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太陽サロン。

岡本太郎,太陽の塔,広島現代美術館の明日の神話原画,そして
芸術大学の,グノーシス主義的『泉の不思議』森と泉の香り。
ギャラリーで,TARO OKAMOTOのオベリスク彫刻作品をみて,
何故か取りつかれていたようだ。彼の中のピカソ,フィレンツェの
円屋根の記憶,寺田本家の生原酒を頂いて,わき腹に来ない,その,
表情の熱くなって,自然治癒力の快復するような,そんな心地に,
龍馬の先鋭,LONDON ONE,九郎義経のハイ・ロマネスク。
太陽サロン,RED HOUSE,ROLL ROLLER HOUSE,GOETHEANUMの
メタファーを目指して,自宅をアストラの館,生命神秘の館に。この,
好趣味のように感じる,自宅変革『終わらない家』の構想計画。
外交政策に”喜び”のスパイスが必ずしも要るように,歓喜の歌から,
自由の賛歌,Freiheitの暗喩瞑想,タイスの宝箱にみるように,ほんとに
寺田本家の生原酒に平和実現のハイ・ロマネスクをみる。集合意識の
自分が変われば世界の変る,これが”幸せ”である,根本的にそうである,
根本的な酵素質改革の中に平和思想のあるような気のして,平凡の,
平凡=HEAVEN,直太朗氏の『平凡ぶる~す』の白眉一点,見事なメタファー。

民族博物館の,メタファー。民藝には,柳宗悦氏と,津和野,大山崎山荘の
島根斐川の出西作陶窯に到るまでの民藝ぶる~すは常にTARO OKAMOTOの,
原色の極彩色絵画との調合を試みて,相応する相対応するそのMINGEIismの
あの源流は,上島鬼貫の俳諧や,小林一茶=漱石山人,千利休の立茶の
そんな,明治文明開化の和洋折衷。僕は,勝海舟の邸宅のそうであったように,
洋椅子,立机を,畳のじゅうたんを敷いて,まさにハイ・ロマネスク・和洋折衷に
みせる,あのシッポク饅頭や,豚の角煮や,ぼっけや,くぎ煮などの発展には
さらに,オランダ坂のクジラのヒゲ耳かきのガラス細工と似て,軽井沢にみる,
あの堀辰雄文学(”ロマネスク”は,まさに氏の専売特許であるから,)山小屋に
湧水の水辺を畔に,名水珈琲など頂いて,

江戸前の東京湾に,近江の琵琶湖川水,
京都に川床料理,ウナギの土用より,シジミ汁。肉に赤汁(ワイン),ハイ・ロマネスクの,
霧の野ばらから,湧水の泉の不思議には,コニャック=ブラック・コーヒー,酩酊ではなく,
目覚めのための,哲学なのだ,酵素質の盛んに摂られるそんな生原酒を頂きながら,顔の
カーッとあつくなる,そうして,自然治癒力の結びに,自然の湧水などの酵素質の,川床の
グルメの文化ジャンル,京都はイイナァ,魔の山の大山崎山荘の被さってハイ・ロマネスク。
ゴーギャンの切り絵を,M・ヴラマンクの雪道雪景絵画には,ヘッセの水彩画にクレーの天使,
すべて退廃(デカダンス)=明るさ(ポップス)の供にある,とゆう敬愛する中村一義氏の
あの弁証法的存在論,ヘーゲル=ハイデガーのエルンスト・ブロッホに昇華するような,そんな
哲学に鑑みては,独白する酔い覚めの自然治癒的平和指向の,和洋折衷=ハイ・ロマネスクの
湧水非加熱業飲にみるアストラル・トラベルな薄明の夢うつつを迎える朝に。


こちらは如何?

KARMA SPRINGとゆう、LONDON ONEの書類群。

腸がつまる、など。必然的な兆候を含む、現代のシンドロームには業の湯浴み、として。沢山の娯楽をエンターテイメントのように軽く、 楽しめるかとゆう、趣味の時間を1分2分。どうしようか? ほんとうに湯舟に浸かれる瞬間は、ご褒美だけれど、郵便物を 受け取るための深夜窓口も、寒くって伺う気にはならない。
疲れている?いいや、眠たいのはいちばんのご褒美で、またあの 思考を放棄する瞬間にこそ、曖昧で朦朧とした意識の、それは、 諦念する、問題も、なにもかもなくしてしまわれるのだから、 業の問題を考えるにしても、その問題をこそ、考える理由にこそ、 思考をなくしてしまえる瞬間に、解決されるとゆう、自己回帰。
スムーズに、ヨーグルトのプレーンを朝食に、必然的にも トーストの欲しくなるのは不可思議以上の不思議な事で、 思考し過ぎる事かあ、趣味と言えば趣味らしいモノだろうけれど 逆に、その時期を通りすぎれば、遺産として、KARMA SPRINGとゆう あの書類群の、ギフトだったのだな、ギフトだったのだ。 LONDON ONEとゆう、思考の山人による、最高の贈り物。
篤姫や、真田丸のあとには、足利学校のテーマなどみられる のでは、など、そんな、太陽悪魔や、オロチ伝説の、赤猪岩受難の、 岩戸伝説や、岩窟の聖母像と重ねて、ヒトの受難は、獣神化する道程を 経て、進む。確実な過程として、行程は、目的地の、アマテラスへ。 太陽の夜明けに繋がるのは、そんな、獣神の角と眼の筋の取られて ヒトよりも人らしい、そのグラウンドダウンしてゆく人間性の、 これは、地味に滋味栄養のある、豊富な、例えば、あの古い語の 富国強兵論なども、こうした、筋肉質な糖質制限や、あるいはまた 腸の詰まりは、富国強兵に、カルマ・クリーニングを一跳びして パクチーのコンソメスープなどを啜る朝に、やはりあの、 トーストを欲しくなる、都市街の朝食風景は、ループする。あんな ループする朝食を求めて、世界は廻り続けているとしたら、 このグラウンディング指向も、また、おんなじ様に、新年のお雑煮を、 頂けそうな、そんな年末のグツグツ、カマドは周るのである。

跳び込んで、さては越えてゆこう、あの倫敦の壁。

反射式灯油ストーブとゆう、電池が2本あれば着火して、延々と火が灯して居続けられるとゆう、あの暖かい暖房器具に換えて、 けれども、いくら火が自慢してきたって、この寒さにはギャップの ありすぎて、孤高の熱源とさえ言える。そうとも思えなくない。 例えば、こんな夜に、ジョナサン・スウィフトのガリバー旅行記や、 ジェイムズ・ジョイスの、ダブリナーズや、ブルネルの蒸気機関の、 あのシラノドベルジュラックの引いては切なさとゆうものへ。 たどり着いては、首を振る。僕の、ポートレイト?これは、いや。 むしろ、地底のレストランへの入店チケットに違いない。 ペイパーバックライターのイントロを奏でながら、いらっしゃい!と。
そんな中で、また別の系譜へと、この流れでして、目をやると、 ジョンのピースプレイトと、プルーストの時のない、そんな エル・グレコの静止画と、フェルメールの祈りのない静止画と、 そうして、カスパーダーヴィドフリードリヒの動画のような、 祈りを、静止画と動画に織り交ぜて平和を祈った、ダンテの あの、天国と地獄には、とにもかくにも、動きの中の静けさ。
大晦日を迎えられたのは、身体に感謝とはいえ、なぜかしらの 糖分がすべて抜けたかのように、フニャっとしてしまったので 何かしら食べていようと、寝正月とお正月料理を拝借する。 魚卵は、女性ホルモンにて情緒安定し、かまぼこ、お餅などは 練り上げる消化力を推し進める。とにもかくにも年末から三が日は ほんとうに終わりと始まりをないまぜにして、全然のとやかくゆう、 あのサナギの産褥の時期である。もう、ほんとうに生まれ変わって 蝶に羽ばたくこと、はばしく麗しやかに、その飛翔は、まるで
カルマクリーニングをひとっ跳びして、掻き削がれたオーラの 全体性の発露とはかくゆうこんな、絶対的に阻まれた主観性だ。 何かが、1年の糖分のあまさとして、大晦日の業火に灰と化し、 新年の三が日はとにかく、食べて寝て、練り上げて、寝て。 そうして、思考知性の小さなままの、不死鳥のヒナまでが、何か 新しいスタートのしるべのようにして、現れてくる。そんな、 切なさではいられない。けれども、業火には、もう絶やされない。 すべての出逢いと別れは、一新され、そうして、知性の発現している この、小さな飛翔体によって、希望を持ち抱きながら、すすむ。
こんな、混沌とした新年には、もうすぐ、何か道しるべを掴める。 といって、希望を持ち抱きながら、…