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弧を描いていた鷲。

『ちらしずしに,なすのにびたし,なすの京づけ。
 ひややっこに,すこしイクラの載っている。近頃は
 それらに添える,アサリのスープはコンソメ風味。
 自分は,夏大根をスライスして,乱切りざまに,
 コーンと焼きのりを刻んで和風サラダを足したのだけど,
 珈琲はドリップに初めて失敗して溢れさせ,しまいには
 二杯分の豆で,一杯の分量しか淹れられない始末。こうして
 ひと玉500円のスイカを丁寧にきって,並べて加えた。
 珈琲は苦く,スイカは甘いが,日常の風景にロンドンの夜警の
 駆け回る如く,僕も頭のぐるぐる回転して,おすしには,
 やはり澄ましの良いような気がして,しかし,結論は,以て
 クラムチャウダーのようなものでも良かったのだ。』だから,

R.シュタイナーの『未来にはミカエル,過去には悪龍。』とか,
『本来,カラッポな所に思考の訪れる。』のような,まさに,あの
コニャックとブラック・コーヒー時代を彷彿とさせる,理解の無味
を,感じると,もうすぐ夜明ける夜警の休憩所は,森の下ではない,
床に就いた朝焼けのon the bedだろう,それまで深夜便を更かしながら
出番を待ちかねる,朝焼けのon the bedだろう,朝焼け前には子供の声。
自転車の遠鳴りの聴こえてくる,これは,夜明け前のいちばん暗い証左。

『意に介しない,そのほど,恐怖心は業の泉に浸かって滅びてしまう。
 ”滅びの中に学びを。”まぼろしではない,まぼろしであったら,存在は
 消えてしまう。言い換えれば,自分の感じる事,聴くこと,みるものに,
 感謝と愛撫を向けずになぜ生きていられる?こんな発想で,常に,あの
 湖水のほうへ一艘のボートをうけながして,迎える薄明のしどとけなし。
 業の泉には,ウツボの主が待っている。昨夜は奥さん,彼に噛まれた。その
 泉は,ただの池だったとおっしゃった。パラダイスの飛び出る,そんな遊興の
 微細な池の波紋を呼ぶのはちょっとした,スウィッチ。もうすぐ,カラッポの
 所に思考の訪れる。”彼”は,業。』

『ちらしずしに,なすのにびたし,なすの京づけ。
 ひややっこに,すこしイクラの載っている。近頃は
 それらに添える,アサリのスープはコンソメ風味。
 自分は,夏大根をスライスして,乱切りざまに,
 コーンと焼きのりを刻んで和風サラダを足したのだけど,
 珈琲はドリップに初めて失敗して溢れさせ,しまいには
 二杯分の豆で,一杯の分量しか淹れられない始末。こうして
 ひと玉500円のスイカを丁寧にきって,並べて加えた。
 珈琲は苦く,スイカは甘いが,日常の風景にロンドンの夜警の
 駆け回る如く,僕も頭のぐるぐる回転して,おすしには,
 やはり澄ましの良いような気がして,しかし,結論は,以て
 クラムチャウダーのようなものでも良かったのだ。』

落着かなくって,キーボードを叩く。かじる,この前の自然一体化は,
実に,温かかった。そうして,今ごろ,昼には楓の葉も縮れるような。
そんな節の,夜更け暮合いには,なんだか思考のカラッポの所に訪れる。
この,ようやく,嘆息をもたらす,夜の一息安心感の異様に放心を迎え。
このままイニシエイションよろしく,仮死に親い”仮眠”の中で,自分は
二度目に産まれ,入れ替わる”悟性”と”思考態”の換金所の,ところがさすが,
また夏の昼は,苦しいけれど,頑張って耐えて行こう。ここで”耐える”とは,
酩酊昏睡としていようとも,”気絶”せずに生きていよう。”耐える”とは。この
換金所ざまに”仮眠”の採れる夜だからこそ,”思考=業=個我”と出逢い,また
別れを惜しむ”悟性=自然=旧自我”とは通貨単位をよりポイント式に倣って。
”緑茶=コーン=ふすま粉”の,こんな『私』を救う唯一の仕業は,珈琲なので,
いや。思い付きにも珈琲なので,隔世の覚醒の感をいざなうそんな恬淡無味な,
理解を,コニャック=ブラック・コーヒーに追い求めたR.シュタイナーの朱夏は
そのまま”ミカエルの龍退治”。

こちらは如何?

意味深長に珈琲=胆汁と,虚空アカシャの転生色彩譚

自分の中より明白に,何かの意味とゆうのが抜けてから,もう ひさしく感じる。意味がないのは,基本的に穏やかな静かさ。 意味深長に珈琲=胆汁と,虚空アカシャの転生色彩譚を標榜して, このBlogを,ただ描き切っていた頃合いが懐かしく,今もまた デカフェの珈琲豆乳を呑んではいるが,その懐かしさは過去による モノだ。大抵は,すでに生豆の焙煎などの200℃にコンベクションで 送風して,ゴーゴーと30分やそこらで終えてしまうようになってから 浅煎りなのだか焦げているのやら解らないように感じるのだけれど, それはそれでコーヒーの味わいには届いているのやら?割ってしまえば 飲むことはできるので,有り難く美味しそうに頂いてはいるのだった。
西郷どんを堀辰雄氏に当て嵌めて,萩原朔太郎氏は近藤勇になって, 谷崎潤一郎氏は高杉晋作=イザナミ女神的な,太宰に龍馬伝説を, 立原に乾退助の影あれば,川端翁は松陰先生で,三島に桂小五郎の 余韻を曳いて,それは歴史の風韻の現す,ラッキョウの砂丘には彼の 風紋を遺す,風の報せ。むしろの虫の知らせなのだった。また戦国には 堀さんは信長公,萩原さんは上杉謙信。大谷崎は下って8代吉宗公に, 太宰の独眼竜を供えれば,立原=千利休=秀頼公の,川端翁の信玄=武蔵。 三島文学は遠くサド侯爵=マキャベリまで溯る。付随して,漱石山人には 太閤秀吉=一茶によって,東照宮には芥川氏とアマテラス=恵比須さんの この豊かな不老不死伝説までも含めて,さては,宮沢賢治=清正の井戸。 ここまでよくぞ堪えてくださった,とばかり。意味深長に珈琲=胆汁と, 虚空アカシャの転生色彩譚を,計らずも与えて下すった”歴史絵巻”に謝々。

フォーの麺のあって,それに合うスープを造って頂きましょう,とゆうことに 昨晩も今晩も量はあまり摂らずに,眠りやすい環境を整えてゆこうと言っては, 胡麻味噌や,コチュジャン。鳥ガラスープに醤油みりん。ヌクナムなどに塩胡椒で ネギとニラ,油揚げを加えて,胡麻味噌には八角など,山椒の粉も入ってるので 大事なのは麺がゆるゆるにも芯残りにもならずに好い茹で加減でできるとなとゆう ところで,食卓には何とか一緒に楽しめるほどの時間は過ごせたのだった。あと, お風呂も沸かして,コトコト響いてくるような背景音に合わせて,こうして夕暮れに タイプして行く心地。あまりに最近お喋りもすすま…

とにかくもパンダの真似をして遣りすごす,カレー屋さんでの一時。

白黒の隈を着けて,いつもよりも浅煎りの珈琲豆を一杯のお代わりを 受けて,淹れなおす。家の台所は,さながらカレー屋さん気取りの, とにかくもパンダの真似をして遣りすごす,カレー屋さんでの一時。 とにかくもゴッコ気取りで楽しみながら遣りすごす,台所での一時。 ダサいと言っては,何だけれど,バランスの好いのはそうゆうことだ。 そうして,そうゆうダサさをこそ,落ち着いているとして好む,そんな 白と黒を半分ずつ割って入れるようにして,豆乳オーレにして頂く珈琲は, 真皮に黒を抱きながら,表面きっての自分自身は,笑顔で白を通す,その 面白さは微笑みより訪れるので,にっこり気持ちは構えて,ダサさを通す。 それでしか淹れられない,なかなか浅煎りは,カフェオーレでしか入らない。
追及しては,戻ってくるのは番犬や番猫で,何だよとゆうばかり,番猫なら 招き猫みたいにスレンダーな物腰で,いいやスレンダーではないか,でも。 多分,何にもいないのだから,彼らにとって,虫の知らせは,いわゆる枯れ尾花 であって,そのざわめきや囁きのようにして聴こえる,彼らにとっては雑貨店。 トフィーのような濃厚な滑り出しで,カフェオレに合わせながら眺める,こんな 洋菓子店をめぐるように猫などの物腰の豊かさを側に置いて,ぼくは先日のあの ロイヤルウェディングの様子を想いだす。白馬のリードしている子の,ちょっと 荒れているのには,繁華街に急に放り込まれた武士のようなイメージで,そりゃあ 興奮し,混乱もなさるでしょう?とは,そればかり心配してはいなくても,やっぱり パレードの壮大さは計り知れない。ダイナミックであり,本当に生命力学的にもっとも ハラハラもし,手に汗握る。この悠長にはPCの前に座りながら,安堵して,折り畳む。

基本的にはまた紅茶とキャラメルを合わせる感じで良いと思うのだった。ちょっとした
あの渋味と,焦げているような甘味のあいだで,切なさと勇気を半分ずつにおおげさに
振る舞っている。週末を終えて,家族サービスとゆう毎度のほどでもないのだけれど,
毎日に平日のスタートを切る僕にとっては火曜日。風邪を引いてると体力よりも果敢に
すすめないのでこうゆう話題になっているけれど,それも治った後の話として,本当に
スタートを切られることに,爽やかな活発さをさえ抱いている,早速まだ沸かしたてで
すこし温湯のお茶を頂い…

憑依するとゆう言葉には,入り神級と創作ウォークイン。トリップなど様々

前世ゲームとは言え,嵌入しきって書物の渉猟をすることは,最も
アクティブな瞬間で,それはインナーに居て,集中度の高まる体験。
憑依するとゆう言葉には,入り神級と創作ウォークイン。トリップなど
様々あるけれど,それは研究意欲としてそうなのであって,きっと以て
どれでも良いはずの日常と,外側の経験則のなかでは処世術としては
仲介されえない範囲の事柄ではある。なので,運筆とゆう詩性に向かって
コンスタントに埋没しきることのなかにも夕暮れ時に適うような,そんな
”前世”=書物文化のあって良いはずだ。転生とゆうことは,それほどまでに
コンセントレーションの中に含まれていて,一種の隠喩のようにそこにある。
それで,いま没我した自分は転生している,うん。それで良いじゃないのか?
例えば,自意識のうちで,第一に身体を漱石山人より,次に生命力を太宰さんに
三番目には意識的に明るさを芥川氏より頂き,個我みたいなモノは三島文学より。
僕の竜退治のミカエルは彫刻家のロダン=文学にF.ラブレー=透視にスウェーデンボリと
言った大家より受け賜って,ジヨットのイコンにおける精神性において開花する。など
ここまで自意識的に説明したところで,それらは”前世”とは関連のないことではある。
集中力に謎解きの扉を開く鍵のあることを知悉して,ようやく,眠りに就けそうである。
渾然一体となってファンタジーは,一度死に,二度目に産まれる魂に対して,何らかの
ギフトを与える。集中力によって,ソウルは再び現れた記念として,”前世”の贈り物を
授かるのだった。そうやってゆこう。黄昏に,贈り物としての言葉を貰うようにして,
やっぱり夕餉の匂いは良いモノである。そこかしこに湯気の上がって,昔はさながらの
薪のくべられた薫りなど漂っていたろう。こうやって,時代は溯られれば,魂のうちに
何らかの,記憶=ファンタジーを得ることのできるはず。

急に,突然の報せのように,白い聖母信仰のほうへ寄りかかって行きそうな気さえして。
夕餉の匂いにのせられて,それらは,ふわりふわり声明を携えて近づいてくる。夕暮れに
不可思議な想いを感じ取らせながら。この白い芳香は何処から遣って来て,今さらながら
ついにこの辺りまで,ついの最近までは,いったい何処に居られたのでしょうくらいの,
何だか不可思議にふわりふわりと感じられる香りなのであった。良い…