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中途半端怪談。

何事も,中途半端な時ほど生産力は高い。まるで,
青い恋愛はしたいけれど,それは小説の中だけで,
事実は青い色だけではゆかなかった,まるで,
酒蔵の奈良漬とゆうのを頂いて,あんまり美味しいし
酔っぱらってしまうのんで,運転は出来ないのかな。
とか,歯磨きはしたけれど,夜長にとゆう季節ではないけれど
起き放しにノド飴を舐めてしまう,こんな何事も,中途半端な
時にほど”それ”を理解できる,青い恋愛とは大谷崎,そうして,
奈良漬は酒蔵モノは芥川賞,夜更けのノド飴は太宰治だ。何の
フリークかと言えば,そうゆう現実の生産的理解力をもってすれば

やっぱり中途半端怪談,道元禅師は,太宰治と精神史を共にしては
いないのか,なんて,ここで何時も”前世ゲーム”と言って,”精神史”を
公開ならぬ”妄言”しているのですが。
”精神史”とは『当人は最も影響を受けた”精神史”を担っているものである』
とゆう設定のもので,それを最も影響の受けた”精神史”の僕個人としての
”精神”の”移り変わり”のようなものをメモしているのですが。決して,身体の
特徴や魂の是認をしているのではなくって,ここからは哲学っぽいですけれど,
むしろ”精神”は,自我や,思想を放念してしまった無我っぽい状態の中に残る,
朧げな明りのようなものなのであって『実体ではない”精神史”を描こう!』ってゆう
そうゆう感じの朧げな明りの移り変わる,精神史の鬼火飛行をここではやってる。

何事も,中途半端な時ほど生産力は高い。まるで,
青い恋愛はしたいけれど,それは小説の中だけで,
事実は青い色だけではゆかなかった,まるで,
酒蔵の奈良漬とゆうのを頂いて,あんまり美味しいし
酔っぱらってしまうのんで,運転は出来ないのかな。
とか,歯磨きはしたけれど,夜長にとゆう季節ではないけれど
起き放しにノド飴を舐めてしまう,こんな何事も,中途半端な
時にほど”それ”を理解できる,青い恋愛とは大谷崎,そうして,
奈良漬は酒蔵モノは芥川賞,夜更けのノド飴は太宰治だ。何の
フリークかと言えば,そうゆう現実の生産的理解力をもってすれば

太宰治=坂本龍馬=今川義元=道元禅師=源九郎義経=弘法大師空海の,
日本キリシタンの源流のような”鬼火飛行”を精神史の中にみるのですが。
これは常にその個人の中にうつらうつら眠っては醒める”精神の燈火”の
ようなものを説明強く言えば『文学的に追う”妄想的実体拒否鬼火飛行機雲”』の
形態をとってゆく言うなればそうじゃなければ文学の灯は消えてしまう。ので
以て多分,現実のなかにサスペンスは産まれえないのだとしたら,その醒めていない
時刻の眠っている”時間”に,そのサスペンスの産まれでる,決して,醒めている
時間には産まれえない,それは”鬼火飛行の妄想的精神史”。だから,何て中途半端。
けだし例えば産まれでた”精神史”のその飛行経路を眺めれば,個人の思想態も顕れて,
僕の自身の傾向の中では,多分こうゆう”精神史”を追うことの中に,個人的な
生産的な中途半端の時ほど運ばれる理解力を,鬼火舞う”精神史”の中にも,ひとつだけ
残る,醒めた”精神”を追って,炎舞する胡蝶の夢。また,瞑目をして,理解力を働かせる
とゆうのはもう,中途半端な理解力をより”サスペンス”でも良いのじゃないか?その
論理に至る。

こちらは如何?

ピンチはチャンス,月下微塵なる,美しさの揺籃。

エネルギッシュに,身体の震顫してくる。さあ書かなけりゃ, 遺言をのこすような心地で,イチかバチかのセッションに移る。
童謡は本当に良いものだ。メロディーラインの裏には,必ず, ものすごいロックの詰まっている。ブルーズもグルーブ感も, 何故かしら,その童謡の中には詰まっている。歴史だ,歴史の 本質は,ただに歩けど見付からないものはないのだ,言わんばかり。 必ず,見付けだしてやる,古事記では鏑矢,アーサーのエクスカリバー。 ヤマタノオロチの天の叢雲。果ては,イザナギにとってのイザナミ。
文学性のなかでは,イザナミは僕にとって,大谷崎であって,または イザナギ=オオナムチの類は太宰なのだけれど,また,イナダ=ヤガミに 関して言えば,アマテラス=ヒミコも映って同一,四女神も芥川氏である。 最近,つとに発見した気になって大喜びしている,堀辰雄=スセリビメとゆう, 勿論の事。スサノオは漱石山人である。こうして,文学と日本の神々を対照。 この激昂する神話の文学史に一石を投じるように,自己観察に這入って一服。
客観的な視点は有無を言わさず,もう身も蓋もない皆無と言って良い。あまり, 意味をなさない。だからこそ,客観視の代わりに,その対角線上の神話性に。 そうして,その裏は,本当の自分探しの,情熱的な自即他で自己同一性でもある。 アイデンティファイされる,冷静さよりの情熱による神話よりの裏には自分探しの この先は頭の廻らない限界水域である。もう,だから,また,客観視して,冷静に。
この自分,本当の自我とゆうものは単に主観性ではなくって,客観視するEGOである。 だから,それを観察したい。情熱は多分にある。それは悲劇的な反骨精神による,その 情熱は,EGOの特性を良く現してはいる。そうして,その内部に繭のなかより垣間見る この幼虫は何者か?僕を例にしているのはいるのだけれど,決して天蚕にしてしまわない そうして,彼は?良く観るのである。彼は?
そうだ,彼は,(と,まずは神話性に移ると)冷静に客観視した神は,オオナムチside。 そうして,オオナムチは跳んでった。見事に,天蚕として,弾けた。なので,彼に感謝。 そうして,我に還るのだ。ここの”我”はGroundingした『私』とゆう「彼」で,ワケの 解らない事になりそうだけれど童謡とゆうものもこうゆう世界観に比して造られたのだ。 『歴…

翻る,ヒキガエル,がまがえる。

『アユ釣りをして,家に帰る,おじさん。最高だよね,』 車で川沿いを走る道すがらに奥さんの放つ一言は鋭い。 確かな循環する趣味とはそうゆうものだろうな。キセルを 咥えてパチンと叩き落す,ぬらりひょんのような北斎画を 思うに付けても,日がな竿を垂らして持ち帰る,夕食に, まだビールが欲しいので,塩焼きと片手にグラス。こんな, 落着き払った趣味,と言ってはあてつけがましいのだけれど, やっぱりそれは循環する趣味に違いないのだ。主夫=シェフ, ムードが一転,こうして,居続ける時間軸や,空間腺の,一変 変わり果てることを想像している訳でもないので,ぼくも没頭, ただ,趣味に没頭していれば最高の時間が過ごせる質なのだ。
食事の事に関しても食べないでいる事と,浮遊感と,夢見心地の そうゆうグラウンディングの問いを発すれば,極力は,不食。 有無を言わさず”無”に至る地点。そろそろ冷室茶房とゆう過ごし方 お茶を啜り,空調の効いた室内より,湯気の揚がった茶房にて過ごし 屋外よりは水風呂を浴びて,身体を一瞬冷やしてから室内に這入る。 とゆうそんな夏の幸せは過ぎて行った。すぐに,虫の音ウォッチャー。 網戸越しのバード・ウォッチングもしていて,屋外よりの秋風は今度, より一層に静かで,そうして。がまがえるに囁かれて目が覚める。お前, 働きに出て行け,お前。ずっと,こんな唸りの囁きを聴いていて,目を 開けると,静かで,より一層に誤魔化しながら,ヒキガエル,Woo!っと 鳴きやがった。
なので,集中力は秘密の趣味のカギ。カギを握るその集中力を,常に何時も
呼び戻せる,そんな”覚悟”,これは記憶とゆうもので,記憶する”覚悟”は,
とっても必要だ。がまがえるさんにはそうゆう鳴き声に教わった気のする。
だから次元変異,時相変位のごとく,そんな翻りを僕は求めている訳でない。
ただ趣味に没頭していたい。その結果の翻りなのだからそれは本望だ。とゆう,
趣味に没頭できる”集中力”,そうして,Consolation=ほころびを繕う,何らかの
執着や,意地とでもゆうような,”集中力”の発露を待っている。僕は追及すれば,
”集中力”とゆう執着や,意地。はたまた,サイコキネの起こりそうなほどの,執念。
こういった,鐘を突くLONDON塔のカギを持っているのだから,Ding-Dong鳴らす。
文学ファンなので,鏡に…

こうして,ここで一翼の砂になる

業のエネルギッシュな奔流と,ロマネスクをつなぐ何か, そんなものがあれば,試してみたい。つなぐ何かはきっと, 印度カリーを食べた帰りにお腹いっぱいの酵素質の快楽だったり, 例えば,快楽犯などと言って,猟奇的なイメージを抱くことのある ああゆう性癖は,きっとほんとに悪い”クセ”だったりしているけど, もっと真逆にポジティブな意味で,お腹一杯だから満たされている。 そうゆう,快楽の模範例となって,業とロマネスクをつなぎたい。 昨日から,業とロマネスクの関連如何より,限りなく聖性に親づく, その瞬間に,ひとはきっと俗人の祈りに這入るのだ,とゆう考えを 試してはみたけれど,それは,俗人として然るべきタイミングで 食事をしたり,そうしてお腹いっぱいで結ばれる”業”=ロマネスク。
イザナミ・アマテラス・イシス=大谷崎・芥川氏・太宰治の対照を,
しっかり,更には”ロマネスク・祈り・業”=大谷崎・芥川氏・太宰治の
深海のロマネスク・限界の祈り・俗塵の業と対比しては較べて置き換え,
さあ,聖性とは”業とロマネスク”をつないだ何かであったのだ,と。
そうして『聖なる祈りは,この現実で,俗塵の沈んでゆく深海において,
初めて俗世的な属性を手に入れる。こうしたお腹一杯の受胎とは,まるで
”業”の鎧を着たような。聖性とは”業とロマネスク”をつないだ何かであったのだ』
と,こうして,ここで一翼の砂になる。砂上の楼閣のように,拙く切なく,
崩れ去るのを待ちながら。”業とロマネスク”は,こんな砂まじりの雪みたいに
儚く,待っているのだ。一瞬の時間の砂城のように崩れ去るのを,待ちながら。
ひたすらに時間は,陽光を連れてきてはそのまま木洩れ日となり,そよ風にまた
連れ去られてゆく。

一杯のコーヒーをいれて,パインのフルーツを合わせて,夜の静かな中で頂いた。 こんな常夏の味覚意識のなかでも虫は鳴いて,そよ風はすこし冷たいので,だから。 猟奇的な意識とはすこしおさらば。追及する気もなければさらに研究する気も, あまりない,それは”残酷さ”とゆうのは,ポジティブの裏返りなだけで,夜の静けさ には,みな鎮まるものだから,怒りや哀しみの翻り,常夏の味覚意識のなかでも虫は鳴いて, そよ風はすこし冷たいので,だから。頭を洗って,歯を磨いて,そうしてお茶を啜って, おさらばのあいさつを,この”業”の鎧の脱ぎ捨てなが…