、その時期を通りすぎれば、遺産として、KARMA SPRINGとゆう あの書類群の、ギフトだったのだな、ギフトだったのだ。 LONDON ONEとゆう、思考の山人による、最高の贈り物。
篤姫や、真田丸のあとには、足利学校のテーマなどみられる のでは、など、そんな、太陽悪魔や、オロチ伝説の、赤猪岩受難の、 岩戸伝説や、岩窟の聖母像と重ねて、ヒトの受難は、獣神化する道程を 経て、進む。確実な過程として、行程は、目的地の、アマテラスへ。 太陽の夜明けに繋がるのは、そんな、獣神の角と眼の筋の取られて ヒトよりも人らしい、そのグラウンドダウンしてゆく人間性の、 これは、地味に滋味栄養のある、豊富な、例えば、あの古い語の 富国強兵論なども、こうした、筋肉質な糖質制限や、あるいはまた 腸の詰まりは、富国強兵に、カルマ・クリーニングを一跳びして パクチーのコンソメスープなどを啜る朝に、やはりあの、 トーストを欲しくなる、都市街の朝食風景は、ループする。あんな ループする朝食を求めて、世界は廻り続けているとしたら、 このグラウンディング指向も、また、おんなじ様に、新年のお雑煮を、 頂けそうな、そんな年末のグツグツ、カマドは周るのである。

跳び込んで、さては越えてゆこう、あの倫敦の壁。

反射式灯油ストーブとゆう、電池が2本あれば着火して、延々と火が灯して居続けられるとゆう、あの暖かい暖房器具に換えて、 けれども、いくら火が自慢してきたって、この寒さにはギャップの ありすぎて、孤高の熱源とさえ言える。そうとも思えなくない。 例えば、こんな夜に、ジョナサン・スウィフトのガリバー旅行記や、 ジェイムズ・ジョイスの、ダブリナーズや、ブルネルの蒸気機関の、 あのシラノドベルジュラックの引いては切なさとゆうものへ。 たどり着いては、首を振る。僕の、ポートレイト?これは、いや。 むしろ、地底のレストランへの入店チケットに違いない。 ペイパーバックライターのイントロを奏でながら、いらっしゃい!と。
そんな中で、また別の系譜へと、この流れでして、目をやると、 ジョンのピースプレイトと、プルーストの時のない、そんな エル・グレコの静止画と、フェルメールの祈りのない静止画と、 そうして、カスパーダーヴィドフリードリヒの動画のような、 祈りを、静止画と動画に織り交ぜて平和を祈った、ダンテの あの、天国と地獄には、とにもかくにも、動きの中の静けさ。
大晦日を迎えられたのは、身体に感謝とはいえ、なぜかしらの 糖分がすべて抜けたかのように、フニャっとしてしまったので 何かしら食べていようと、寝正月とお正月料理を拝借する。 魚卵は、女性ホルモンにて情緒安定し、かまぼこ、お餅などは 練り上げる消化力を推し進める。とにもかくにも年末から三が日は ほんとうに終わりと始まりをないまぜにして、全然のとやかくゆう、 あのサナギの産褥の時期である。もう、ほんとうに生まれ変わって 蝶に羽ばたくこと、はばしく麗しやかに、その飛翔は、まるで
カルマクリーニングをひとっ跳びして、掻き削がれたオーラの 全体性の発露とはかくゆうこんな、絶対的に阻まれた主観性だ。 何かが、1年の糖分のあまさとして、大晦日の業火に灰と化し、 新年の三が日はとにかく、食べて寝て、練り上げて、寝て。 そうして、思考知性の小さなままの、不死鳥のヒナまでが、何か 新しいスタートのしるべのようにして、現れてくる。そんな、 切なさではいられない。けれども、業火には、もう絶やされない。 すべての出逢いと別れは、一新され、そうして、知性の発現している この、小さな飛翔体によって、希望を持ち抱きながら、すすむ。
こんな、混沌とした新年には、もうすぐ、何か道しるべを掴める。 といって、希望を持ち抱きながら、…