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知恵と権利にアブラカタブーラ

人の知恵は尊い。人の知恵はしかしながらお節介。
地球全体のことを考えてくると,知恵は身に着いたように
頭でっかちとゆうか,眉間に角が生えてくるような。そんな
お節介な,知恵思考に,ただ念じるとか,開放するとかの,そんな
自分の腰湯の高さで水浴びをしていると,ふっと,想うのだ。その,
権利を否定しているではないか!?確かに人間は消費しかしていない。
地球にとっては搾取者かも知れない。けれども,水に浴びていると,
僕にも生命はある。その部分の感情のあるいは身体の権利を。また,
取り戻そう。とゆう,生命の権利性を再び搾取者になっても良いから,
感情体,それは身体中心性をもたらす最期の生命の権利主張。当然の,
陶然として,陶然ながら,当然のことなのだけれど,最期の生命は,この
エーテルの『私』を捨ててもいいの?と問いかけるのである。

『私』は,日曜日に市販の痛み止めを第一類とゆう種類のそれを探して,
『日曜は,薬剤師さん不在』とゆう言葉を三軒目に聴いてから,ようやく気付いた。
そう,生命の不在。声を出さず,自我をもらさず,そうして,記憶の影から
ひっそり身を屈めて息を殺している,この生命権利。
そうだなぁ,エンパス指向とゆう,感情体優位の志向は,脳内にやっぱり,
生命権利より,知恵の統合とまで,駆け回って,プラムの実をほおばる
それは,床下に穴を掘るような,まさに温泉をさがす。ある無謀な旅なのだ。
権利=生命=自我を否定する。そんな,どこから克己感性や,修行本位また,
例えば,『大人になる』ってゆうのは『感情を否定すること?』なのか,

人の知恵は尊い。人の知恵はしかしながらお節介。
地球全体のことを考えてくると,知恵は身に着いたように
頭でっかちとゆうか,眉間に角が生えてくるような。そんな
お節介な,知恵思考に,ただ念じるとか,開放するとかの,そんな
自分の腰湯の高さで水浴びをしていると,ふっと,想うのだ。その,
権利を否定しているではないか!?確かに人間は消費しかしていない。
地球にとっては搾取者かも知れない。けれども,水に浴びていると,
僕にも生命はある。その部分の感情のあるいは身体の権利を。また,
取り戻そう。とゆう,生命の権利性を再び搾取者になっても良いから,
感情体,それは身体中心性をもたらす最期の生命の権利主張。当然の,
陶然として,陶然ながら,当然のことなのだけれど,最期の生命は,この
エーテルの『私』を捨ててもいいの?と問いかけるのである。

とにかくも芥川氏の小説みたいだけれど,僕は大人になりたい。だから,
最期のエーテル生命を捨てて,権利を放棄したい。そのために克己感性,
知恵の憂鬱と,他者=地球=環境のすべてを,エンパス指向に託してきた。
新しい沃野。広い地平線上に向かって,こう叫ぶとな。
『知恵と権利に,アブラカタブーラ』
この『私』の中から『もう一つの私の双子宇宙』は抜けて,放出されるから,
多分目の前には地平線の拡がるのだろう。ってゆう,
”あやむや”な放出点を見つけては,はあ,どうなんだろう?知恵と権利。もう,
問いに答えは出ないのだけれど,僕は個人主義よりインド派のヨガ指向。の
だから,修行して解脱しちゃうなんて思わないけれども。あるいは,あやふやな
いいや,うやむやにして,解脱しちゃうなんて言わないけれど。多分,”自我”って,
そうとう厄介な数理系の難問でもあるのだな。ただ『大人になる』ってだけでも,
相当な”あやむや”加減ですね?


こちらは如何?

三島文学におけるニニギとジングウの関わりにつき。

三島文学におけるニニギとジングウの関わりについて,その 両者の,ニニギとジングウの異性同士の神々の天孫と八幡神の つながる所に,甘酒より酵母を採ることと,お米を炊いて頂くことの その両面性のつながるような気のして,抑圧の残酷に響く時も, それの獅子と舞うような心地。また,女神のスピリチュアリティと, 咳込む男神の綿帽子に,無論,秋の木陰にもう舞い散ってしまう紅葉の ダンスさえも,そのように,むろんの事。それは残酷な抑圧ではなし, トビナガスネヒコ=大黒=タケミナカタ,ニニギ=神功=タケミカヅチの, そういった,縄文と弥生の入れ替わりのあったとしても,果たしての 自分のジャーマンポテトとバゲット・サンドの対比を好き嫌いしてみたって, 濃いブラック・コーヒーはフランスパンには合うものだし,ビターなチョコも リンゴのシードルなどの酸味も欲しくなるところ。まだ,酸味の必要な時期に でも,いくらそれだって,にゅうめんにはカツオ出汁だしビネガーは入れない。 決して,そうめんにも,暑いからと言って,オイスター・ソースのつゆは,あまり ススまないので,和食を冬に,中華を夏に食べるにあたって,季節自体は入れ替わる ことは,ないのだから。時代性として,ポスト・天孫降臨などは起こりそうもない。
キッチンの照明を換えてもらった節,知り合いの電器屋さんから,父と同い年と伺って 驚いた折には『私も,入換え時で,車も,この間あと先あまり要らないのに替えました』
と聴いて,ああ,そうか。IH調理器も見てもらって,ガスに替える話をしていた矢先 前回のその話題を踏んで,よもやま話をして下さったのだなあ,紅葉の季節に実に風情の あって,落ち葉も,そのように電器を換えて行くさまにも似て,季節と入れ替わり移る。 家の奥さんの,朝の出勤時に,目の前で接触事故をした折などは,正直ぼくの方の動揺は あまりに動転して激しく,それで,奥さんは冷静だったらしい。昼にもなって,ようやく 電器屋さんに渡し余った珈琲缶などを啜って一息つく心地。その車で先週よりの,旅行を 予定していたあげく,天孫降臨の名所旧跡めぐり観光を考えていたものの中止になって, なぜかぼくの方は,ホッとしている。不可思議なくらいホッとしている。それはたぶんの 小難に切り替わったように,無意識は安堵しているのだろう。ガスに替えるようにして, 祖父母か…

エーテル体質は,お炬燵の昼間意識

経済的な観念の上に,聴覚を用いるのか,さて,視覚は, エーテル体質は,お炬燵の昼間意識によって,幻視の ように進む,エーテル的経済体質の,それは秋の日の 田園風景。かくのごとく,瞑想式にモノを考えるのならば 幻視を支える頭の各種感性は,まず水分補給をし,深呼吸, それよりの座敷に座ってモノを描く,そんな執筆習慣より。 視覚によって,経済を支えず。聴覚によっても,まだ頼らず。 手先指先に慣性を集中して,集中力によって慣性的に支える, それが,エーテル体質は,お炬燵の昼間意識の幻視経済体質。 大地の親和を図るのと同時に,何によって浪費するのかさえ, 気力=生命力=エーテル式にモノを把えて,消費を試みる, それが,エーテル式経済体質。瞑想的でもあるけれど,ようやく そういった,安心できる,精神的な自給自足の循環性に至った。
何か,糖代謝とか,セロトニンのような,そういった自給式の 安定した生活を可能にする,消化一般耐性の,農耕定住化なので, エーテル体質は,お炬燵の昼間意識による,この例えば糖質制限など 肉食や,生食菜食との関連は,一般の三食常識による栄養補給に よっても解決される,ハイキングと,ふくらはぎマッサージと, 咳風邪の過程に,何とか自力で治した,トンカツや,アイスクリームを 臆さない,常識的な栄養補給の何と功を奏したことなのか,多分は。 そうして,一般常識としての経済は,消費者としての住民は一律とゆう 真逆に把えれば『生産者としての人間性は多種多様で掴めない。』って, 言っていることの常識性は,つねに循環していなかったのだけれど, 何故か,昨今台風の通り過ぎたあとでは,そんな国土親和性とゆう磁気的 変化とともに,再編成する転換変貌する,消費社会の姿を,垣間見る,その 訪れは,夢見るイマジネーションの世界を連想させて,それはほぼ瞑想的な 幻視経済体質の到来,いわんや生産者の対置されない経済の薄明僥倖なのだ。 くらげのように生きる必要が,災害時の自然一体化には,必要であるから。
なにがそんなに,エーテルとか,大地との親和性を感じ考えさせるのだろう?
そうして,経済性や精神性の一貫した循環を垣間見させてくれる,この幻視は
一体どうして,瞑想的に安定して一体訪れるのだろう?ひとつは,そんなに,
ふくらはぎのマッサージの効果のあったのだろうか?とゆうことと,そうゆう