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キュウリとズッキーニ。

携帯の着信音が鳴っているのかと思いきや,先ほどの
おやすみ伝えて寝て行った奥さんのいびきだったことに,
驚いた。相当に安心もして,疲れていたんだろう。なんて,
夕食に,ズッキーニのソテーと,キュウリの漬け物を一緒に
食卓に並べてもらって,何だか,火を通してはズッキーニ,
生食ではキュウリとゆう,夏野菜のトップ・レートにはいる,
この代表格のMr&Mrs瑞々しさなんてゆう共通項に,追憶し
驚いた。暑さの中に比類なく怜悧な追究心のある涼しさに,
だんだんと涼しさを増してゆく涼しさに,探求し追及する,この
怜悧な追究心のある涼しさに,だんだんと涼しさを感じながら。

比類なき涼しさ,それは腸活や,冷泉浴に似ている。比類ない,
こうゆう志向を身体に持ってくると,やっぱり食の秋の訪れまで
少し休んで,背中のおできを治すようなイメージで比類ない涼しさ,
キュウリとズッキーニを食べて,ただ身体に正直に冷えていたい,が
冷えているとゆう実感を持てるのも,また暑熱の抱く有限さ。貴重な
この融通の効く,遥かな地球の水平線。入道雲の湧き上がる,湧き上がる
あの,盆踊りの雷鳴ならすよ,お母ちゃん。イザナミの夢を見ることがある,
いっつも自然の味方,次いで彼女の味方をすることのできるのは,スサノオ。
だから,自らを漱石山人のスサノオ神話に駆り立ててゆく。彼女のイザナミ。
イナダとスサノオ,アマテラスとオオクニヌシ。果てはイザナミとイザナギ。
オロチ退治だって,『オロチのようなのが女神だ』って,なりふり構わず言う。
だって,それはただしいことだから,オロチのような女神は愛すべき彼女。
オロチ退治に駆り出される酒造りのアーティスト達は,本当は求めている。
私達には無い,うぶすなの祠を。と,まあこんな嗜好を連れづれに考える,また
いびきは続いている。本当に,感謝だ。そうして,僕は,冷泉浴励行。

オーガニックとゆう指向は,ルーツを求め,根をもとめ,シモーヌ・ヴェーユの
また,ジョン・レノンの,そうして,マクルーハンのようなデジタル指向を産む。
そこに行っては,ゆけない。ブレイクもまたデジタルに叫び,ヴラマンクもそれで
描けなくなった。アーティストの産みだす,オーガニックとはフェミニズムを叫ぶ,
スピリチュアリティ=植物性=男性主事の,アーティスト酒造りに違いないから,
より叫ぶのだ。『解体してゆく文学には,絵画とWebを一体化させよ。もちろんの
事,文学にしか還ってゆく所はないのだから,現代の文学とはOnlineGallery,その
オーガニック・アート・ギャラリー。還ってゆく,画像通貨を追い求めよう!』との
由。暑くて,下の下まで融けて行くオーガニクスも溶解してゆくそんな心地には。
絶えてユキノシタ頬張る,そんな旬彩超えて行く,だから夏の訪れ,過ぎて行く。
もう,存在の呵責とはそんなものではない。暑さ,寒さ。靴下,氷枕の,檸檬とお茶。
きっと,頬張るユキノシタの下には,クマザサなど敷いてある。
敷いてあるのは,また
座布団も同じく。
もう一度,暮らしを見詰めなおしてみよう。
モノづくりより,その。
デジタルの快音鳴り響く,
そうして,還ってゆくのだ”文学”へ。



こちらは如何?

KARMA SPRINGとゆう、LONDON ONEの書類群。

腸がつまる、など。必然的な兆候を含む、現代のシンドロームには業の湯浴み、として。沢山の娯楽をエンターテイメントのように軽く、 楽しめるかとゆう、趣味の時間を1分2分。どうしようか? ほんとうに湯舟に浸かれる瞬間は、ご褒美だけれど、郵便物を 受け取るための深夜窓口も、寒くって伺う気にはならない。
疲れている?いいや、眠たいのはいちばんのご褒美で、またあの 思考を放棄する瞬間にこそ、曖昧で朦朧とした意識の、それは、 諦念する、問題も、なにもかもなくしてしまわれるのだから、 業の問題を考えるにしても、その問題をこそ、考える理由にこそ、 思考をなくしてしまえる瞬間に、解決されるとゆう、自己回帰。
スムーズに、ヨーグルトのプレーンを朝食に、必然的にも トーストの欲しくなるのは不可思議以上の不思議な事で、 思考し過ぎる事かあ、趣味と言えば趣味らしいモノだろうけれど 逆に、その時期を通りすぎれば、遺産として、KARMA SPRINGとゆう あの書類群の、ギフトだったのだな、ギフトだったのだ。 LONDON ONEとゆう、思考の山人による、最高の贈り物。
篤姫や、真田丸のあとには、足利学校のテーマなどみられる のでは、など、そんな、太陽悪魔や、オロチ伝説の、赤猪岩受難の、 岩戸伝説や、岩窟の聖母像と重ねて、ヒトの受難は、獣神化する道程を 経て、進む。確実な過程として、行程は、目的地の、アマテラスへ。 太陽の夜明けに繋がるのは、そんな、獣神の角と眼の筋の取られて ヒトよりも人らしい、そのグラウンドダウンしてゆく人間性の、 これは、地味に滋味栄養のある、豊富な、例えば、あの古い語の 富国強兵論なども、こうした、筋肉質な糖質制限や、あるいはまた 腸の詰まりは、富国強兵に、カルマ・クリーニングを一跳びして パクチーのコンソメスープなどを啜る朝に、やはりあの、 トーストを欲しくなる、都市街の朝食風景は、ループする。あんな ループする朝食を求めて、世界は廻り続けているとしたら、 このグラウンディング指向も、また、おんなじ様に、新年のお雑煮を、 頂けそうな、そんな年末のグツグツ、カマドは周るのである。

跳び込んで、さては越えてゆこう、あの倫敦の壁。

反射式灯油ストーブとゆう、電池が2本あれば着火して、延々と火が灯して居続けられるとゆう、あの暖かい暖房器具に換えて、 けれども、いくら火が自慢してきたって、この寒さにはギャップの ありすぎて、孤高の熱源とさえ言える。そうとも思えなくない。 例えば、こんな夜に、ジョナサン・スウィフトのガリバー旅行記や、 ジェイムズ・ジョイスの、ダブリナーズや、ブルネルの蒸気機関の、 あのシラノドベルジュラックの引いては切なさとゆうものへ。 たどり着いては、首を振る。僕の、ポートレイト?これは、いや。 むしろ、地底のレストランへの入店チケットに違いない。 ペイパーバックライターのイントロを奏でながら、いらっしゃい!と。
そんな中で、また別の系譜へと、この流れでして、目をやると、 ジョンのピースプレイトと、プルーストの時のない、そんな エル・グレコの静止画と、フェルメールの祈りのない静止画と、 そうして、カスパーダーヴィドフリードリヒの動画のような、 祈りを、静止画と動画に織り交ぜて平和を祈った、ダンテの あの、天国と地獄には、とにもかくにも、動きの中の静けさ。
大晦日を迎えられたのは、身体に感謝とはいえ、なぜかしらの 糖分がすべて抜けたかのように、フニャっとしてしまったので 何かしら食べていようと、寝正月とお正月料理を拝借する。 魚卵は、女性ホルモンにて情緒安定し、かまぼこ、お餅などは 練り上げる消化力を推し進める。とにもかくにも年末から三が日は ほんとうに終わりと始まりをないまぜにして、全然のとやかくゆう、 あのサナギの産褥の時期である。もう、ほんとうに生まれ変わって 蝶に羽ばたくこと、はばしく麗しやかに、その飛翔は、まるで
カルマクリーニングをひとっ跳びして、掻き削がれたオーラの 全体性の発露とはかくゆうこんな、絶対的に阻まれた主観性だ。 何かが、1年の糖分のあまさとして、大晦日の業火に灰と化し、 新年の三が日はとにかく、食べて寝て、練り上げて、寝て。 そうして、思考知性の小さなままの、不死鳥のヒナまでが、何か 新しいスタートのしるべのようにして、現れてくる。そんな、 切なさではいられない。けれども、業火には、もう絶やされない。 すべての出逢いと別れは、一新され、そうして、知性の発現している この、小さな飛翔体によって、希望を持ち抱きながら、すすむ。
こんな、混沌とした新年には、もうすぐ、何か道しるべを掴める。 といって、希望を持ち抱きながら、…