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ラム・ダークを漬けよう

あながち”わが友ヒットラー”の,三島文学と
違わないこともない,諧謔は哀切と相まって,
それは”諧謔”そのものである。とにかくも,
”諧謔”は悪いわけではないのだ,歴史は全体主義の
そのまま”俯瞰”とゆうやつだから。間近に目を親く,
見てごらん。小乗も大乗も仏教にも性格にもなく,
プロフィールとプライベイトのあいだには,とくに
垣根を持ちたくはないのだけど,”常識”は,それを
常に歴史に造ってゆくから。悪があるとゆう,それは
”諧謔”よりのプライベイトに違いない。そうして,
めざめのあるとゆう,それは歴史の中にプロフィール。
そねみから,ヘロディヤは歴史を切ったとゆう。それは
サロメーの前に現れる”ヨハネ”のかんばせとして。
フランスの文化は,サロメーを描いた。そねみとは,
”諧謔”であった,全体主義とは,哀切でもあった。また,
酒粕を口にして,これが甘酒となるとゆう発想に,それは
お昼の嗜好になるとゆう趣味指向に,何故とやら,もう,
発酵の中には,ピリリ,としたそうゆう外側への開口しか
ない,とゆうような開口発想。

祈りは発想として概念の半回転へと導くだろう
半回転するの,人間ではなく発想そのもの
甘酒を口にして,呟くのだ。『開口一番,』。

プライベイトには,通奏低音のような,発酵が脳内の
すみずみまで拡がっている。
プロフィールとしては,祈りの発想を,概念の半回転まで
持っていこうとする。

ヘロディヤークラウディウス

ーアランソン公ークライストーアナトール・フランス。

純粋な上に,セネカを家庭教師として世話したクラウディウス。
(厳密には違わないが,)彼らは,”ヘロディヤ礼賛”とみても,
よいだろう。クライストにいたっては非業の死を遂げ,もう,
アランソン公の眼差しと言ったら,非業どころかミステリアス。
クラウディウスと同じくジャンヌを支えたアランソン公の,非業。
R.シュタイナーも,またユング派のヘッセも,抒情どころかまた,
言い過ぎる,厳密に。また精確に。ここが,ずるいところだ。もう,
ずるいところしかみえなくなるこんな,”諧謔”をもって,平和や,
全体性の思想へ行きつく。全体性とは純粋さゆえの傷痕。それの,
”諧謔”じみた全体性。それを,自然一体化と,俗悪と,泰然自若と
呼ぼう。

パンが発酵して,プツプツ,プツプツ揮発音を出して,パン種から,
パンになる。ラム・ダークを漬けて,ココナッツ・スプレッドと,
ラムレーズンに和えて,『ホワイト・ラムレーズン』ディップに,
あるいはコーヒーと共に。岡潔先生の『春宵十話』を引張りだすと
なんか,暮らしに落ち着くのは知性的にはダサいのかな。と思って
もう,『暮らし以上のものはない。』解っているのに,絶対知性。
トーマス・マン=バートランド・ラッセル,
人類の代表者=”ハンス・カストルプ”のあわいに有って
独白的信仰告白をするヴィトゲンシュタインまでの道程に,旅立つ
『つまらないんだろう,ロジック。いやいや,それまでよ。』など
ラム・ダークを嗅いだだけでほんとうに酔っぱらったりして,また。
トロッコを春菊のおひたしに合わせて,薪割りの音に舌鼓み。

こちらは如何?

KARMA SPRINGとゆう、LONDON ONEの書類群。

腸がつまる、など。必然的な兆候を含む、現代のシンドロームには業の湯浴み、として。沢山の娯楽をエンターテイメントのように軽く、 楽しめるかとゆう、趣味の時間を1分2分。どうしようか? ほんとうに湯舟に浸かれる瞬間は、ご褒美だけれど、郵便物を 受け取るための深夜窓口も、寒くって伺う気にはならない。
疲れている?いいや、眠たいのはいちばんのご褒美で、またあの 思考を放棄する瞬間にこそ、曖昧で朦朧とした意識の、それは、 諦念する、問題も、なにもかもなくしてしまわれるのだから、 業の問題を考えるにしても、その問題をこそ、考える理由にこそ、 思考をなくしてしまえる瞬間に、解決されるとゆう、自己回帰。
スムーズに、ヨーグルトのプレーンを朝食に、必然的にも トーストの欲しくなるのは不可思議以上の不思議な事で、 思考し過ぎる事かあ、趣味と言えば趣味らしいモノだろうけれど 逆に、その時期を通りすぎれば、遺産として、KARMA SPRINGとゆう あの書類群の、ギフトだったのだな、ギフトだったのだ。 LONDON ONEとゆう、思考の山人による、最高の贈り物。
篤姫や、真田丸のあとには、足利学校のテーマなどみられる のでは、など、そんな、太陽悪魔や、オロチ伝説の、赤猪岩受難の、 岩戸伝説や、岩窟の聖母像と重ねて、ヒトの受難は、獣神化する道程を 経て、進む。確実な過程として、行程は、目的地の、アマテラスへ。 太陽の夜明けに繋がるのは、そんな、獣神の角と眼の筋の取られて ヒトよりも人らしい、そのグラウンドダウンしてゆく人間性の、 これは、地味に滋味栄養のある、豊富な、例えば、あの古い語の 富国強兵論なども、こうした、筋肉質な糖質制限や、あるいはまた 腸の詰まりは、富国強兵に、カルマ・クリーニングを一跳びして パクチーのコンソメスープなどを啜る朝に、やはりあの、 トーストを欲しくなる、都市街の朝食風景は、ループする。あんな ループする朝食を求めて、世界は廻り続けているとしたら、 このグラウンディング指向も、また、おんなじ様に、新年のお雑煮を、 頂けそうな、そんな年末のグツグツ、カマドは周るのである。

右側のチカラを抜いて、左肩をいきり上げる。

スーパーに出掛けるまでにも、右肩で考えて、そのトータルに見届ける事を優先していた。けれども、その優先度は右肩上がりには 決してならないものだった。トータルに全体主観によってみえる その眺望は限りなくミクロで、情報分析には役立つが、 現状認識には、あまり用をなさないのだ。 現実を見詰めるとは、想像によるものでなし、それは、 未来を無くし、その視点より時間を無くし、左肩上がりで、 あえて時間軸より、あるいはイマジネーションより、もっと 空間的に、リアリティは、期待も時間もない、悪びれたモノ。 スケジュールに関して、悪態をつくくらいの丁度いいのだ。 それは、左胸で考えること、そうして、論理的なリアリティは、 とっても毒づいて、リアリティに頑強に厳密な、 NO TIMEの様。
左胸で考える、それは腹で考える。すぐにはできなくとも、 とりあえず、両脚を伸ばして、アキレス腱を延ばす所より。 あぐらをかいて、息を吐いて、リズムを刻んで、背筋をのばす。 水出し風烏龍珈琲を呑みながら、右側のこめかみにかつては チカラを入れて考えていた、トータルな全体主観を、あえて クリスマスへの供え物にして捧げ、僕はいまもう、この 土の上に落ちた南天の実のように感じながら、土の酵素を身に 付けて、プーアール黒茶を啜るように、あんな感じで、むしろ サンタクロースのように1年の1度せかせか届けものに、 あくせくそれは、黒茶を発酵させる酵素は、毒づいて僕の 論理性リアリティとよく似ている。これは、烏龍珈琲のミラクルでも、 毒は薬にもなる、ホメオパシックな奇跡的酵素生成にも似て、 本当に、実際に効果的なモノとは、毒素を酵素に変質させる何か。