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170723.7:36am

何かの誕生であるのと同時に,心は言葉にならぬ叫びを,
つまりは,地球の酵素的生活を繰り返す感性には,響く。
地球粒子のすべてを吸い込んで愉しんでいたい,と余裕の
ある時などは,ただ冷静に温和な表情をもて答えている。
この季節を超えたら,どんな落葉広葉樹の姿は待っている?
170723.7:36。十年も近く以前,まどろみの中で,あの時は
確実に脳障害を罹ってわずらってはいたであろうあの時の,
まどろみの中のメッセージを,170723.7:36。この時になって,
ようやく気付く,『境域の守護者』やらの,ドニー・ダーコの
兎の神のようなシアターで,”あなたは,この時,逝く”ような。

あの,メッセージを僕はドニー・ダーコの兎の神のようなシアターで,
『いや,いや。生き返ればいいんでしょう。』とっても明るく返した。
そうして,170723.7:36am。岸田繁氏のシンフォニー第一番初演を
NotePCで聴きながら,この源動的生命力は,いつも取り得で,これだけの
楽観性は,”ピザを食べて,にーッ”と嗤う僕の遊興性,愉しみに歌う。
灌漑=感慨に似て,ダムの放水現象のような,あの自然に虹もほほえむ。
何かが終わって何かの始まる。よく聴くこの言説,僕にもようやく降って来た。
よかった,ちょっと午睡でもして,一度からっぽに放心したい。飴=雨は,
また降ってくるだろう。

こんな映画評論の世界を移したような語り口調には何とも得体の知れぬ変な
感じを受け取られるかもしれない。
けれども,ドニー・ダーコは,飛行機のジェットの墜落した自家のシーンから
始まり,最後の時のさかのぼりまで。僕は,さかのぼって,逝くより,返った。
この,黄泉返りのダブル・ミーニングに掛け合えては,放心しよう,からっぽに
なるまで。夕立の時までには,心の様子も落ち着いているだろう。
何とゆうデジャ・ビュ既視感=夢の語り癖,戻っては遣って来て,落ち着いては
また戻ってゆく,フロランタンを,ピーナツ・クリームとラテで頂くような。
170723.7:36。まだまだ,何だか落ち着かない。かと言って理由もわからない。
既視感より言えるとして,それは逝ってしまうより,生き返った黄泉がえり。

こちらは如何?

KARMA SPRINGとゆう、LONDON ONEの書類群。

腸がつまる、など。必然的な兆候を含む、現代のシンドロームには業の湯浴み、として。沢山の娯楽をエンターテイメントのように軽く、 楽しめるかとゆう、趣味の時間を1分2分。どうしようか? ほんとうに湯舟に浸かれる瞬間は、ご褒美だけれど、郵便物を 受け取るための深夜窓口も、寒くって伺う気にはならない。
疲れている?いいや、眠たいのはいちばんのご褒美で、またあの 思考を放棄する瞬間にこそ、曖昧で朦朧とした意識の、それは、 諦念する、問題も、なにもかもなくしてしまわれるのだから、 業の問題を考えるにしても、その問題をこそ、考える理由にこそ、 思考をなくしてしまえる瞬間に、解決されるとゆう、自己回帰。
スムーズに、ヨーグルトのプレーンを朝食に、必然的にも トーストの欲しくなるのは不可思議以上の不思議な事で、 思考し過ぎる事かあ、趣味と言えば趣味らしいモノだろうけれど 逆に、その時期を通りすぎれば、遺産として、KARMA SPRINGとゆう あの書類群の、ギフトだったのだな、ギフトだったのだ。 LONDON ONEとゆう、思考の山人による、最高の贈り物。
篤姫や、真田丸のあとには、足利学校のテーマなどみられる のでは、など、そんな、太陽悪魔や、オロチ伝説の、赤猪岩受難の、 岩戸伝説や、岩窟の聖母像と重ねて、ヒトの受難は、獣神化する道程を 経て、進む。確実な過程として、行程は、目的地の、アマテラスへ。 太陽の夜明けに繋がるのは、そんな、獣神の角と眼の筋の取られて ヒトよりも人らしい、そのグラウンドダウンしてゆく人間性の、 これは、地味に滋味栄養のある、豊富な、例えば、あの古い語の 富国強兵論なども、こうした、筋肉質な糖質制限や、あるいはまた 腸の詰まりは、富国強兵に、カルマ・クリーニングを一跳びして パクチーのコンソメスープなどを啜る朝に、やはりあの、 トーストを欲しくなる、都市街の朝食風景は、ループする。あんな ループする朝食を求めて、世界は廻り続けているとしたら、 このグラウンディング指向も、また、おんなじ様に、新年のお雑煮を、 頂けそうな、そんな年末のグツグツ、カマドは周るのである。

跳び込んで、さては越えてゆこう、あの倫敦の壁。

反射式灯油ストーブとゆう、電池が2本あれば着火して、延々と火が灯して居続けられるとゆう、あの暖かい暖房器具に換えて、 けれども、いくら火が自慢してきたって、この寒さにはギャップの ありすぎて、孤高の熱源とさえ言える。そうとも思えなくない。 例えば、こんな夜に、ジョナサン・スウィフトのガリバー旅行記や、 ジェイムズ・ジョイスの、ダブリナーズや、ブルネルの蒸気機関の、 あのシラノドベルジュラックの引いては切なさとゆうものへ。 たどり着いては、首を振る。僕の、ポートレイト?これは、いや。 むしろ、地底のレストランへの入店チケットに違いない。 ペイパーバックライターのイントロを奏でながら、いらっしゃい!と。
そんな中で、また別の系譜へと、この流れでして、目をやると、 ジョンのピースプレイトと、プルーストの時のない、そんな エル・グレコの静止画と、フェルメールの祈りのない静止画と、 そうして、カスパーダーヴィドフリードリヒの動画のような、 祈りを、静止画と動画に織り交ぜて平和を祈った、ダンテの あの、天国と地獄には、とにもかくにも、動きの中の静けさ。
大晦日を迎えられたのは、身体に感謝とはいえ、なぜかしらの 糖分がすべて抜けたかのように、フニャっとしてしまったので 何かしら食べていようと、寝正月とお正月料理を拝借する。 魚卵は、女性ホルモンにて情緒安定し、かまぼこ、お餅などは 練り上げる消化力を推し進める。とにもかくにも年末から三が日は ほんとうに終わりと始まりをないまぜにして、全然のとやかくゆう、 あのサナギの産褥の時期である。もう、ほんとうに生まれ変わって 蝶に羽ばたくこと、はばしく麗しやかに、その飛翔は、まるで
カルマクリーニングをひとっ跳びして、掻き削がれたオーラの 全体性の発露とはかくゆうこんな、絶対的に阻まれた主観性だ。 何かが、1年の糖分のあまさとして、大晦日の業火に灰と化し、 新年の三が日はとにかく、食べて寝て、練り上げて、寝て。 そうして、思考知性の小さなままの、不死鳥のヒナまでが、何か 新しいスタートのしるべのようにして、現れてくる。そんな、 切なさではいられない。けれども、業火には、もう絶やされない。 すべての出逢いと別れは、一新され、そうして、知性の発現している この、小さな飛翔体によって、希望を持ち抱きながら、すすむ。
こんな、混沌とした新年には、もうすぐ、何か道しるべを掴める。 といって、希望を持ち抱きながら、…