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物質精神史。

脳内に”中心を置いて,”ゆくのならば,それはGrounding,
なかなか”精神性と言って,”イマジネーショナルな道を一度通ってから
物質精神史のほうへ戻ってゆくのだから,ぼくのLONDON ONE=,
『漱石山人』の”物質精神史”の向こうへ。それは,多分,きっと。あの
太閤秀吉の藤吉郎より,キリシタン殉教の歴史へと辿り着く,惨劇のさま。
それを,LONDON ONE=『漱石山人』の倫敦の神経衰弱精神史による。
おもえば悲劇は残酷さの裏腹に支配=愛の可逆性を含む。つきすすめて,
ひとのつよさをおもうのならば,責任や感受の思いやりの終着点は,彼の
可逆性=残虐さに裏を掻いて”存在”する,妖しさは,責任感の現れか。
思いつめれば”愛”に辿り着く,”愛”の可逆性は,牡牛の角の鋭さに似て,
残酷なオーラは悪魔性とゆうより”愛のつよさ”だと確かにはっきり認識。
『漱石山人』の”物質精神史”の向こうへ。それは,多分,きっと。あの
太閤秀吉の藤吉郎より,キリシタン殉教の歴史へと辿り着く,惨劇のさま。
オシャレとか,存在論の不屈さや。頑強なロマネスク。

お茶をすすって,一言おいては,その”愛”の鋭さについて,何かのシャープさの
そんなベクトルの何処へ向かうのか,問いたいので,昨今『漱石の思い出』などで
描かれる夫人の述懐について言えるのは,『漱石山人』の責任感の強さは,文学よりも
もっと何処か違う所にあったのではないか?太閤秀吉=藤吉郎=キリシタン迫害の歴史に
そこを対置してよいものかは,確かな認識ではないのかもしれないけれど。そんな苺を
ジャムにして,マージェリンとはさんで頂く留学時代の文豪の前身にある責任感。そんな
彼の可逆性=残虐さに裏を掻いて”存在”する,妖しさは,責任感の現れか。
思いつめれば”愛”に辿り着く,”愛”の可逆性は,牡牛の角の鋭さに似て,
残酷なオーラは悪魔性とゆうより”愛のつよさ”だと確かにはっきり認識。だから,
何かのシャープさのそんなベクトルの何処へ向かうのか,問いたいので,
もちろんその先にはストーリーテリングによって,叙述してゆく物語りの破天荒さ。
時間の流れに置いて,脳内に”中心を置いて,”ゆくのならば,それはGrounding,
なかなか”精神性と言って,”イマジネーショナルな道を一度通ってから
物質精神史のほうへ戻ってゆくのだから,急性扁桃炎には日にち薬しかないこともある。
あの苺の酸っぱさは日ごろの一番のご褒美だった。弛緩して,ゆるむ一日,倫敦は日にち薬で,
治ってゆく。日に日に,”時間”はストーリーテリングによって,癒される。

柑橘の実が,しばらく経って,カチコチのオブジェに変貌してしまったような,
それは陳皮など,香辛料のような何かに替えて使えるものかとは,オブジェそのもの。
自然物は化石となる。同じように,物質精神史は石と化した人間の在り方で,
脳内に”中心を置いて,”ゆくのならば,それはGrounding,
なかなか”精神性と言って,”イマジネーショナルな道を一度通ってから
物質精神史のほうへ戻ってゆくのだから,
わざわざ研ぎ石で陳皮を削ろうとはおもわない。それより,温泉の涌くそれぞれの,
石屋さんの水でカッターとして使用しているような,そんな鉱泉水の,業の泉。とゆう
わざわざ研ぎ石を使わなくっても,夜にアロマ・ディフューザーなどで,オイルを垂らして
時事ニュースなどを英字盤の何かを読むように耽溺していたい。この”時間”,ストーリー
テリングによってしか癒すことのできない,”時間”自態の”存在”時間。苺ジャムの,ロシアン
ミルクティーなどを楽しんで過ごす夜の帳に,もちろん向かうのは,脳内の快楽を湯舟の中で。
とにもかくにもLONDONに向かうのは精神史の謂われのあっての”存在”時間。その諧謔。
苺のロシアンミルクティの風呂釜に浸かっている夢をみて,さらにぼくのLONDON ONE=,
『漱石山人』の”物質精神史”の向こうへ。それは,多分,きっと。あの
太閤秀吉の藤吉郎より,キリシタン殉教の歴史へと辿り着く,惨劇のさま。
それを,LONDON ONE=『漱石山人』の倫敦の神経衰弱精神史による。
おもえば悲劇は残酷さの裏腹に支配=愛の可逆性を含む。つきすすめて,
ひとのつよさをおもうのならば,責任や感受の思いやりの終着点は,物質精神史。


こちらは如何?

KARMA SPRINGとゆう、LONDON ONEの書類群。

腸がつまる、など。必然的な兆候を含む、現代のシンドロームには業の湯浴み、として。沢山の娯楽をエンターテイメントのように軽く、 楽しめるかとゆう、趣味の時間を1分2分。どうしようか? ほんとうに湯舟に浸かれる瞬間は、ご褒美だけれど、郵便物を 受け取るための深夜窓口も、寒くって伺う気にはならない。
疲れている?いいや、眠たいのはいちばんのご褒美で、またあの 思考を放棄する瞬間にこそ、曖昧で朦朧とした意識の、それは、 諦念する、問題も、なにもかもなくしてしまわれるのだから、 業の問題を考えるにしても、その問題をこそ、考える理由にこそ、 思考をなくしてしまえる瞬間に、解決されるとゆう、自己回帰。
スムーズに、ヨーグルトのプレーンを朝食に、必然的にも トーストの欲しくなるのは不可思議以上の不思議な事で、 思考し過ぎる事かあ、趣味と言えば趣味らしいモノだろうけれど 逆に、その時期を通りすぎれば、遺産として、KARMA SPRINGとゆう あの書類群の、ギフトだったのだな、ギフトだったのだ。 LONDON ONEとゆう、思考の山人による、最高の贈り物。
篤姫や、真田丸のあとには、足利学校のテーマなどみられる のでは、など、そんな、太陽悪魔や、オロチ伝説の、赤猪岩受難の、 岩戸伝説や、岩窟の聖母像と重ねて、ヒトの受難は、獣神化する道程を 経て、進む。確実な過程として、行程は、目的地の、アマテラスへ。 太陽の夜明けに繋がるのは、そんな、獣神の角と眼の筋の取られて ヒトよりも人らしい、そのグラウンドダウンしてゆく人間性の、 これは、地味に滋味栄養のある、豊富な、例えば、あの古い語の 富国強兵論なども、こうした、筋肉質な糖質制限や、あるいはまた 腸の詰まりは、富国強兵に、カルマ・クリーニングを一跳びして パクチーのコンソメスープなどを啜る朝に、やはりあの、 トーストを欲しくなる、都市街の朝食風景は、ループする。あんな ループする朝食を求めて、世界は廻り続けているとしたら、 このグラウンディング指向も、また、おんなじ様に、新年のお雑煮を、 頂けそうな、そんな年末のグツグツ、カマドは周るのである。

跳び込んで、さては越えてゆこう、あの倫敦の壁。

反射式灯油ストーブとゆう、電池が2本あれば着火して、延々と火が灯して居続けられるとゆう、あの暖かい暖房器具に換えて、 けれども、いくら火が自慢してきたって、この寒さにはギャップの ありすぎて、孤高の熱源とさえ言える。そうとも思えなくない。 例えば、こんな夜に、ジョナサン・スウィフトのガリバー旅行記や、 ジェイムズ・ジョイスの、ダブリナーズや、ブルネルの蒸気機関の、 あのシラノドベルジュラックの引いては切なさとゆうものへ。 たどり着いては、首を振る。僕の、ポートレイト?これは、いや。 むしろ、地底のレストランへの入店チケットに違いない。 ペイパーバックライターのイントロを奏でながら、いらっしゃい!と。
そんな中で、また別の系譜へと、この流れでして、目をやると、 ジョンのピースプレイトと、プルーストの時のない、そんな エル・グレコの静止画と、フェルメールの祈りのない静止画と、 そうして、カスパーダーヴィドフリードリヒの動画のような、 祈りを、静止画と動画に織り交ぜて平和を祈った、ダンテの あの、天国と地獄には、とにもかくにも、動きの中の静けさ。
大晦日を迎えられたのは、身体に感謝とはいえ、なぜかしらの 糖分がすべて抜けたかのように、フニャっとしてしまったので 何かしら食べていようと、寝正月とお正月料理を拝借する。 魚卵は、女性ホルモンにて情緒安定し、かまぼこ、お餅などは 練り上げる消化力を推し進める。とにもかくにも年末から三が日は ほんとうに終わりと始まりをないまぜにして、全然のとやかくゆう、 あのサナギの産褥の時期である。もう、ほんとうに生まれ変わって 蝶に羽ばたくこと、はばしく麗しやかに、その飛翔は、まるで
カルマクリーニングをひとっ跳びして、掻き削がれたオーラの 全体性の発露とはかくゆうこんな、絶対的に阻まれた主観性だ。 何かが、1年の糖分のあまさとして、大晦日の業火に灰と化し、 新年の三が日はとにかく、食べて寝て、練り上げて、寝て。 そうして、思考知性の小さなままの、不死鳥のヒナまでが、何か 新しいスタートのしるべのようにして、現れてくる。そんな、 切なさではいられない。けれども、業火には、もう絶やされない。 すべての出逢いと別れは、一新され、そうして、知性の発現している この、小さな飛翔体によって、希望を持ち抱きながら、すすむ。
こんな、混沌とした新年には、もうすぐ、何か道しるべを掴める。 といって、希望を持ち抱きながら、…