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月と,この星。

雨上がりの春の夜明けには,小鳥たちのさえずりがなつかしく
輝きはかがやいて,ピタピタと,響いてくる。
こんな雫の落ちる最中,地球に溜まった水分の酵素質は,きっと
神秘学にゆう”ルシファー”的な要素で,また隠れはしているけれど,
太陽に潜む熱射線のような熱体質は”アーリマン”なのだと,気付く。
この月と,この星を活きる僕たちには両者を取り入れていきることは,
必須項目のように感じられ,それが,現代のまた,”ソラト水”と”アスラ陽”の
間を行ったり来たりするこの,Groundingとゆう意味のことなのだ,と知る。
自ら”悪”として,Groundingしていきるとゆうことは,ただシンプルな,
この星と光りと水の中に潜む酵素質の中を活きる,とゆうそれだけの事なのだ。
雨水で珈琲を淹れるような,そんなことはまさかしないまでも,雨水で飴を
まさか練りはしないまでも,雨水が,小鳥たちに珈琲を淹れてあげたり,
炊飯などしているイメージは容易にするから,浄血作用や,排毒手順などを
講じる前に,雨上がりの春の夜明けには,小鳥たちのさえずりがなつかしく
輝きはかがやいて,ピタピタと,響いてくる。

パンタグリュエルのラブレー。霊界日記のスウェーデンボリ。ウェルキンゲトリクスは
緑の萌える砦の上で必死に妖精の匂いを嗅いで,ジョットの天文学的絵画要塞,そして
ロダンによる言葉の日本における数々の軌跡のそれはMichael,彼はミカエルの姿。

アレクセイ・ミハイロヴィチはピョートル大帝とエカチェリーナ1世の父君だけれど,
白金に光るその清純な軌跡はまた,貫徹する意志の奇跡の礎。また,カール・マルテルの
籠城しても敬虔に耐え抜く兵士の方たちの純真さには,やはり神の奇跡。そうして,また
その敬虔さは,彼ら”神”を称えたMichaelのウェルキンゲトリクスへと直結する。
深緑からの森の匂い。そこから遣ってくる数々の理性的直感。もうすぐ,遣ってくるだろう,
夏に備えて,衣替えをする自然の姿。

LONDON ONE,漱石=道鏡=太閤秀吉=小林一茶=源実朝=平宗盛=後醍醐天皇の
そのままその姿は”アウグストゥス=バルタザアル賢者”のライオン像。とんでもな話,
それは,そうだけれど今はない高輪のホテルに滞留していたその姿を思うたびに,それが
誰であれ,”アウグストゥス=バルタザアル賢者”だなぁ,と感慨深く,ライオン像とは
その髭を生やしたヨークシャテリア,憚らない言い方によって,LONDON ONE。

言葉の数には及ばないけれど,樹々の皮の間からことことと洩れだす,
そのフィトンチッドの香りの数々を嗅いでは,また掌を擦り合わせ,カロリー計算などを
しては,また掌を擦り合わせる。たいていカロリーの高いものは,お腹持ちの良いものだ。
システムは,より以上に,その表現である数値以上にシステム的であるから,物理も
評論も,そうゆう風に意味以上の意味を受けとらない程の,表現としてみるように,
つまり”システム>内容”でもあって,”システム<内容”の世界のようだから,意味や,
その範囲内の表現を,システム的により,システム以上にあるように。カロリー計算を
しながら,ただ呟いている。『ダルマ・シールド的だ。ダルマ・シールド的である。』

内面からの旅の修了は,外側に開気口を穴ほり,システム的に,物理数学的に,そして,
哲学的に”ダルマ・シールド”なる透明な,穴ほり後の轍を遺してすすむ,そういった,
ロマネスクな幌馬車の旅なのだな。

ようやく,頭を垂れ提げられそうな気のする初夏を迎える。

こちらは如何?

三島文学におけるニニギとジングウの関わりにつき。

三島文学におけるニニギとジングウの関わりについて,その 両者の,ニニギとジングウの異性同士の神々の天孫と八幡神の つながる所に,甘酒より酵母を採ることと,お米を炊いて頂くことの その両面性のつながるような気のして,抑圧の残酷に響く時も, それの獅子と舞うような心地。また,女神のスピリチュアリティと, 咳込む男神の綿帽子に,無論,秋の木陰にもう舞い散ってしまう紅葉の ダンスさえも,そのように,むろんの事。それは残酷な抑圧ではなし, トビナガスネヒコ=大黒=タケミナカタ,ニニギ=神功=タケミカヅチの, そういった,縄文と弥生の入れ替わりのあったとしても,果たしての 自分のジャーマンポテトとバゲット・サンドの対比を好き嫌いしてみたって, 濃いブラック・コーヒーはフランスパンには合うものだし,ビターなチョコも リンゴのシードルなどの酸味も欲しくなるところ。まだ,酸味の必要な時期に でも,いくらそれだって,にゅうめんにはカツオ出汁だしビネガーは入れない。 決して,そうめんにも,暑いからと言って,オイスター・ソースのつゆは,あまり ススまないので,和食を冬に,中華を夏に食べるにあたって,季節自体は入れ替わる ことは,ないのだから。時代性として,ポスト・天孫降臨などは起こりそうもない。
キッチンの照明を換えてもらった節,知り合いの電器屋さんから,父と同い年と伺って 驚いた折には『私も,入換え時で,車も,この間あと先あまり要らないのに替えました』
と聴いて,ああ,そうか。IH調理器も見てもらって,ガスに替える話をしていた矢先 前回のその話題を踏んで,よもやま話をして下さったのだなあ,紅葉の季節に実に風情の あって,落ち葉も,そのように電器を換えて行くさまにも似て,季節と入れ替わり移る。 家の奥さんの,朝の出勤時に,目の前で接触事故をした折などは,正直ぼくの方の動揺は あまりに動転して激しく,それで,奥さんは冷静だったらしい。昼にもなって,ようやく 電器屋さんに渡し余った珈琲缶などを啜って一息つく心地。その車で先週よりの,旅行を 予定していたあげく,天孫降臨の名所旧跡めぐり観光を考えていたものの中止になって, なぜかぼくの方は,ホッとしている。不可思議なくらいホッとしている。それはたぶんの 小難に切り替わったように,無意識は安堵しているのだろう。ガスに替えるようにして, 祖父母か…

桐の葉と,鳥獣戯画と,八束の剣と。

気づいたら,安吾の地粉のような練り方と,三島文学の諧謔に, 独特の美学とを合わせたような感じで,堀ロマネスクの蕩尽と, 川端ホムダワケの浄霊効果の上には,芥川氏の論理性の教育の, 漱石山人の桐の葉と,鳥獣戯画と,八束の剣と。大谷崎には, またもイザナミの刻印を授かって,さあ。太宰のその中立中和, 親和調和のみごとな無頓着さを,さあ。中心軸に添えられたら, 酢豚のような酸味には,パイン・フルーツのトロピカル郷土の 山岳料理などを嗜めて,たまのデカフェ珈琲にミルクを割ったり, そうやって,身体中をサラサラにしたいと望みながらも,郷土の 強烈な土着酵素のロマンチシズムを鑑みては,夜型の自分の昼は こうして,夜食の片付けや,湯沸かしや,買い物に鍵締めなどを する自分の夕刻に遣って来て。けれども,決して暗いのの好きじゃ ない訳ではないのだから。カフェオーレを傍に置きながら,この CD造りや,簡単なスケジュール調整などをモノづくりに照らしては 考える,何だかジャコピーナッツのような,そんなつまみの時間が 好きなのだった。モーレツに,そう。好きなのだった。
考えたり,それを過ぎて考えなくなったり。考えなくなったりもする, この時間は,とっても好きなのだ。素敵な本とは,どうゆうものだろう とは,イメージしてみるのに,絵のない絵本。とは,アンデルセンなどは ほんとうに絵のない絵本があったら,どれほどすばらしい本の出来上がるか? こうやって想像して,冒頭の月のシーンなどはそのヴィジョンだけで,もう 一介の,その一遇を照らす,すばらしい本を頭脳の書棚に掛けていてくれる。 詩学とゆうのは考えないところから始まり,意味の詩学があるのなら,それは 哲学・文学の境遇に身を置いているとゆう証左になっているので,考えなくなったり。 そうして,詩学の始まり,結局は月の登場する冒頭のシーンへと還ってゆく。 メルヘンが必要なのだとはゆうけれども,メルヘンである日常に追加するのは, コッテリした童話である必要はない,そんな意味深な調味料は眼をつぶしてしまうので, それこそ,気づかずにいる,本体の”メルヘンである日常”に,気づかせる,お酢のような そんな,目覚めの香辛料をこそ,普段の何気ない詩学としての香辛料こそ,やはり 頭脳の書棚には掛けておきたい。スパイスのある風景には,意味より香りの詩学。
ようやく…