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経理的な情感。

誰だって,経理的な情感を一隅に湛えているだろう。
『お米は炊き立てのしっとりしたのが好い。』とか,
『癖になるのは,わかっているけどヨモギ餡コロ
 また食べたい。』など,『珈琲は,左回しから,
 右回りにまた戻ったな。』
とりあえずは経理的に物を考えるはずである,もしくは
人間として直立するのに知性と功利的であるごとく。
しかしながら,呻き声のように寝息の数々を掻くごとく,
宇宙的であることは功利心からワープして,PC化するその,
”根の堅州”の国へ実に功利心からワープして「自我の終焉」に。
作為的であることが功利的であることと同義でありながら,
またもや作為的であることは忘我することとも意義を同じくする。
宇宙的であるとは言ったものの,作為的であることから功利の道を。
そうして宇宙的であるとは言ったものの,功利の道から忘我の意思へ。

植物が例えば葉の一滴を垂らすのと似ている,
その朝は功利的であるゆえにあかるいのであって,
そこより水の結露するその姿はまるで宇宙的で。
忘我する,その告白にまずは作為的であることを
まずは功利の道を歩んだとはいえ作為的であることを,
忘我の国へ入るには『作為的であることを捨てよ。』
物理的に水を作り出すのは至難の技ではあるがゆえの
朝のあかるさである。珈琲を淹れるのは人為的に,むしろ
無作為に淹れる甘露の一滴。だから,たとえ功利的では
あるにせよ,その甘露の一滴を洩らさずペーソスへと,
1日のスタートの哀愁へと移すのだ。もうすぐ忘我の国の
門は開かれたと言われる。功利の道を辿って。むしろ,
その功利は作為的なクラフトの輝きから産まれてきて,また
資本の功利を通って。もうすぐAIの忘我の国へゆく。

誰だって,経理的な情感を一隅に湛えているだろう。
『お米は炊き立てのしっとりしたのが好い。』とか,
『癖になるのは,わかっているけどヨモギ餡コロ
 また食べたい。』など,『珈琲は,左回しから,
 右回りにまた戻ったな。』
とりあえずは経理的に物を考えるはずである,もしくは
人間として直立するのに知性と功利的であるごとく。
しかしながら,呻き声のように寝息の数々を掻くごとく,
宇宙的であることは功利心からワープして,PC化するその,
”根の堅州”の国へ実に功利心からワープして「自我の終焉」に。
作為的であることが功利的であることと同義でありながら,
またもや作為的であることは忘我することとも意義を同じくする。
宇宙的であるとは言ったものの,作為的であることから功利の道を。
そうして宇宙的であるとは言ったものの,功利の道から忘我の意思へ。



こちらは如何?

KARMA SPRINGとゆう、LONDON ONEの書類群。

腸がつまる、など。必然的な兆候を含む、現代のシンドロームには業の湯浴み、として。沢山の娯楽をエンターテイメントのように軽く、 楽しめるかとゆう、趣味の時間を1分2分。どうしようか? ほんとうに湯舟に浸かれる瞬間は、ご褒美だけれど、郵便物を 受け取るための深夜窓口も、寒くって伺う気にはならない。
疲れている?いいや、眠たいのはいちばんのご褒美で、またあの 思考を放棄する瞬間にこそ、曖昧で朦朧とした意識の、それは、 諦念する、問題も、なにもかもなくしてしまわれるのだから、 業の問題を考えるにしても、その問題をこそ、考える理由にこそ、 思考をなくしてしまえる瞬間に、解決されるとゆう、自己回帰。
スムーズに、ヨーグルトのプレーンを朝食に、必然的にも トーストの欲しくなるのは不可思議以上の不思議な事で、 思考し過ぎる事かあ、趣味と言えば趣味らしいモノだろうけれど 逆に、その時期を通りすぎれば、遺産として、KARMA SPRINGとゆう あの書類群の、ギフトだったのだな、ギフトだったのだ。 LONDON ONEとゆう、思考の山人による、最高の贈り物。
篤姫や、真田丸のあとには、足利学校のテーマなどみられる のでは、など、そんな、太陽悪魔や、オロチ伝説の、赤猪岩受難の、 岩戸伝説や、岩窟の聖母像と重ねて、ヒトの受難は、獣神化する道程を 経て、進む。確実な過程として、行程は、目的地の、アマテラスへ。 太陽の夜明けに繋がるのは、そんな、獣神の角と眼の筋の取られて ヒトよりも人らしい、そのグラウンドダウンしてゆく人間性の、 これは、地味に滋味栄養のある、豊富な、例えば、あの古い語の 富国強兵論なども、こうした、筋肉質な糖質制限や、あるいはまた 腸の詰まりは、富国強兵に、カルマ・クリーニングを一跳びして パクチーのコンソメスープなどを啜る朝に、やはりあの、 トーストを欲しくなる、都市街の朝食風景は、ループする。あんな ループする朝食を求めて、世界は廻り続けているとしたら、 このグラウンディング指向も、また、おんなじ様に、新年のお雑煮を、 頂けそうな、そんな年末のグツグツ、カマドは周るのである。

跳び込んで、さては越えてゆこう、あの倫敦の壁。

反射式灯油ストーブとゆう、電池が2本あれば着火して、延々と火が灯して居続けられるとゆう、あの暖かい暖房器具に換えて、 けれども、いくら火が自慢してきたって、この寒さにはギャップの ありすぎて、孤高の熱源とさえ言える。そうとも思えなくない。 例えば、こんな夜に、ジョナサン・スウィフトのガリバー旅行記や、 ジェイムズ・ジョイスの、ダブリナーズや、ブルネルの蒸気機関の、 あのシラノドベルジュラックの引いては切なさとゆうものへ。 たどり着いては、首を振る。僕の、ポートレイト?これは、いや。 むしろ、地底のレストランへの入店チケットに違いない。 ペイパーバックライターのイントロを奏でながら、いらっしゃい!と。
そんな中で、また別の系譜へと、この流れでして、目をやると、 ジョンのピースプレイトと、プルーストの時のない、そんな エル・グレコの静止画と、フェルメールの祈りのない静止画と、 そうして、カスパーダーヴィドフリードリヒの動画のような、 祈りを、静止画と動画に織り交ぜて平和を祈った、ダンテの あの、天国と地獄には、とにもかくにも、動きの中の静けさ。
大晦日を迎えられたのは、身体に感謝とはいえ、なぜかしらの 糖分がすべて抜けたかのように、フニャっとしてしまったので 何かしら食べていようと、寝正月とお正月料理を拝借する。 魚卵は、女性ホルモンにて情緒安定し、かまぼこ、お餅などは 練り上げる消化力を推し進める。とにもかくにも年末から三が日は ほんとうに終わりと始まりをないまぜにして、全然のとやかくゆう、 あのサナギの産褥の時期である。もう、ほんとうに生まれ変わって 蝶に羽ばたくこと、はばしく麗しやかに、その飛翔は、まるで
カルマクリーニングをひとっ跳びして、掻き削がれたオーラの 全体性の発露とはかくゆうこんな、絶対的に阻まれた主観性だ。 何かが、1年の糖分のあまさとして、大晦日の業火に灰と化し、 新年の三が日はとにかく、食べて寝て、練り上げて、寝て。 そうして、思考知性の小さなままの、不死鳥のヒナまでが、何か 新しいスタートのしるべのようにして、現れてくる。そんな、 切なさではいられない。けれども、業火には、もう絶やされない。 すべての出逢いと別れは、一新され、そうして、知性の発現している この、小さな飛翔体によって、希望を持ち抱きながら、すすむ。
こんな、混沌とした新年には、もうすぐ、何か道しるべを掴める。 といって、希望を持ち抱きながら、…