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岩窟思考(主客没入)

角盤山清水寺,八百比丘尼,赤猪岩の三者。
岩窟思考と呼ぶ,”岩の瞑想”。
古文は,主語を失わない程の主客一体,
主体と世界の一体を主述不均衡によってあらわしては
いるが,岩窟思考(岩の瞑想)は,主客没入と
言える程,安堵感の,むしろ思考の休息を
与えてくれる。岩の中に這入ってしまおう。むしろ,
悠久の時を備えた,パン種のような
思考のエサに這入ってしまおう。そんな時”蟲の神”にでも
なってしまったかと感じる程。
例えば発酵が光りを求めるまでに進んでしまうの
なら,それは
岩窟思考を伴った何かであるに違いない。
むしろの”好気嫌悪”は
闇に親い,
『光りは,闇よりうまれるものらしい』
詰まり,光りの要素は,嫌気発酵より発生するらしい。
だから,『光りは,闇よりうまれるものらしい』
嫌気発酵は,いつもひとを窒息させるから,嫌気発酵的
人間は,常に”隠匿的”にされる。
いつか,文字の手段は”魔道”と聴いた。
『嫌気発酵のほうを向いて,闇を内に抱こう』それは,
『光りは闇よりうまれるものらしい』
描かずには,おられず,筆を執る。
光りから,闇の時代を向いている
ものらしい。光りの産業は詰まり,
原点を言えば嫌気的闇から
出来上がったもの。だけれど逆説的に,
人類は闇のほうへ向かうものらしい。
『嫌気発酵のほうを向いて,
 闇を内に抱こう』そんな,嫌気的闇を,
常に,この『日本』の中に,捜す。
元々,体内の発酵は嫌気的であるから
嫌気的闇は”グラウンディング”に向いている。
『”愛”のために,葬儀にでるのか。いいや,”革命”の
 ために。』と,エンパス指向についての記事に表現したことが
あったけれど。エンパス指向=ホ・オポノポノ体質=平和気質に
対する”隠匿的”傾向は継続しそうだ。『考える人間は,人間。』,
こんなCommunity構想に必須なアミノ酸的な流儀を必要としている
いいや,言い換えよう,
『こんなCommunity構想に不可欠な亜鉛鉄分のようなHumanismを,』
僕(等)は希求している,だから
もっと『革命的”静かな生活”構想を
    世界に,ひろめよう』。
文学の生活は,闇に親い。




こちらは如何?

KARMA SPRINGとゆう、LONDON ONEの書類群。

腸がつまる、など。必然的な兆候を含む、現代のシンドロームには業の湯浴み、として。沢山の娯楽をエンターテイメントのように軽く、 楽しめるかとゆう、趣味の時間を1分2分。どうしようか? ほんとうに湯舟に浸かれる瞬間は、ご褒美だけれど、郵便物を 受け取るための深夜窓口も、寒くって伺う気にはならない。
疲れている?いいや、眠たいのはいちばんのご褒美で、またあの 思考を放棄する瞬間にこそ、曖昧で朦朧とした意識の、それは、 諦念する、問題も、なにもかもなくしてしまわれるのだから、 業の問題を考えるにしても、その問題をこそ、考える理由にこそ、 思考をなくしてしまえる瞬間に、解決されるとゆう、自己回帰。
スムーズに、ヨーグルトのプレーンを朝食に、必然的にも トーストの欲しくなるのは不可思議以上の不思議な事で、 思考し過ぎる事かあ、趣味と言えば趣味らしいモノだろうけれど 逆に、その時期を通りすぎれば、遺産として、KARMA SPRINGとゆう あの書類群の、ギフトだったのだな、ギフトだったのだ。 LONDON ONEとゆう、思考の山人による、最高の贈り物。
篤姫や、真田丸のあとには、足利学校のテーマなどみられる のでは、など、そんな、太陽悪魔や、オロチ伝説の、赤猪岩受難の、 岩戸伝説や、岩窟の聖母像と重ねて、ヒトの受難は、獣神化する道程を 経て、進む。確実な過程として、行程は、目的地の、アマテラスへ。 太陽の夜明けに繋がるのは、そんな、獣神の角と眼の筋の取られて ヒトよりも人らしい、そのグラウンドダウンしてゆく人間性の、 これは、地味に滋味栄養のある、豊富な、例えば、あの古い語の 富国強兵論なども、こうした、筋肉質な糖質制限や、あるいはまた 腸の詰まりは、富国強兵に、カルマ・クリーニングを一跳びして パクチーのコンソメスープなどを啜る朝に、やはりあの、 トーストを欲しくなる、都市街の朝食風景は、ループする。あんな ループする朝食を求めて、世界は廻り続けているとしたら、 このグラウンディング指向も、また、おんなじ様に、新年のお雑煮を、 頂けそうな、そんな年末のグツグツ、カマドは周るのである。

跳び込んで、さては越えてゆこう、あの倫敦の壁。

反射式灯油ストーブとゆう、電池が2本あれば着火して、延々と火が灯して居続けられるとゆう、あの暖かい暖房器具に換えて、 けれども、いくら火が自慢してきたって、この寒さにはギャップの ありすぎて、孤高の熱源とさえ言える。そうとも思えなくない。 例えば、こんな夜に、ジョナサン・スウィフトのガリバー旅行記や、 ジェイムズ・ジョイスの、ダブリナーズや、ブルネルの蒸気機関の、 あのシラノドベルジュラックの引いては切なさとゆうものへ。 たどり着いては、首を振る。僕の、ポートレイト?これは、いや。 むしろ、地底のレストランへの入店チケットに違いない。 ペイパーバックライターのイントロを奏でながら、いらっしゃい!と。
そんな中で、また別の系譜へと、この流れでして、目をやると、 ジョンのピースプレイトと、プルーストの時のない、そんな エル・グレコの静止画と、フェルメールの祈りのない静止画と、 そうして、カスパーダーヴィドフリードリヒの動画のような、 祈りを、静止画と動画に織り交ぜて平和を祈った、ダンテの あの、天国と地獄には、とにもかくにも、動きの中の静けさ。
大晦日を迎えられたのは、身体に感謝とはいえ、なぜかしらの 糖分がすべて抜けたかのように、フニャっとしてしまったので 何かしら食べていようと、寝正月とお正月料理を拝借する。 魚卵は、女性ホルモンにて情緒安定し、かまぼこ、お餅などは 練り上げる消化力を推し進める。とにもかくにも年末から三が日は ほんとうに終わりと始まりをないまぜにして、全然のとやかくゆう、 あのサナギの産褥の時期である。もう、ほんとうに生まれ変わって 蝶に羽ばたくこと、はばしく麗しやかに、その飛翔は、まるで
カルマクリーニングをひとっ跳びして、掻き削がれたオーラの 全体性の発露とはかくゆうこんな、絶対的に阻まれた主観性だ。 何かが、1年の糖分のあまさとして、大晦日の業火に灰と化し、 新年の三が日はとにかく、食べて寝て、練り上げて、寝て。 そうして、思考知性の小さなままの、不死鳥のヒナまでが、何か 新しいスタートのしるべのようにして、現れてくる。そんな、 切なさではいられない。けれども、業火には、もう絶やされない。 すべての出逢いと別れは、一新され、そうして、知性の発現している この、小さな飛翔体によって、希望を持ち抱きながら、すすむ。
こんな、混沌とした新年には、もうすぐ、何か道しるべを掴める。 といって、希望を持ち抱きながら、…