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限定する”夢見”。

『ルシファー(創造性)の道を通り過ぎて,
 アーリマン(物質原理)へ到着する。その時,
 キリストはもう居ない。』この,R.Steinerの
”第五福音書的発想”の流石にルシファー・グノーシス誌
発刊者ではあるような。『現実に生きる』とは言い過ぎかも
知れないが”夢見”の道を通って,裁断する現実的思想への
プロセスを辿らせるR.Steinerの技法は流石。そんな,
”夢見”の道を通るとは,業の湯浴みの瞬間。
つづく技法は『限定する”夢見”』の道を通らせるから,
まさにUFOを待つ樹々の梢に。とゆう,話は否めない。

何にでも,珈琲にはミルクを加える癖のついてしまった。
ストレート,と言えばミルクで割る,を意味する。勿論,
僕にとっては,カフェ・ラテへの道程を踏む気には,毛頭
なれないにしても,どっちみち中空の無に帰すグルメ,そう,
相打ち相殺してしまうのはグルメにとって,不可欠。もう,
道しかないのであって,中身は打ち消してしまう。真理は,
道のない土地である。言い得て妙なクリシュナジ。しかしながら
道には中身のない打ち消しカラッポな理論を求められる,そうして,
ますます『現実に生きる』,やっぱり風鈴の音の如くに,何もない
意味のないような振りをして確実に涼を取らせるあの不思議さは,
道のない土地に踏み入れた足先に響く風鈴の音。横たわって,
息のつく間のワンテンポ・ツーテンポを,コモン・センスに。

『ルシファー(創造性)の道を通り過ぎて,
 アーリマン(物質原理)へ到着する。その時,
 キリストはもう居ない。』この,R.Steinerの
”第五福音書的発想”の流石にルシファー・グノーシス誌
発刊者ではあるような。『現実に生きる』とは言い過ぎかも
知れないが”夢見”の道を通って,裁断する現実的思想への
プロセスを辿らせるR.Steinerの技法は流石。そんな,
”夢見”の道を通るとは,業の湯浴みの瞬間。
つづく技法は『限定する”夢見”』の道を通らせるから,
まさにUFOを待つ樹々の梢に。とゆう,話は否めない。

ロンギヌスとキリスト。よくは解からないが,
桂小五郎と,坂本龍馬。僕は,太宰は死なずに岡潔先生に。
龍馬はロンドンに渡って,伊藤博文に。そうして,
九郎義経は,モンゴルに逃げてチンギス汗に,とゆう伝説と
酷似して,時代の相違は跨いで,空海も怪僧文観に換わった。
そうゆう”説話”を切に妄想する。それは,キリストの伝説も,
復活の予兆を示すように,どうしてもロンギヌスによる傷は,
ヤマタノオロチの天叢雲剣のような宝剣に替わる何かだと,
そう思うから。ロンギヌスとキリスト。大国魂とゆう神体は,
”夢見”のなかに生きる意識のそれ自体のなか,閉そく性は持たない
までも”夢見”の神体とゆうテーマを抱かせて,果て,身体の中より
剣が,或いは説話の傷痕はなくなってしまうそんな瞬間を迎えた時,
限定する”夢見”のうちに,意識は何処に行ってしまうのだろう?そう,
そういった疑問を持ちながら,もうUFOは待たないそんな心地で,
”夢見”に旅立つ,それはほんとうに”夢見”る,現実の”夢見”に。

こちらは如何?

KARMA SPRINGとゆう、LONDON ONEの書類群。

腸がつまる、など。必然的な兆候を含む、現代のシンドロームには業の湯浴み、として。沢山の娯楽をエンターテイメントのように軽く、 楽しめるかとゆう、趣味の時間を1分2分。どうしようか? ほんとうに湯舟に浸かれる瞬間は、ご褒美だけれど、郵便物を 受け取るための深夜窓口も、寒くって伺う気にはならない。
疲れている?いいや、眠たいのはいちばんのご褒美で、またあの 思考を放棄する瞬間にこそ、曖昧で朦朧とした意識の、それは、 諦念する、問題も、なにもかもなくしてしまわれるのだから、 業の問題を考えるにしても、その問題をこそ、考える理由にこそ、 思考をなくしてしまえる瞬間に、解決されるとゆう、自己回帰。
スムーズに、ヨーグルトのプレーンを朝食に、必然的にも トーストの欲しくなるのは不可思議以上の不思議な事で、 思考し過ぎる事かあ、趣味と言えば趣味らしいモノだろうけれど 逆に、その時期を通りすぎれば、遺産として、KARMA SPRINGとゆう あの書類群の、ギフトだったのだな、ギフトだったのだ。 LONDON ONEとゆう、思考の山人による、最高の贈り物。
篤姫や、真田丸のあとには、足利学校のテーマなどみられる のでは、など、そんな、太陽悪魔や、オロチ伝説の、赤猪岩受難の、 岩戸伝説や、岩窟の聖母像と重ねて、ヒトの受難は、獣神化する道程を 経て、進む。確実な過程として、行程は、目的地の、アマテラスへ。 太陽の夜明けに繋がるのは、そんな、獣神の角と眼の筋の取られて ヒトよりも人らしい、そのグラウンドダウンしてゆく人間性の、 これは、地味に滋味栄養のある、豊富な、例えば、あの古い語の 富国強兵論なども、こうした、筋肉質な糖質制限や、あるいはまた 腸の詰まりは、富国強兵に、カルマ・クリーニングを一跳びして パクチーのコンソメスープなどを啜る朝に、やはりあの、 トーストを欲しくなる、都市街の朝食風景は、ループする。あんな ループする朝食を求めて、世界は廻り続けているとしたら、 このグラウンディング指向も、また、おんなじ様に、新年のお雑煮を、 頂けそうな、そんな年末のグツグツ、カマドは周るのである。

跳び込んで、さては越えてゆこう、あの倫敦の壁。

反射式灯油ストーブとゆう、電池が2本あれば着火して、延々と火が灯して居続けられるとゆう、あの暖かい暖房器具に換えて、 けれども、いくら火が自慢してきたって、この寒さにはギャップの ありすぎて、孤高の熱源とさえ言える。そうとも思えなくない。 例えば、こんな夜に、ジョナサン・スウィフトのガリバー旅行記や、 ジェイムズ・ジョイスの、ダブリナーズや、ブルネルの蒸気機関の、 あのシラノドベルジュラックの引いては切なさとゆうものへ。 たどり着いては、首を振る。僕の、ポートレイト?これは、いや。 むしろ、地底のレストランへの入店チケットに違いない。 ペイパーバックライターのイントロを奏でながら、いらっしゃい!と。
そんな中で、また別の系譜へと、この流れでして、目をやると、 ジョンのピースプレイトと、プルーストの時のない、そんな エル・グレコの静止画と、フェルメールの祈りのない静止画と、 そうして、カスパーダーヴィドフリードリヒの動画のような、 祈りを、静止画と動画に織り交ぜて平和を祈った、ダンテの あの、天国と地獄には、とにもかくにも、動きの中の静けさ。
大晦日を迎えられたのは、身体に感謝とはいえ、なぜかしらの 糖分がすべて抜けたかのように、フニャっとしてしまったので 何かしら食べていようと、寝正月とお正月料理を拝借する。 魚卵は、女性ホルモンにて情緒安定し、かまぼこ、お餅などは 練り上げる消化力を推し進める。とにもかくにも年末から三が日は ほんとうに終わりと始まりをないまぜにして、全然のとやかくゆう、 あのサナギの産褥の時期である。もう、ほんとうに生まれ変わって 蝶に羽ばたくこと、はばしく麗しやかに、その飛翔は、まるで
カルマクリーニングをひとっ跳びして、掻き削がれたオーラの 全体性の発露とはかくゆうこんな、絶対的に阻まれた主観性だ。 何かが、1年の糖分のあまさとして、大晦日の業火に灰と化し、 新年の三が日はとにかく、食べて寝て、練り上げて、寝て。 そうして、思考知性の小さなままの、不死鳥のヒナまでが、何か 新しいスタートのしるべのようにして、現れてくる。そんな、 切なさではいられない。けれども、業火には、もう絶やされない。 すべての出逢いと別れは、一新され、そうして、知性の発現している この、小さな飛翔体によって、希望を持ち抱きながら、すすむ。
こんな、混沌とした新年には、もうすぐ、何か道しるべを掴める。 といって、希望を持ち抱きながら、…