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電位は通電する身体に,

祈りは,身体に働きかける,内と外の
ミクロとマクロの,宇宙と心理の相応の
『電位は通電する身体に,』……Web上の
心身相応は,身体に働きかける祈りに親い。
反転するものだ,『世界の悩みを宿した,』その
身体は,いずれ反転するものだ。もう,何度か
反転しているその度に思う,『世界の悩みを宿した,』
その身体は,いずれ反転するものだ。と,

何故かしら,世界を宿しているらしい,気付いた後。
世界に対して怒りを覚えるよりは,むしろ純粋に,あの
『愛しているのだ,』受け容れる,純粋さ故に。だから,
間違えなくってもいいと思う。まずは,身体中の翻る。
反転する前に,少しずつ裏返ってくる。世界を宿した,
純粋さ故に。多分,元来世界の種を身体に宿しているらしい。
”世界から産まれてきたものであるらしい。”
そう,思って
『世界自身は,世界を変える』なんてゆう,逆説的な話が
浮かび上がってくる。地底に産まれてきた私達の,元来,
世界から産まれてきたのならば,世界を変えるお節介は,
元々論理的ではない。わかっているけど,いてもたっても。

『電位は通電する身体に,』……Web上の
心身相応は,身体に働きかける祈りに親い。

世界を変えるなんてお節介だってわかってる。何故なら,
自分で自分の身体を食べるようなもの。それはお節介。
だから節度を持って,接しようと,身体に働きかけるのは,
しかし,少しずつにはできないもの。
『・・・・・・地底の身体をまとってしまった故。』

反転する身体は,世界を変えるその地上に返った”地底世界”。

急がないし。怠けたいし。むしろもって,返りたくないから,

世界はそのままあるがいいなんて,思って。
自然一体化,叫ぶ。
業の泉は湧き出るまま。
湯浴みし湯浴みし,
浴びた後は。
またしっかり,眠りに就いて,豪快に息を抜くイビキの饗宴は,
もう,推し量ることのできない
終焉へと私達を向かわしてゆくそれはもう。
自我の終焉。とは,ジッドゥ・クリシュナムルティの語った言葉。
非常に美しいが,つまり実際には抽象的に,
『世界の終焉に,それは身体の終焉に。
  一日の終わり,人間関係の街の精神体の終焉に親づく。』

『電位は通電する身体に,』……Web上の
心身相応は,身体に働きかける祈りに親い。

こちらは如何?

KARMA SPRINGとゆう、LONDON ONEの書類群。

腸がつまる、など。必然的な兆候を含む、現代のシンドロームには業の湯浴み、として。沢山の娯楽をエンターテイメントのように軽く、 楽しめるかとゆう、趣味の時間を1分2分。どうしようか? ほんとうに湯舟に浸かれる瞬間は、ご褒美だけれど、郵便物を 受け取るための深夜窓口も、寒くって伺う気にはならない。
疲れている?いいや、眠たいのはいちばんのご褒美で、またあの 思考を放棄する瞬間にこそ、曖昧で朦朧とした意識の、それは、 諦念する、問題も、なにもかもなくしてしまわれるのだから、 業の問題を考えるにしても、その問題をこそ、考える理由にこそ、 思考をなくしてしまえる瞬間に、解決されるとゆう、自己回帰。
スムーズに、ヨーグルトのプレーンを朝食に、必然的にも トーストの欲しくなるのは不可思議以上の不思議な事で、 思考し過ぎる事かあ、趣味と言えば趣味らしいモノだろうけれど 逆に、その時期を通りすぎれば、遺産として、KARMA SPRINGとゆう あの書類群の、ギフトだったのだな、ギフトだったのだ。 LONDON ONEとゆう、思考の山人による、最高の贈り物。
篤姫や、真田丸のあとには、足利学校のテーマなどみられる のでは、など、そんな、太陽悪魔や、オロチ伝説の、赤猪岩受難の、 岩戸伝説や、岩窟の聖母像と重ねて、ヒトの受難は、獣神化する道程を 経て、進む。確実な過程として、行程は、目的地の、アマテラスへ。 太陽の夜明けに繋がるのは、そんな、獣神の角と眼の筋の取られて ヒトよりも人らしい、そのグラウンドダウンしてゆく人間性の、 これは、地味に滋味栄養のある、豊富な、例えば、あの古い語の 富国強兵論なども、こうした、筋肉質な糖質制限や、あるいはまた 腸の詰まりは、富国強兵に、カルマ・クリーニングを一跳びして パクチーのコンソメスープなどを啜る朝に、やはりあの、 トーストを欲しくなる、都市街の朝食風景は、ループする。あんな ループする朝食を求めて、世界は廻り続けているとしたら、 このグラウンディング指向も、また、おんなじ様に、新年のお雑煮を、 頂けそうな、そんな年末のグツグツ、カマドは周るのである。

右側のチカラを抜いて、左肩をいきり上げる。

スーパーに出掛けるまでにも、右肩で考えて、そのトータルに見届ける事を優先していた。けれども、その優先度は右肩上がりには 決してならないものだった。トータルに全体主観によってみえる その眺望は限りなくミクロで、情報分析には役立つが、 現状認識には、あまり用をなさないのだ。 現実を見詰めるとは、想像によるものでなし、それは、 未来を無くし、その視点より時間を無くし、左肩上がりで、 あえて時間軸より、あるいはイマジネーションより、もっと 空間的に、リアリティは、期待も時間もない、悪びれたモノ。 スケジュールに関して、悪態をつくくらいの丁度いいのだ。 それは、左胸で考えること、そうして、論理的なリアリティは、 とっても毒づいて、リアリティに頑強に厳密な、 NO TIMEの様。
左胸で考える、それは腹で考える。すぐにはできなくとも、 とりあえず、両脚を伸ばして、アキレス腱を延ばす所より。 あぐらをかいて、息を吐いて、リズムを刻んで、背筋をのばす。 水出し風烏龍珈琲を呑みながら、右側のこめかみにかつては チカラを入れて考えていた、トータルな全体主観を、あえて クリスマスへの供え物にして捧げ、僕はいまもう、この 土の上に落ちた南天の実のように感じながら、土の酵素を身に 付けて、プーアール黒茶を啜るように、あんな感じで、むしろ サンタクロースのように1年の1度せかせか届けものに、 あくせくそれは、黒茶を発酵させる酵素は、毒づいて僕の 論理性リアリティとよく似ている。これは、烏龍珈琲のミラクルでも、 毒は薬にもなる、ホメオパシックな奇跡的酵素生成にも似て、 本当に、実際に効果的なモノとは、毒素を酵素に変質させる何か。