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豆乳は畑のお肉。

右手に,緑色の芥川の笛吹き貝を握るようにして,だんだん
削られて,それらも海に風化してゆく。残るのは波間のさざめき。
陽の光にも同化しなくなった,ロマネスクにも調和しないのは
人の異常心理を見続けて,やはり研究テーマよりも,祈りを,
知性の極致よりも感情の素潜りを選んだがため。ぽつ,ぽつと
祈りは雨粒のような調子をしながら地面まで届いてゆく,さあれ
もうすぐ地上につきそうな,そんな調子で降り切らない,とんだ
厄介者もいる。それは人間の姿で僕の生き写しなので,調子とは
言えば,やはり家の壺に這入ってしまって,身体を持たない,とんだ
はぐれ者の妖精さんを想像しては,やっぱり人間の下部組織とは言え,
胃腸を持つ,消化器官を抱くその四肢五体のどれほどに地上的で,その
Groundingしているものか,身体を持つとは,壺に這入った”壺中天”では
ない辺りの本当に美しく愛おしい。

身体のどよめきだって,それは貨幣制度の終わりにあるTowerの崩れる,
そんなざわつきにもよく似て,貨幣も消化器官と同じくして胃腸組織の
ようなありかたをしてれば,いずれ古くなることはあっても,古の知恵,
そうやって,崩れることはないのだろうに,経済制度?うん,いいや。

右手に,緑色の芥川の笛吹き貝を握るようにして,だんだん
削られて,それらも海に風化してゆく。残るのは波間のさざめき。
陽の光にも同化しなくなった,ロマネスクにも調和しないのは
人の異常心理を見続けて,やはり研究テーマよりも,祈りを,
知性の極致よりも感情の素潜りを選んだがため。

浮かび上がってくるのは,船藻とも呼ばれる,航海を経た知性なのか,
はたまた,生命のホムンクルス,新しき桑実態。誕生する息吹なのか,
それかもしくは,赤いあのなんだとか言ったな,護衛艦の見学の際,
波止場に浮いていたあのアカアシクラゲのような猛毒を帯びたやつ,
あんなたくましくスパイシーな存在なのか,そうあってほしくはない,
けれども,やっぱり大豆粉を練って,白湯と合わし,テンサイシュガーと
加えて呑んだような,非常に最近は,五分がゆから,出汁,豆乳で,
くつくつと煮込んだ豆乳リゾット風などに惹かれて,また味噌を加えれば
それは畑のお肉だ。動物性とゆう表現にどれほどの意味があるのか,訝しく
昨今は可逆的にまた,豆乳の植物性に垣間見る”畑のお肉”調理システムを
料理に覗いてみるのにつけて,そういやあ僕はもうすぐ,Groundingする。
クラゲか,誕生なのか,海藻なのか,そのあたりはさだかではないにつけ,
抗生剤と風疹のワクチンによって,密かにすすむ,”私の中の祝祭”。
これらをご覧に入れながら芸術家の渡世,その活動家の暗瞑のような,
ほの暗い黎明を待つそんな心地で夜明けを待ちましょう。

こちらは如何?

KARMA SPRINGとゆう、LONDON ONEの書類群。

腸がつまる、など。必然的な兆候を含む、現代のシンドロームには業の湯浴み、として。沢山の娯楽をエンターテイメントのように軽く、 楽しめるかとゆう、趣味の時間を1分2分。どうしようか? ほんとうに湯舟に浸かれる瞬間は、ご褒美だけれど、郵便物を 受け取るための深夜窓口も、寒くって伺う気にはならない。
疲れている?いいや、眠たいのはいちばんのご褒美で、またあの 思考を放棄する瞬間にこそ、曖昧で朦朧とした意識の、それは、 諦念する、問題も、なにもかもなくしてしまわれるのだから、 業の問題を考えるにしても、その問題をこそ、考える理由にこそ、 思考をなくしてしまえる瞬間に、解決されるとゆう、自己回帰。
スムーズに、ヨーグルトのプレーンを朝食に、必然的にも トーストの欲しくなるのは不可思議以上の不思議な事で、 思考し過ぎる事かあ、趣味と言えば趣味らしいモノだろうけれど 逆に、その時期を通りすぎれば、遺産として、KARMA SPRINGとゆう あの書類群の、ギフトだったのだな、ギフトだったのだ。 LONDON ONEとゆう、思考の山人による、最高の贈り物。
篤姫や、真田丸のあとには、足利学校のテーマなどみられる のでは、など、そんな、太陽悪魔や、オロチ伝説の、赤猪岩受難の、 岩戸伝説や、岩窟の聖母像と重ねて、ヒトの受難は、獣神化する道程を 経て、進む。確実な過程として、行程は、目的地の、アマテラスへ。 太陽の夜明けに繋がるのは、そんな、獣神の角と眼の筋の取られて ヒトよりも人らしい、そのグラウンドダウンしてゆく人間性の、 これは、地味に滋味栄養のある、豊富な、例えば、あの古い語の 富国強兵論なども、こうした、筋肉質な糖質制限や、あるいはまた 腸の詰まりは、富国強兵に、カルマ・クリーニングを一跳びして パクチーのコンソメスープなどを啜る朝に、やはりあの、 トーストを欲しくなる、都市街の朝食風景は、ループする。あんな ループする朝食を求めて、世界は廻り続けているとしたら、 このグラウンディング指向も、また、おんなじ様に、新年のお雑煮を、 頂けそうな、そんな年末のグツグツ、カマドは周るのである。

右側のチカラを抜いて、左肩をいきり上げる。

スーパーに出掛けるまでにも、右肩で考えて、そのトータルに見届ける事を優先していた。けれども、その優先度は右肩上がりには 決してならないものだった。トータルに全体主観によってみえる その眺望は限りなくミクロで、情報分析には役立つが、 現状認識には、あまり用をなさないのだ。 現実を見詰めるとは、想像によるものでなし、それは、 未来を無くし、その視点より時間を無くし、左肩上がりで、 あえて時間軸より、あるいはイマジネーションより、もっと 空間的に、リアリティは、期待も時間もない、悪びれたモノ。 スケジュールに関して、悪態をつくくらいの丁度いいのだ。 それは、左胸で考えること、そうして、論理的なリアリティは、 とっても毒づいて、リアリティに頑強に厳密な、 NO TIMEの様。
左胸で考える、それは腹で考える。すぐにはできなくとも、 とりあえず、両脚を伸ばして、アキレス腱を延ばす所より。 あぐらをかいて、息を吐いて、リズムを刻んで、背筋をのばす。 水出し風烏龍珈琲を呑みながら、右側のこめかみにかつては チカラを入れて考えていた、トータルな全体主観を、あえて クリスマスへの供え物にして捧げ、僕はいまもう、この 土の上に落ちた南天の実のように感じながら、土の酵素を身に 付けて、プーアール黒茶を啜るように、あんな感じで、むしろ サンタクロースのように1年の1度せかせか届けものに、 あくせくそれは、黒茶を発酵させる酵素は、毒づいて僕の 論理性リアリティとよく似ている。これは、烏龍珈琲のミラクルでも、 毒は薬にもなる、ホメオパシックな奇跡的酵素生成にも似て、 本当に、実際に効果的なモノとは、毒素を酵素に変質させる何か。