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放心して繋がる。

洗濯モノを干すのが苦手だったのは中学時代。まさか,
自分が,放心して忘我して喜捨して,洗濯モノを干せるように,
そんな無我恬淡の大人になれるとは,想いもよらなかった。ただ,
本当は苦手なのだ。日用品作業とゆう,地道なコツコツ型の仕事。
なので,放心して繋がる。喉仏には自己と繋がる鍵の隠されている,
そうやって,ストレッチ・ポールなどを使って,センタリングする。
それだけで,黙想しているときなどは,自分に戻られるし,いまや,
目を瞑るだけで,一緒くたに全部,包括して許せるような気さえしてくる。
だから,つまるところ,放心して繋がる,この月の出の満ち欠けのような,
循環サイクルの必ずしも要るものだろうか。循環は必要なのか?朝も昼も,
夕べも深夜も,入れ換わっては,風の声も変わってくるのだろうけれど。

甘いものが欲しくなってくる。センタリングして繋がるためには,失調気味より
甘いものが欲しくなってくる。愛の感情は,砂糖からも摂れる,と聴いたけれど,
センタリングして,繋がる。これが愛なのか。攻撃的に,先鋭的な前衛芸術の中に,
むしろ,直接的な”愛の生起”する気のしていた僕は,どちらも愛だろうか,もしくは
センタリングしている,中心の温かい愛とゆうものに,健康の精神衛生をみるのだ。

センタリングしている,愛の感情と。前衛芸術の行動にみる,鋭い知性と。それは,
例えば,ひとの見えない,ある別の宇宙の人たちをみることのできる,チャネルを
もっているとして,そのチャネルをまた別次元にひねまわす。音量や,画質はむしろ
換えないで。閉塞的に,物質主事に閉じてしまうこともできるだろうけれど,チャネルは
閉じるものではない,廻すものだから,もし”電源を消す=閉じる”行為に及ぶときは,
それは,”音量=周囲の生命感”や,”画質=意味だらけの世界”に,辟易してしまった,
そうゆうときなのだろう。そうでもなかったので,チャネルを廻すことにした”彼”は,
ふいに,憑き物や,鎧の張った身体から,執着展着の瓦解してゆく様をみるのだ。

砂糖のシロップには,べとべと着いて回る,そういったアイス・コーヒーの爽やかさとの
裏表。口にしていては,熱さも感じない,酸っぱさも沁みない,けれども,また触れると
刺激物だったりするそんな砂糖のべとべとした執着のような触感は,もうすでに,表の,
爽やかな,サマー・シーズン。ターコイズされた,飴の出来上がりそうな乳白色の空を。
練乳とブルー・ハワイのシーズンは,とんでもないミントな香りも連れてきて,だから,
前衛芸術の姿は,『チョコ・ミント・フレーバー』の,愛の匂いに隠された,基底なので
味噌っこを岩ノリとまぜて,おにぎりにして,お茶をセットにすれば,夏のお昼ごはんの
出来上がり。あとは,執着の取れる夕日を待って,チャネルを,幸福と喜びのほうへ向け
瞑目して,新着本の音訪れ準備して潜っていよう,そんな初夏の新番組には,多分の,
日常の平凡な海苔の味のしているのだから。チャネルとは放心して繋がる海苔の味わい。
むしろ初夏の小鳥の鳴き声の周りに付いている,爽やかな風の音訪れなので,前衛的。





こちらは如何?

KARMA SPRINGとゆう、LONDON ONEの書類群。

腸がつまる、など。必然的な兆候を含む、現代のシンドロームには業の湯浴み、として。沢山の娯楽をエンターテイメントのように軽く、 楽しめるかとゆう、趣味の時間を1分2分。どうしようか? ほんとうに湯舟に浸かれる瞬間は、ご褒美だけれど、郵便物を 受け取るための深夜窓口も、寒くって伺う気にはならない。
疲れている?いいや、眠たいのはいちばんのご褒美で、またあの 思考を放棄する瞬間にこそ、曖昧で朦朧とした意識の、それは、 諦念する、問題も、なにもかもなくしてしまわれるのだから、 業の問題を考えるにしても、その問題をこそ、考える理由にこそ、 思考をなくしてしまえる瞬間に、解決されるとゆう、自己回帰。
スムーズに、ヨーグルトのプレーンを朝食に、必然的にも トーストの欲しくなるのは不可思議以上の不思議な事で、 思考し過ぎる事かあ、趣味と言えば趣味らしいモノだろうけれど 逆に、その時期を通りすぎれば、遺産として、KARMA SPRINGとゆう あの書類群の、ギフトだったのだな、ギフトだったのだ。 LONDON ONEとゆう、思考の山人による、最高の贈り物。
篤姫や、真田丸のあとには、足利学校のテーマなどみられる のでは、など、そんな、太陽悪魔や、オロチ伝説の、赤猪岩受難の、 岩戸伝説や、岩窟の聖母像と重ねて、ヒトの受難は、獣神化する道程を 経て、進む。確実な過程として、行程は、目的地の、アマテラスへ。 太陽の夜明けに繋がるのは、そんな、獣神の角と眼の筋の取られて ヒトよりも人らしい、そのグラウンドダウンしてゆく人間性の、 これは、地味に滋味栄養のある、豊富な、例えば、あの古い語の 富国強兵論なども、こうした、筋肉質な糖質制限や、あるいはまた 腸の詰まりは、富国強兵に、カルマ・クリーニングを一跳びして パクチーのコンソメスープなどを啜る朝に、やはりあの、 トーストを欲しくなる、都市街の朝食風景は、ループする。あんな ループする朝食を求めて、世界は廻り続けているとしたら、 このグラウンディング指向も、また、おんなじ様に、新年のお雑煮を、 頂けそうな、そんな年末のグツグツ、カマドは周るのである。

跳び込んで、さては越えてゆこう、あの倫敦の壁。

反射式灯油ストーブとゆう、電池が2本あれば着火して、延々と火が灯して居続けられるとゆう、あの暖かい暖房器具に換えて、 けれども、いくら火が自慢してきたって、この寒さにはギャップの ありすぎて、孤高の熱源とさえ言える。そうとも思えなくない。 例えば、こんな夜に、ジョナサン・スウィフトのガリバー旅行記や、 ジェイムズ・ジョイスの、ダブリナーズや、ブルネルの蒸気機関の、 あのシラノドベルジュラックの引いては切なさとゆうものへ。 たどり着いては、首を振る。僕の、ポートレイト?これは、いや。 むしろ、地底のレストランへの入店チケットに違いない。 ペイパーバックライターのイントロを奏でながら、いらっしゃい!と。
そんな中で、また別の系譜へと、この流れでして、目をやると、 ジョンのピースプレイトと、プルーストの時のない、そんな エル・グレコの静止画と、フェルメールの祈りのない静止画と、 そうして、カスパーダーヴィドフリードリヒの動画のような、 祈りを、静止画と動画に織り交ぜて平和を祈った、ダンテの あの、天国と地獄には、とにもかくにも、動きの中の静けさ。
大晦日を迎えられたのは、身体に感謝とはいえ、なぜかしらの 糖分がすべて抜けたかのように、フニャっとしてしまったので 何かしら食べていようと、寝正月とお正月料理を拝借する。 魚卵は、女性ホルモンにて情緒安定し、かまぼこ、お餅などは 練り上げる消化力を推し進める。とにもかくにも年末から三が日は ほんとうに終わりと始まりをないまぜにして、全然のとやかくゆう、 あのサナギの産褥の時期である。もう、ほんとうに生まれ変わって 蝶に羽ばたくこと、はばしく麗しやかに、その飛翔は、まるで
カルマクリーニングをひとっ跳びして、掻き削がれたオーラの 全体性の発露とはかくゆうこんな、絶対的に阻まれた主観性だ。 何かが、1年の糖分のあまさとして、大晦日の業火に灰と化し、 新年の三が日はとにかく、食べて寝て、練り上げて、寝て。 そうして、思考知性の小さなままの、不死鳥のヒナまでが、何か 新しいスタートのしるべのようにして、現れてくる。そんな、 切なさではいられない。けれども、業火には、もう絶やされない。 すべての出逢いと別れは、一新され、そうして、知性の発現している この、小さな飛翔体によって、希望を持ち抱きながら、すすむ。
こんな、混沌とした新年には、もうすぐ、何か道しるべを掴める。 といって、希望を持ち抱きながら、…