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左回しの珈琲,

殊に時たまある,右回しの珈琲。そんな時,
淹れている僕は安堵の息を洩らすのだけど,
左回しの珈琲と左上の手の組み方を憶えて。その
少しずつ空っぽの地点に親づいた気のする三十路過。
思春期は細胞分裂が活性化しているから,辛いし
勢いもある行動に結びつく。そのまま行けば,
サイコパスになりかねない人生の指標はうまく,
機能して僕たちの支配構造を精神面で変えて行ってる。
もうすぐだ,もうすぐ。何故かしら,漂って呟きまた,
呟いて漂っているたゆたう僕らは第二の人生。
電気が通っている家の壁面は,贅沢ではある。けれど,
何故だか刹那的に,寂しいから,むしろ薄手のスキニーを
履いてはインナーウェアで過ごしている,壁面の熱源よりも,
身体の細胞分裂をこそ抑えようとのお達し,受けては返す,
忘我の告白。

…… 右回しの珈琲。そんな時,
   淹れている僕は安堵の息を洩らす ……

もうすぐだ,もうすぐ。『確執は解けて,業の泉も解体する』
概念の身体は反転して,猫の着地の半回転。
思考の縦糸は張りきり,ジャコのおやつは今。
思想の波板も震えて,弛緩する筋力は穏やか。

空っぽの時に良い文章は書けるとゆう。
ShelterHumanismは,岩窟の聖母のような,涙もしたたる,
岩肌には,永遠の感情の時間を忘れた生命がある,それは
切なさとも哀しさとも人間性には感じられるけれども,岩の
”人生”からしたらShelterHumanismなのだ。岩窟の聖母。
ダ・ヴィンチは岩石の思考などを描こうとした時。例えば,
転生の秘密。その人のオリジナルは,多分それぞれの”岩石”。
内側にある岩窟思考のようなものに現れている。だから,その
脊椎の所にあるブラック・ボックスのようなものを探れば。その
彼のオリジナリティの見えてくるなど,ダ・ヴィンチの画には,
発見される何かのあるのでなかろうか?そうだ,もうすぐ
岩石は降ってくる。頭の中で,夢のなか椅子の降ってくる童話を
完成させた80’sのクリスマス・イヴのような。
その経過を連れづれに描いてゆこう。

こちらは如何?

KARMA SPRINGとゆう、LONDON ONEの書類群。

腸がつまる、など。必然的な兆候を含む、現代のシンドロームには業の湯浴み、として。沢山の娯楽をエンターテイメントのように軽く、 楽しめるかとゆう、趣味の時間を1分2分。どうしようか? ほんとうに湯舟に浸かれる瞬間は、ご褒美だけれど、郵便物を 受け取るための深夜窓口も、寒くって伺う気にはならない。
疲れている?いいや、眠たいのはいちばんのご褒美で、またあの 思考を放棄する瞬間にこそ、曖昧で朦朧とした意識の、それは、 諦念する、問題も、なにもかもなくしてしまわれるのだから、 業の問題を考えるにしても、その問題をこそ、考える理由にこそ、 思考をなくしてしまえる瞬間に、解決されるとゆう、自己回帰。
スムーズに、ヨーグルトのプレーンを朝食に、必然的にも トーストの欲しくなるのは不可思議以上の不思議な事で、 思考し過ぎる事かあ、趣味と言えば趣味らしいモノだろうけれど 逆に、その時期を通りすぎれば、遺産として、KARMA SPRINGとゆう あの書類群の、ギフトだったのだな、ギフトだったのだ。 LONDON ONEとゆう、思考の山人による、最高の贈り物。
篤姫や、真田丸のあとには、足利学校のテーマなどみられる のでは、など、そんな、太陽悪魔や、オロチ伝説の、赤猪岩受難の、 岩戸伝説や、岩窟の聖母像と重ねて、ヒトの受難は、獣神化する道程を 経て、進む。確実な過程として、行程は、目的地の、アマテラスへ。 太陽の夜明けに繋がるのは、そんな、獣神の角と眼の筋の取られて ヒトよりも人らしい、そのグラウンドダウンしてゆく人間性の、 これは、地味に滋味栄養のある、豊富な、例えば、あの古い語の 富国強兵論なども、こうした、筋肉質な糖質制限や、あるいはまた 腸の詰まりは、富国強兵に、カルマ・クリーニングを一跳びして パクチーのコンソメスープなどを啜る朝に、やはりあの、 トーストを欲しくなる、都市街の朝食風景は、ループする。あんな ループする朝食を求めて、世界は廻り続けているとしたら、 このグラウンディング指向も、また、おんなじ様に、新年のお雑煮を、 頂けそうな、そんな年末のグツグツ、カマドは周るのである。

右側のチカラを抜いて、左肩をいきり上げる。

スーパーに出掛けるまでにも、右肩で考えて、そのトータルに見届ける事を優先していた。けれども、その優先度は右肩上がりには 決してならないものだった。トータルに全体主観によってみえる その眺望は限りなくミクロで、情報分析には役立つが、 現状認識には、あまり用をなさないのだ。 現実を見詰めるとは、想像によるものでなし、それは、 未来を無くし、その視点より時間を無くし、左肩上がりで、 あえて時間軸より、あるいはイマジネーションより、もっと 空間的に、リアリティは、期待も時間もない、悪びれたモノ。 スケジュールに関して、悪態をつくくらいの丁度いいのだ。 それは、左胸で考えること、そうして、論理的なリアリティは、 とっても毒づいて、リアリティに頑強に厳密な、 NO TIMEの様。
左胸で考える、それは腹で考える。すぐにはできなくとも、 とりあえず、両脚を伸ばして、アキレス腱を延ばす所より。 あぐらをかいて、息を吐いて、リズムを刻んで、背筋をのばす。 水出し風烏龍珈琲を呑みながら、右側のこめかみにかつては チカラを入れて考えていた、トータルな全体主観を、あえて クリスマスへの供え物にして捧げ、僕はいまもう、この 土の上に落ちた南天の実のように感じながら、土の酵素を身に 付けて、プーアール黒茶を啜るように、あんな感じで、むしろ サンタクロースのように1年の1度せかせか届けものに、 あくせくそれは、黒茶を発酵させる酵素は、毒づいて僕の 論理性リアリティとよく似ている。これは、烏龍珈琲のミラクルでも、 毒は薬にもなる、ホメオパシックな奇跡的酵素生成にも似て、 本当に、実際に効果的なモノとは、毒素を酵素に変質させる何か。