吹き荒ぶ風の中に。

キリシタン大名にとっての”九郎義経”は中心で,
”太宰=イスキリ=龍馬”vs.”漱石=バルタザアル=太閤秀吉”の
あのキリシタンの龍馬とゆう幻想には大分苦しめられていた。
今は”トーマス・マン=聖ヨゼフ=ゲーテ”の文豪を神にして,
本当に,キリシタンの闘いとは,かくも激しいものだった。
闘いとは,内面のそれで間違いはないのだけれど,早朝には
”珈琲と,鯛焼き”の,深夜には「ヨモギ餅を餡コロにして。」の
今は”トーマス・マン=聖ヨゼフ=ゲーテ”の文豪を神にして,
だいぶ居場所を見つけられたような気のする,桜のつぼみ。
水回り,とはゆうけれど。水回りには”業の泉”に浸かって。
それを回避するよりも停まって楽しんでみる方が少なからずも。
だから,浄化を叫ぶより,「愛は,”業の泉”に湯浴みする。」と,
水回り,とはゆうけれど。水回りには”業の泉”に浸かって。

何かをテーマにするような必要もない気はするけれども,ことさら。
テーマ以上に悲劇は”テーマ”になるのだから,それは,ほんとうに。
実吉捷郎(さねよし・はやお)さんとゆう,独文学者の居られて,
いつかずっと夢枕に立っていた思いがあって,名訳を,ほんとうに
沢山のこされた。ほんとうにマンの『トニオ・クレエゲル』や,また
『ヴェニスに死す』などは白眉である,だから夢枕に立ったときに,
僕は,とっても嬉しい気のした。
”太宰=龍馬”と”漱石=秀吉”の,この系譜は,ほんとうに思いもよらず。
悲劇中の悲劇のなかにはもうすでにロマンチックさの逆行が見られるので
モンゴリアンの系譜が獅子の姿をして飛び交うさなかに,禅定に居るあの,
右大臣実朝の姿は,後醍醐天皇の掛軸と,ふと,重なり合う。甲冑の
むしろ落武者の姿は岩石のように堅い漱石のこころを,治めては弛ます。
だから捕食する蛇と微動だにしない蛙の恋の極地のようなもの。かれは,
蛇の心臓を持つ蛙の脳髄。さては蛙の臓器を抱く大蛇の知性。
もう,そんな感じだから,水の穴を穿つ受け身の頑強な巌のような,文豪の
日本史は,こうやって,巌より水への変遷をたどるもう,キリシタンはその,
難民としての歴史より,祈りの対象としての”水ようかん”のような甘味として。
トーマス・マンは餡子好きだろうなぁ。なんたって,ロマネスクは,堅実さより
それより彷彿として現われるデカダンスのような。

キリシタン大名にとっての”九郎義経”は中心で,
”太宰=イスキリ=龍馬”vs.”漱石=バルタザアル=太閤秀吉”の
あのキリシタンの龍馬とゆう幻想には大分苦しめられていた。
今は”トーマス・マン=聖ヨゼフ=ゲーテ”の文豪を神にして,
本当に,キリシタンの闘いとは,かくも激しいものだった。
闘いとは,内面のそれで間違いはないのだけれど,早朝には
”珈琲と,鯛焼き”の,深夜には「ヨモギ餅を餡コロにして。」の
今は”トーマス・マン=聖ヨゼフ=ゲーテ”の文豪を神にして,
だいぶ居場所を見つけられたような気のする,桜のつぼみ。
水回り,とはゆうけれど。水回りには”業の泉”に浸かって。
それを回避するよりも停まって楽しんでみる方が少なからずも。
だから,浄化を叫ぶより,「愛は,”業の泉”に湯浴みする。」と,
水回り,とはゆうけれど。水回りには”業の泉”に浸かって。

コメント

こちらも如何?

発想する八艘。

たぶんとんでも。

月と,この星。

頭の回転=思考角質化。