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3月, 2017の投稿を表示しています

すこやかな眠前LifeTimeBest,

ヴァレリーの追っかけだった,そして
芥川の追っかけでもあった。かたわらに
トーマス・マン,シェイクスピア。
『クロアチア,ザグレブ近郊に生まれ,
 ヴェローナの戦禍をくぐり抜け,
 ロンドン,ダブリン,オスロを渡り,
 ヴェネツィアを拠点として,
 ザルツブルグに逝去する』こんな,
 ベゴニアの花香るような人物の誰かと問えば
かたわらに,パブロ・ピカソ,ヘミングウェイ。
太宰と龍馬の連環を考えるにキリシタンの思想。
パリに終の棲家を備えたイワン・ツルゲーネフの
ロマネスクを思えば,ヘミングウェイのハードボイルド。
天界に突き抜ける。天地逆転。悪魔的とは天界性。
パブロ・ピカソのデス・マスクが浮かんで,
綺麗なヴェリー・ショートの白髪がおぼろに浮かんで。
『クロアチア,ザグレブ近郊に生まれ,
 ヴェローナの戦禍をくぐり抜け,
 ロンドン,ダブリン,オスロを渡り,
 ヴェネツィアを拠点として,
 ザルツブルグに逝去する』そのような,
ハンス・カストルプとは,かくゆう人物だったのでは?
バートランド・ラッセル,バートランド・ラッセル。
人の影ばかり追って気付くのは,人間は嫌気発酵の
影だから仕方のないけれど,光はやっぱり光。もうすぐ,
悪魔的とは天界性。の意味が分かってきそうだ。
詰まりは目覚める。地上化して,普通に土の匂いを。
そうして,すこやかな眠前LifeTimeBest,

真髄嗜好瓦解する東西。

ロック・ブルーズ・マッディ・ウォーター。
瓦解する身体は腹を下して,空っぽになる。
国津神と天津神の間を流れるのは,”水”。
多分,グルメのフランスと,思惑のドイツへ。
実はドイツ観念論とゆうのは,現代”グルメ”。
内の”グルメ”観念論。外のグルメ”腸活指向”。
だから,ドイツパンとゆうのは,やはり発酵の
哲学へのグルメであって,内の”グルメ”観念論。
フランス料理の下へ下へ,舌を通じて”腸活指向”する,
外のグルメ”腸活指向”。

思春期は本当に,ほんとうに。
虚弱体質で,思考が角が立つほどの信仰告白をして。
寿命はたくましいかもしれないけれど,人生”グルメ”。
さだまさしさんは”風に立つライオン”でずっと祈ってる。
人生は”グルメ”のように始まり,十代。また,それで,
野村一彦さんの,神谷美恵子さんに対する信仰告白を。
シレジウスを読み,天球からの音楽を聴き,ナチスに対して
没ナチス的に理解を試み,ただとにかく人生”グルメ”。
とにかく虚弱体質にして,寿命はたくましいから,そんな。
青春をすべて”哲学”に帰してしまうのだ。三十代にでもなれば,
朱夏の真っ盛り。ようやくフランス”腸活指向”。ドイツの,詩は
ドイツ観念論=発酵=天津神のミューズ詩神より産れ来たりて,
フランス料理=腸活=国津神の”神の子”から”人の子”に,前世も
前世ゲームを修了して,前世学校を卒業する。だから,多分。
十代から二十代=内から外=天津神から国津神への道程で,必ず
天津神とはドイツの詩で,国津神とはフランス料理なのだから,
いまは鳥取に住んでいる僕も,また山口・萩になど行って,
夏みかんの果汁など嗅いで,津和野に源氏巻きなどを,稲荷の
土産とともに,あの小麦と牛皮の融けあったようなロマンスを,
”案山子”の造り酒屋に桜吹雪の時期など,もうグルメは季節感。

春は消化酵素の豊かに分泌される時節。それが,そのまま蠢く桜の
咲いた,酔い払いのような季節が,そのまま祝祭のバイロイトだ。
天球の音楽に,シレジウスと,無に帰す思春期の忘我への指向を
果てはまた分泌酵素の増える祝祭のような春の中で,また,蟲の
知らせのように僕はフランスからドイツへの道程を,産道へ向かう。
腸活は一時休止。ある程度,休止するほど温かくのどかになって。
哲学への発酵への逆行を『飢餓感のあるうちに治める残酷性を。』
とゆう…

そうゆう次元,

プラスチック化する身体,そんなことを思う。
サプリばっかり呑んでいたら,腸活どころか,
痛覚さえもなくして,プラスチック化する。その,
食欲を促されてグルメを試みようとする,そんな。
夢の中で,コンビニへ出かけるもうすぐ呼吸自体の
食欲をみたす。

また夢の中で,機械化された身体を持つ星へ跳んで,
もうすぐプラスチック化する身体に,語りかける。
概念化する思考は痛覚さえも換えてすべてを概念把握。
痛みを超える,その瞬間に思考は観察されうる概念思考。
筋肉質はプラスチック変質をどこかに持っていて,あの
食欲を促されてグルメを試みようとする,最近は
とんこつの即席ラーメンに美味しいものがあるなぁ。そんな
感じを抱きながら相変わらず夢の中でコンビニを歩いたりする,

とりあえずは深夜放送をかじりながら。オレンジ・ジュースの
最後の一杯。もうすぐ眠りの中で,『もともと眠りの実質は,
プラスチックなので。』そんなイメージを勧誘されつつ微睡みに
伺おうとする。甘いものが欲しいのかな?膨満した身体の,
お肉が食べたいの次は甘味を頂きたい。夢の中の変遷は,やっぱり
Y染色体が,あるとゆう男性のその特色とゆうのはあまりに女性を
大事に思うあの心理的なフェミニズム。ああ,Y染色体のお見事。

女形,とゆう文化や優しさを女性の中に見つけることのできる寛容さ,
大らかさは決して愛の欠如ではなくて没我的でもない,優しさそのもの。
夢の中では分断された身体の断裂された思考のすべてが,いやおうなく
優しく酔わせてくれるのだから,何かを頂いて食べるとゆうのではなく,
呼吸することは『プラスチックの変性を酵素化して分解する”自我”。』,
概念思考は絶対者の鉱石的な感覚ではないようで,まだそんな昼感覚を
のこしながら。思考を観察するのは王さま感覚だろうけれど。まだそんな
全粒粉の香りを嗅ぎつけながら,オレンジ・ジュースの一杯を最後に。

プラスチック化する身体,そんなことを思う。
サプリばっかり呑んでいたら,腸活どころか,
痛覚さえもなくして,プラスチック化する。その,
食欲を促されてグルメを試みようとする,そんな。
夢の中で,コンビニへ出かけるもうすぐ呼吸自体の
食欲をみたす。



享楽デゴイチ・センス,

ロマンチックに時の過ぎる夕べ,
世界は百薬の長,の軽いお昼を閉じてしまって
ラベンダー水を淹れる。沸騰した手鍋のお湯に,
ティースプーン2杯のラベンダーを入れて。
一瞬のうちに氷と混ぜてしまうのが,香りだけを
のこす秘訣,ラベンダー水で『自由』の夜,を。
乗り切る微睡みの眠りの前を。ラベンダー水,で。

ロマンチックに時の過ぎる夕べ,
小樽の港町に雑貨屋さん,富良野の道の駅に向かい
ランタンの燈火(ともし・び)揺れる,あれは
ラベンダーの香り。ウィンナー・ソーセージは燻製で,
これも,また。ラベンダー水に記憶を書き換えられる。
苦みなし香りのみのこるラベンダー水。昔っからの,
ジャスミン茶,パイナップル・ケーキは台湾に。それは
ラベンダーと同じくらい好きで。薔薇よりむしろ,ジャスミン,
ラベンダー,くちなし,沈丁花(じんちょうげ),パイナップル・
ケーキの見事に好きだった。だから,ロマンチックに時の過ぎる夕べ,
ランタンの揺れるキャンドルの匂いのように,まだまだラベンダー水に
酔っていたい。だから,夢二の詩集や,若きウェルテルの園芸庭園に,
腰を降ろして,黄葉のいわさきちひろさん。ラベンダーの天球の音楽を
聴きながら,いつか白昼夢に出てきた,柑橘の丘を,瀬戸内の海を
見降ろしながら,堅いバゲットの実を食べて,岩塩とトマト,オリーブ油を
掛けて頂きたい。ヘッセ,だからヘッセが好きだった。ヒグラシは,
初夏の訪れにもう朝焼け前から啼いたりして,デーミアンと,ナルチスと
ゴルトムントを愛犬のボテの散歩前に読んだりしていた。今はもう,
バゲットと牛乳だけの暮らしを試みてみたい,とにかく一杯の汲みたての水を
楽しみにして。
シレジウスの瞑想詩集や,シモーヌ・ヴェイユ。アッシジの聖フランシスコに
没頭した世界の幕開けは,また別のお話。

ロマンチックに時の過ぎる夕べ,
世界は百薬の長,の軽いお昼を閉じてしまって
ラベンダー水を淹れる。沸騰した手鍋のお湯に,
ティースプーン2杯のラベンダーを入れて。
一瞬のうちに氷と混ぜてしまうのが,香りだけを
のこす秘訣,ラベンダー水で『自由』の夜,を。
乗り切る微睡みの眠りの前を。ラベンダー水,で。



”夜の賛歌”中心に寄せて。

世界は,すべて,そのまま”百薬の長”として,目の前に,
あるとは言え,そのままの”世界”に居て。そのまま,の
ラベンダー水を呑んで,旅をしている。世界は”そのまま”。
中心は何処?中心は何時もない,
ないのだけれど,
探し続ける,中心のない,”そのまま”の世界。時たま,その
花粉症の時代だから,と言って,オレンジ・ジュース。あの,
ご相伴に預かりまして,お神酒を頂くみたいに,預かります
あの,”世界”の中心は何処にあるのでしょう?そんな問いには,
少し花粉症に酔っている位が好いなどとは突き放される,あの,
全世界の呵責には苛まれていたのですが,『わかるよ,はい。』
いやあ,わかりました。この”世界”の中心,ない,ものはない。
いつも,眠るときに世界が解体される瞬間,昼にはファッション,
夕べにはクッキング,軽さを追求して,そのまた”世界”の中心。
みなお墓にゆくときは,地下世界のグノームになるに違いないから,
生を執着するのより,世界の中心はない,そうゆうもので,蛍火は
科学の結晶で粋を集めたもの。送り火に掲げるお線香の匂いに,
ああ科学が支配する。純粋思考の言葉や,唯物史観や,明晰さを
煙る浄化作用に預けて,さあもうすぐ,夏は親づく。なんだろう?
オレンジ・ジュース。切なさに,酸味を投影して,逆にも言えるけれど
願いに,橙色を授けて,そのうちまた,ないものは”ない”。って,もう
呑気に眠りに解体される夢見心地に居るから,大抵のことは眠りの地下に
眠りのグノーム達に預けるから,そうやって地底の夜と,地上の昼の軽さを
追求してはやっぱり,『夜』って,すごい。『自由』。
ノヴァーリスに”夜の賛歌”ってあるけど,あれは,第九につながる,
自由への賛歌だったのだな,何だか消し掛けるようだけれど,古事記の
スサノオが寝てしまって,夜の国から大黒さんが逃げて行く,とゆうか
門出に建つ出発の夜明けのような展開は,またセガンティーニの画。
白黒のはっきりしたものが嫌いではないので,と言って中途半端が一番。
結局,アントロのハーモニアスな標準時に戻ってくる,中心は”ない”って,
信じてはいるけど。地下世界に”登りつめている”。そうして,またもや。
世界の照準を見定める如く,耳より鉄砲水のあふれ出て,死海風呂に浸かった,
”夜の賛歌”に寄せて,『自由』を与えてくれる夜,ありがとう,と…

ラベンダー水。

ラベンダー種ドリップ,とゆうのも茶会としては,とっても趣味の良いものだ,なんて,珈琲ドリップの薫陶を茶会に活かそう。そうして,今夜は,1リットルの湯を沸かし,ラベンダー種を,いやいやあれはまだ,ラベンダーbud,ツボミか。しかしながら,ラベンダーの実をスプーン2杯,注いだお湯に浸けた瞬間たっぷりの氷で1リットルかき混ぜると,ラベンダー水の出来上がり。甘いラベンダー水は何だか虫干しされた気分で夜会に僕を招き入れ,炬燵に潜りながら,のんびりと運筆こころみる,酔狂に夢見心地。もう,なんでも昼は目ざめのほかに何も持ってこない。なんでも歴史は訓示のほかに何も教えてはくれない,なんでも。伝統は,夢見心地も酔狂も伝えてはくれない。だから,ラベンダー水に寄せて,酔狂に微睡んでいる。なんともゆう,春の夕暮れ日暮れには陽も月も酔っ払う。越冬さといもは,堅いけれど,甘いのでは,なんと酔狂だ。覚醒したとて,なんとも酔狂だ。もう一杯この香水を頂いて,お風呂に浸かろう。なんとも酔狂,この上なし。ともすれば酩酊に切なさもはこぶ,こうした春の夜は。

リンパ瞑想,

世の中の瞑想と呼ばれるものは,
みんな,リンパ瞑想など捉え方によって,
呼んでもいいんじゃないか,そんな気になる
リンパって,筋肉と違って呼吸と合わせるような
そんな節があるし,緊張気味の筋肉をほぐすのに,
むしろ,固まった心の殻みたいな筋肉をほぐすのに,
リンパ瞑想。具体的には,と言っても具体的か,定か
ならず,リンパ節のところどころつなぐところを意識して
呼吸をむすんでゆく,なぜか第三者的に故郷や,周囲の
環境を新しい感覚で見直すことができる。外への扉は,
『自然一体化』とゆう概念と離れずに,そのまま出逢った
ものに,環境に,香りに,俗念に,離れずに着いてしまおう。

こんなリンパ瞑想=自然一体化的な観点で,業の泉をまた,
循環させる,何度も試みたけど正解だと思えなかった,あの
難問である世界と言う問いを,やっぱり説く鍵はリンパ瞑想,
とゆう『自然一体化』だった。
詰まりは心の壁で覆われてしまった逆に守られるはずの,
塞がれてしまった身体機能に,リンパ節の意識した呼吸による,
ちょっと外に背を投げ出さずつないでみる。そして,外の世界に
つながれた指先や手先を,意識して,外の世界につないでさらに,
そのうち,すべての世界は”薬”で,身体のリンパはながれて,
すべての世界は薬だ,とゆう情緒は,強まってくる。

瞑想は,身体の構造を変えるほど意気込まないことで,
また心理学的に作用する,
『だから,世の中の瞑想と呼ばれるものは,
みんな,リンパ瞑想など捉え方によって,
呼んでもいいんじゃないか,そんな気になる。』
この感性に,また。とにかくも,身体は世界の中にあって,
身体は周囲の世界をすべて,薬にする。

”リンパ瞑想”,とんだ妄想じみたことを言うようだけれど,
『心理=リンパ=周囲』の世界をつなぐ
『筋肉=呼吸=開放』の,この三者の交流の繰り返しに,
ただなにか魅力を感じて,
 百薬の長は,
『世界が客観的にそのまま薬になる』とゆう,暇の為さない
とんでもWorldに,『世界』が変わる。
これは,多分百薬の長だ。

脂肪瘤の白虎

以前,何処かの記事に,『脂肪瘤の白虎』なる,
メタファーを用いて,『それは,絶対悪。』などと
存分に詩的表現を楽しむ我が姿を省るにつけて,
また,最近は『角質異常』なる地球の姿を描いて,
然しながら,やっぱり敵愾心を表現させる我が『影』の,
その姿は,詰まり『自分』で,『恩寵』で,『富栄養』
なのだ,と斟酌する。
『影』とゆうのは,『自分』の『影』で,『富栄養』の,
それは投影された自らの『恩寵』なのだから,それは,
そのまま”地球市民”として,受け容れればいいのだ。
美学,とゆうのがあれば,一般的な”美”を壊したところに
その『影』は屹立していて,多分もっと先には,壊れた
グラウンディング。もちろん,”地球市民”。

だから,腹を据えて,などとは言うけれど,
もっと真逆に言えば,”美学”の反対の”胸の中心”に,
思考の末を置いて,一度”文学”を捨てるのもあり。
『自分を,受け容れたとき,どうなるんだろう』
考えたこともなかった。自分を,受け容れる,その,
緊張を解きほぐす,身体中の脂肪瘤が融け出す,瞬間。
多分,意図して”気絶”するに等しい,思考の停止。はて,
そんな瞬間を,やっぱり『影』は待ち望んでいた。もう,
期待はしない,枠も取り外して,とりあえずは想像なし。
段々に思考を緩やかにする,ないがしろに,ないまぜに。
多分,”美学”のある,としたら,思考の枠を外したところ。
『眠り』,また真逆の発想にみえて,珈琲も吞みながら,
『眠り』,精神の休息期に向かうとき,何が中心だろう?
もともと”ない”のは知っている,けれども何が中心だろう?多分,
”ない”なりに,まどろみの残り半分の”気絶”状態で,『春』を,
桜の開花期の『春』を,待ち望み,体験する。いかにも,春は。
越冬さといも,フキみそ,桜餅。『眠り』のなかで,春を,そのように
体験しよう。まどろみながら『春』を。

以前,何処かの記事に,『脂肪瘤の白虎』なる,
メタファーを用いて,『それは,絶対悪。』などと
存分に詩的表現を楽しむ我が姿を省るにつけて,
また,最近は『角質異常』なる地球の姿を描いて,
然しながら,やっぱり敵愾心を表現させる我が『影』の,
その姿は,詰まり『自分』で,『恩寵』で,『富栄養』
なのだ,と斟酌する。
『影』とゆうのは,『自分』の『影』で,『富栄養』の,
それは投影された自らの『恩寵』な…

自然理のファッション。

二極化の時代,と聴くことがある。
原因と結果があって,しかしながら,
食べることに苦労することの多い時代。
だから,『想像力』のグルメ本が存在する。
元々,技術や原因に先立って,想像があって,
結果を受け取るグルメそのものは,何だって,
言葉の優先度の”グルメ本”の,優位に出来ている。

軽さだ,気軽さの追求だ。徒弟時代は,
『気軽さの追求だ。』

気軽さは複雑系を通って出来上がる。そうだ,

徒弟時代に,GIVE&GIVEでなかったなら,

大黒さんなんて居なかっただろう。そうして,

自由の獲得は,二度も無くなって,そうして,

自然理のファッショナブルなTAKINGに到る。

自然優位の時代,ともゆうべきことなんだろう。
自然の範霊とゆう言葉を聴いたことがある。多分は
老子然り,役行者然り,弘法大師空海も然り。俗世,
俗世。業の反復と知りながら,その世界をみて,結局
ちゃんぽんには,直感あれど,明晰さなし。と観じて,
あと,はさあれ,軽さだ,気軽さの追求だ。徒弟時代は,
『気軽さの追求だ。』言い放って,扉を開ける。
その先には,”夢の振幅=目標の経済”の矩(のり)を超えて,
軽さだ,気軽さの追求だ。徒弟時代は,
『気軽さの追求だ。』心から,母船が飛び立った。
宇宙時代の岩戸開きは停泊していた宇宙船が,身体の中より
飛び立った。それが,どうした,として。多分それは,
自然理のファッション。




ヘッセの珈琲。

ヘッセの創作活動を促進したのは,あまりに
植物的な,成長力促進作用で,生体作用まで,
続々と,あまりに余りある,そんな状態。だが,
そんな想像を掻き立ててはあまりある,
彼の作家の創作活動に,ヘッセの珈琲とは,どんな
ものだった,か。一枚のノートPCを持つのは,
あまりある,だから珈琲の一杯は,生産的。
だから精力的に植物的な嗅覚と共に創作するのに,
イマジネーションの放逸を抑えるのに,またそれは,
珈琲の役目に精力的な生産活動を促進する。そのうち,
地下組織,地下組織。豊かさには,欠ける地底世界。その,
充溢する科学的精神は,グノームとも昔言われた実在で,
鉱石に囲まれて生きる,その生きるとは決して,遜色ない,
むしろ植物と鉱石に橋を架ける,グノームは珈琲。しかし,
正直に,創作精神を失うわけでもない,ラベンダー種を,
スプーン2杯,ドリッパーに淹れると,いつもより酷のある
むしろ,珈琲ドリップより軽い感じの淹れ方のできて,これも
また得なことだ,とも感じる。基本的に,技術の習得は,また,
デスク・ワークや機織りなどが,絵画や写真に活かせるレイアウトに
得になるわけでもある。珈琲習慣が,お茶ワークにも役に立つ。
軽さは『複雑さ繊細さより。』軽さは,地底世界を通ってから,多分
産まれてきたものだから,僕たちが,正直お空と植物の世界と感じる,
この”地上”は,グノームの地底を通ってやってきた。火山=珈琲より。
ヘロデ王=芥川は,聖書を産み,ヘロディヤ=アナトール・フランスは
世界の知性として,いつも天界のプラーナ。サロメー=A.ヒトラーの
贖罪をするため,ラザロ・バプテスマ=R.シュタイナーの叡智が輝けば,
人はまた太宰=イスキリの死を不思議に想い,ヘッセ=聖母マリアの
くびきを”贖罪”として経験する『魔の山』読み,トーマス・マン=ヨゼフの
これからは『時代』。こんな『ファッショナブルな美学=腸活の良しあし』と
昼の夢を試みながら,やはり珈琲は,切ない,聖書物語の歴史の切なさを
ループする繰り返しの歴史史観として表す,それは梔子の季節。
結局は地底世界は珈琲豆に世界を託して,顕在の世界から姿を消して,
そうして,財源が地下にあるわけでもないが,科学=非経済的経済は
確実にグノームは抱いているわけで逆説ではあるが,科学=経済とゆう
植物的情緒世界には理解できない非感情…

燕尾のたくましさ

一度,首を折ったようなものごとに,もう一度,
首を突っ込むのは,自殺行為だ。たとえそれが,
思想上の,解体を試む思想的行為だとしても。
だからといっては,前世ゲームなる統合失調症は,
電波抜きの終われば,『脱落,脱落』。終わる。
R.シュタイナーは,ラザロ・バプテスマ。何故かしら,
サロメーの首を前にしての絵画より,あの時代より,
グラールから宝石こぼれた。何故かしら,オロチの,
剣が産まれる画に親い。
R.シュタイナーは首を折られたから,呪詛的である。
しかしながら,呪詛的であればこそ,こちらからも
呪詛的である,思想的行為によって,宝石こぼれる,ので。

紺色の浴槽に身を沈めて,水色のタイルに目配せをする。
芥川の蜘蛛の糸のように,一筋の赤い蜜柑ネットの垂れて,
たおやかに朱を放っている。ここで,芥川。すべてが,まだ
自作自演であるとしたら,ヘロデ王の聖書誕生秘話は,昨今の
ユダの再認識によるサロメー,ラザロ・バプテスマへの指向にも
一瞥の与えられることこその,
『きっと,もうすぐみつかる。あの,
 先代のヨハネ・ラザロ・バプテスマへの遺稿。多分もうすぐ
 みつかるはず,遺稿の太宰治のアガスティア・はいスケッチ。』
こんな,とりとめのない後書きに使えるかしら,とゆうメモを
手に取って,アナトール・フランスは僕にとって,ダンマであった,
手を組んで,ふ、と。流れる熱い体温で,多分聖書物語のなかで,
サロメーの説話が1番の悲劇で,彼らだけは自作自演ではなかった,
だからその創設秘話を解体すべくもなくただいたずらに,ナチズム。
そこで,ヤマタノオロチのようなR.シュタイナーの贖罪があってまた,
現代は,その弔いの真っただ中に,紺色の浴槽に身を沈めて,
水色のタイルに目配せをする。芥川の蜘蛛の糸のように,
一筋の赤い蜜柑ネットの垂れて,たおやかに朱を放っている。
ヘッセは聖母のようだけれど,このようにとりとめのない話しぶりに,
また,無秩序の乱文詩のようになったのも,歴史は繰り返す,調弦の
怨霊のようになったものの,それは元来弔いの弔い返しのような,また
悲劇があったのは偶然でも,その偶然を取り返すのに果てしのない振れ合い,
だから『自作自演で始まる,シンクロニシティはそれで終わる。』から,
KARMA SPRINGとゆうBlogをやっているのはそうだけれど,もうすぐ,

相剋するファッション。

寝ざめする一歩手前あたりの,心地いい。
お酒のあてには,塩辛より,柚子の効いた粕漬。
手先指先から,宇宙船の加護のようにビーム電波線。
はからずも『はい』,とゆう言葉の真意には,そのまた
ファッションの相剋。次々と産まれてくる嗜好には,はい,
また,その次はいと言って,数々の目くるめく展開させる。
”うつ”を,回避する手先指先趣向なるものには,何がその
ビームのように抜けて行くのだろう?もちろん人文学的に,
業のような,画像のような,そのパノラマの,記憶のような。
何故だか,外に干したタオルと,家の中でたたずむ猫たちの
ご機嫌を窺がうポスト・オフィスの配達員のまなざしと
交互に内と外を入れ換わる,嗜好の渦は,目くるめく展開させる
柚子の効いた粕漬,宇宙船の加護のようにビーム電波線,その
ファッションの相剋。

もう少し相剋にブラックペパーくらいの辛さのある,七味を加え,
そうして,この麹の甘酒は...など,と講釈を下すそうだなもうすぐ
訪れる春の芽吹きのフキみそなど舐められたら,とは言って。いまは
ホワイト・ラムレーズンをお酒のお口直しにペロッと頬張る。それは
シラサギのススキを被ったモノクロームに,バリ島土産のヨガ・ママ像
浜辺で拾った青磁の瓶底に,ましてや拾ったもの,といえば忘れられない,
あの私たちの暗号24685859/23546745,8こんな数字の羅列が手先指先から
流れてくるような気がする。

寝ざめする一歩手前あたりの,心地いい。
お酒のあてには,塩辛より,柚子の効いた粕漬。
手先指先から,宇宙船の加護のようにビーム電波線。
はからずも『はい』,とゆう言葉の真意には,そのまた
ファッションの相剋。次々と産まれてくる嗜好には,はい,
また,その次はいと言って,数々の目くるめく展開させる。
”うつ”を,回避する手先指先趣向なるものには,何がその
ビームのように抜けて行くのだろう?もちろん人文学的に,
業のような,画像のような,そのパノラマの,記憶のような。
何故だか,外に干したタオルと,家の中でたたずむ猫たちの
ご機嫌を窺がうポスト・オフィスの配達員のまなざしと
交互に内と外を入れ換わる,嗜好の渦は,目くるめく展開させる
柚子の効いた粕漬,宇宙船の加護のようにビーム電波線,その
ファッションの相剋。


親父サンタクロース。

聖とゆうのは,お節介な輝きにも似て,
だから,情熱的に生きようともする。
だから,たたずむ親父サンタクロース。
停滞している訳でもない,マンネリズム。
お茶を呑んで,すっきりとストレス・フリー。
気が晴れたからといって,まもなくまた曇天に
気の塞がない訳ではない親父サンタクロース。
自分の本質は,何だろう?そう考えているから,
曇天に気も塞ぎ込むし,また私の本質は?
と考えているから,気も晴れやかになる。

もうすぐ回悟しそうだ,そんな気分になりつつ,
頭を抱えて,みずから本質について語り合う。
1つひとつ玉ねぎの皮をはいでゆく。そうして,
私の本質に辿り着く。1枚目の皮シモーヌ・ヴェイユ。
2枚目の皮夏目漱石。パリから,ロンドンへ。そうして,
3枚目の皮指先に,修道院の。玉ねぎの皮剥いて,その
すべてなくなってしまうであろう文化誌的トピック。
そうして4枚目からは宇宙だから,そのうち太宰治や,
坂本龍馬や,九郎義経から,弘法大師空海の5678。
こんな事では回悟しようもない。バジリスク絵画をめくる,
宇宙の回転を促す,連環世界のWORLD趣向に,もうすぐ,
私もキリストになる,byアントナン・アルトーだろう。
生きていること自体がキリスト象徴世界なら,犠牲美学は,
私もキリストになる,byアントナン・アルトーだろう。
ラムレーズン,頬張る。

聖とゆうのは,お節介な輝きにも似て,
だから,情熱的に生きようともする。
だから,たたずむ親父サンタクロース。
停滞している訳でもない,マンネリズム。
お茶を呑んで,すっきりとストレス・フリー。
気が晴れたからといって,まもなくまた曇天に
気の塞がない訳ではない親父サンタクロース。
自分の本質は,何だろう?そう考えているから,
曇天に気も塞ぎ込むし,また私の本質は?
と考えているから,気も晴れやかになる。

バジリスクと麦芽水飴

アナトール・フランスには,ロートレックの
和装の写真のように,儀式的な礼装の雰囲気は
ジャポニスムの中に容易に想像できるから,それは
好敵手も多いだろう。
ラザロのルドルフ・シュタイナーも,人類の代表者の,
トーマス・マンでさえ,ゼウスの太宰治氏とならんで。
強烈な,嫉妬と怒り,その憤怒をアナトール・フランス。
アナトール・フランスと言えば,その好敵手を差引いて
本当に,普通なエウロパ姫のような女性ヨーロッパ権化。
ヨーロッパ美術の典型的なフェミニストの現代文化と衝突
したときに限って,そういった礼装儀装したロートレックの
ジャポニスムの見られること必至。
だからといって,本質的にヨーロピニアリズムの本質は,
典型的な女性像としての変化を見せない古典的な風貌。

バジリスクの太宰治。みたまの振り,トーマスマン。そして,
パン種撹拌機のラザロシュタイナー。彼らは,僕たちの,その
人間性の中にゲノム記号として渦巻いて,ドイツ文化の先触れを
訪れた者たちへディクシャしてゆく。僕らは,バゲットのサンド
を,美味しく頂けないものだろうか?鳥人間をものおじせず。
そうして芥川賞を冠っている彼の龍之介氏の薫陶を歴代のその,
受賞者たちのレベルと相まって,推し進める事は可能?僕らは,
バゲットのサンドを,美味しく頂けないものだろうか?まだ,その
グルメとゆう隠し蓑の下に,芸術性とゆう美学の傘下にまだあの,
バジリスクと麦芽水飴の死闘が蠢いている。
フランスパンと,ドイツパン。
アナトール・フランスと太宰治氏の
死海塩風呂と空海雲海のそうして,またあの
幸せと散開の名のもとに向けて,申し訳なさそうに
バジリスクと麦芽水飴の死闘が蠢いている。

アナトール・フランスには,ロートレックの
和装の写真のように,儀式的な礼装の雰囲気は
ジャポニスムの中に容易に想像できるから,それは
好敵手も多いだろう。
ラザロのルドルフ・シュタイナーも,人類の代表者の,
トーマス・マンでさえ,ゼウスの太宰治氏とならんで。
強烈な,嫉妬と怒り,その憤怒をアナトール・フランス。
アナトール・フランスと言えば,その好敵手を差引いて
本当に,普通なエウロパ姫のような女性ヨーロッパ権化。
ヨーロッパ美術の典型的なフェミニストの現代文化と衝突
したときに限って,そういった礼装儀装したロートレックの
ジャポニスムの見られる…

悠愁なる椎の花。

LONDON ONE,ただそれは,また
『遥かなる調べは,果てのない汽笛の遠鳴り。』
城下町の造り酒屋を眺める,悲劇の女主人公は,その
町の出身で,いつも夜になると訪ねる。その,遠鳴りは,
LONDON ONE,ただそれは,また
『造り酒屋の,火消し鉄塔。物見やぐらの鐘の遠鳴り。』
切ないとゆう,その切ないとゆう感情には,人格改変の
手がかり含まれ,UKの古着カタログを眺めるより,また。
インターネット・テレビ局の配信をチェックするよりも。
カフェインレスのブレンドには,もちろん牛乳がよく合うから,
LONDON ONE,ただそれは,また
『人が亡くなるのは,ただ遠雷に含まれる,その稲妻の遠鳴り。』

”手先指先集中メソッド”なる,『眠りが原因の抑うつ症状』を
回避する,手先指先をびりびりさせるほど意識的に気持ちを抜いて行く
そんな方法を考案して,何かしら,『眠りが原因の抑うつ症状』とは,
言い換えるとするなら詰まり栄養を蓄えすぎた過電荷状態なのであって,
それらを抜いて行く”手先指先集中メソッド”は,とやかくゆうよりも。

LONDON ONE,ただそれは,また
『遥かなる調べは,果てのない汽笛の遠鳴り。』
城下町の造り酒屋を眺める,悲劇の女主人公は,その
町の出身で,いつも夜になると訪ねる。その,遠鳴りは,
LONDON ONE,ただそれは,また
『造り酒屋の,火消し鉄塔。物見やぐらの鐘の遠鳴り。』
切ないとゆう,その切ないとゆう感情には,人格改変の
手がかり含まれ,UKの古着カタログを眺めるより,また。
インターネット・テレビ局の配信をチェックするよりも。
カフェインレスのブレンドには,もちろん牛乳がよく合うから,
LONDON ONE,ただそれは,また
『人が亡くなるのは,ただ遠雷に含まれる,その稲妻の遠鳴り。』

椎の花の香りが,強く。強く,そうして,僕はやっぱり,この。
この,純粋な大らかな香りが好きだ。気付けば,暖房も,電力消費も
外気温の,ぬくさあたたかさに替わって,治まってきている,そんな
椎の花を開花させる春の温暖な空気には,きっと。春の,朝焼けに,
どんぐりの残りの実たちは顔を赤らめて,ほっ。としながら
微笑んでいるのでしょう。

ジューシー葡萄。

ひとつの解決法を試みたい,それはあながち,
放ってはおけない危機的な感情はさておき,
とゆうのもそれは解決した上での,”ある,解決法”に,
ついてなのだ。あまりに,頭脳を使いすぎると,その
倦怠感は,緊迫感と結びついて,交互にスパークリングの
葡萄ジュースを呑んだ時のように,耳からはじけるのだ。
コンビニをあるくのは,贅沢に過ごす一瞬の安らぎでは
あるが,それには安住できない緊迫感を抱いて,それを
むしろ楽しんでいる。
解決できない問題は,”眠りすぎる”とゆう,その一言にのみ。
時間軸は,空間,次元間を繰り返して,もうすでにそこに居ない。
だから,時間に留まるとゆうことそれだけが問題になるだけで。
もう,解決法と言えば,だからコンビニで買って頂く葡萄ジュースを,
唯一の嗜好品として。”もう,すでに僕は,時間の中には居ない。”って,
言う。それだけ。時間とは,何か。とは,闇に住まうセクシュアリティ。
こうゆう喉仏的な発想は時間軸に親いから,感情の置きどころは
”時間ではなくって,非時間的なものの中に。胸の中にではなくって,
手先指先の空間軸に。”

ひとつの解決法。
時間軸=胸の中に,住まうのではなくって,手先指先=空間軸に意識する,
それは,眠りから,目醒め。何の,解決法か。それは,多分。
きっと,自我の終焉,執着の解体,”業の泉”の解決法。
とにかく,感情的なものは,とゆうのは暗部に潜む感情的なものは,もう,
すべて,指先手先=空間軸に。
散財しそうなくらいの,情緒の解放を願って。
指先手先から,びりびり,と
解放する,それは。

『ひとつの解決法を試みたい,それはあながち,
 放ってはおけない危機的な感情はさておき,
 とゆうのもそれは解決した上での,”ある,解決法”に,
 ついて
 だからコンビニで買って頂く葡萄ジュースを,
 唯一の嗜好品として。』


失いそうになる,楽しみ

ノートパソコンは,元来キーボードも
ほとんどは一体化していて,充電していると
膝の上に置いてでも,通電している。そんな感じで
忘我している瞬間,それは1日の終わり,業の湯浴みに
放心した忘我している瞬間,さっきまで考えていたことすら
もう何にもない,
『言葉だけが,のこるのだ。』そう言って,まだ湯上りの
渇いたのどを癒さずに,呑まないとは,どうゆうことか?その
進歩的な実験的科学的精神。『言葉だけが,のこるのだ。』
死海塩(デッド・シー・ソルト)のお風呂に浸かって,のこる
思考の粒たちを,さぁ空海,さぁ空海,夢との付き合い方とは?

本当は,土の煙を吐いて駆けるようなデゴイチの農家さんみたいに
土地に両足を這って歩きたかった。酵素は身体中をめぐり,そのまた
身体中がクレイの土酵素と融け合うような。それが,何故かしら,
アナトール・フランスとゆう,知性の女神と憑き合うようになり,
”思考の粒たちを,さぁ空海,さぁ空海,夢との付き合い方とは?”
”ノートパソコンは,元来キーボードも
ほとんどは一体化していて,充電していると
膝の上に置いてでも,通電している。そんな感じで”
”失いそうになる,楽しみ”,むしろの
『失いそうになる,哀しみ』。
だから,『言葉だけが,のこるのだ。』,悲観はしていない,いいや
もう,ゾンビーのような生き方なのだ。

ノートパソコンは,元来キーボードも
ほとんどは一体化していて,充電していると
膝の上に置いてでも,通電している。そんな感じで
忘我している瞬間,それは1日の終わり,業の湯浴みに
放心した忘我している瞬間,さっきまで考えていたことすら
もう何にもない,
『言葉だけが,のこるのだ。』そう言って,まだ湯上りの
渇いたのどを癒さずに,呑まないとは,どうゆうことか?その
進歩的な実験的科学的精神。『言葉だけが,のこるのだ。』
死海塩(デッド・シー・ソルト)のお風呂に浸かって,のこる
思考の粒たちを,さぁ空海,さぁ空海,夢との付き合い方とは?

キリストとヘロディヤ。

太宰治とアナトール・フランス。例えば,そこに夏目漱石先生の我輩は猫。LONDON ONE TAKES YOU ANOTHER STORY'S OF ”KARMA SPRING”.LET ”KARMA ATTCHMENT” GO & BEN RED TAKES WHERE ”JESUS” IS WANTED TO WALK IN.”KARMA ATTACHMENT” は自我の失楽園を目指してすすむ,『手放すべき執着』。だけれど,”楽園”が魅力的に映るその語り部のより以上の感情の波に,生命の神秘。『業の泉』は,感情の波にさらされた常人の常ならぬ常。その中に,浸り切っている以上に,陽光への傘下の道はない,だからこそ,バリの神秘,芸術の道は常夏の傘下への道程誘う。薬にもなる,”業の泉”。行動しながらじゃなしに,珈琲は呑めないし,感情の波も”業の泉”より湧き出はしない。けれども,進歩する,その優等生指向を,珈琲を呑みながら嗜みながら雑談をしながら,嗜みながら運転しながら,嗜めはしないし。俗に,進歩的な話は,運転しながら,向かう目的地に到着する前に,より以上。珈琲を呑みながら,ほっと,する。銀色の目前に眠る前にほっと,する。進歩的に一度振り返って,目前に置いている銀色のお冷やに熱いカレーを添えて,やはり食後の珈琲,美味しい。『果ては,キリスト。』ヘロディヤも,ヘロディヤの父母も,同じように叫んだに違いない。バルタザアルはヘロディヤ父なのではないのか?ヘロデ王の遺言のように,イエス・キリスト神話の遺って,『果ては,キリスト』。LET ”KARMA ATTACHMENT” GO.ヘロディヤの”業の泉”より湧き出る古代魚の畔。”執着”だ。”執着”そのものだ。喜びも,悦びも,快楽も,Romanticismも。業の化身であるヘロディヤを,LONDON ONEは見守り,太宰,太宰,太宰。もうすぐ,業の泉より,LET ”KARMA ATTACHMENT” GO.Romanticismも快楽も,キリストとヘロディヤ。珈琲を呑みながら,KARMA SPRINGも,呑み干そう。まどろみ,温熱線。帰りに忘我しながら,眠りの国へ戻る,まるで,家に帰るように。

『中空グルメ』ふたたび

ホワイト・ラムレーズンを摘みながら, 文章を考える事くらいが,トイレにも行かず, 薄着のままで,文章を考える位が丁度好い。 と,ゆう中で,身体がもう, 寒さに堪えていない事に気付く。 五分袖位でも寒くないのだ。 メモ帳に,古いペンを使って,書いていると 少しずつインキが濃くなってくる。
例えば”悪”。”悪”とゆうテーマは, 『義憤』そのものであって, 中傷的であるうちは, 経済的で有り得ない。ましてや,無関心,など。
”KARMA SPRING”,湧水は 業の確執を洗い流してしまう。 ”業は執着。手放すことなり,”と。 手放す。”Let it Go”は,まるで, 経済的で,『考えない』,
記憶の領域にあって, 意識は常に過去を造り変える,振動させながら。 タイム・マシーンに乗って, 過去に往けば,必ず”体験者”は,過去の揺らぎを 語っている。歴史は何時も1つの辞書で, ”体験者”の受け取り方によって振動するように, 若干ながら,『意味』も変わってくる。 『意味』は,相殺しあうグルメからすれば, 何時も『意味=歴史=振動』する何かで, その対義語があるとするなら,言葉で言えば, 例えば,”業=執着” vs. ”手放す”のように, 『意味=歴史=振動』 vs. 『中空グルメ』なのだ。
ホワイト・ラムレーズンを摘みながら, 文章を考える事くらいが,トイレにも行かず, 薄着のままで,文章を考える位が丁度好い。 と,ゆう中で,身体がもう, 寒さに堪えていない事に気付く。 五分袖位でも寒くないのだ。 メモ帳に,古いペンを使って,書いていると 少しずつインキが濃くなってくる。
病床に立っているかのように, 明るい時間には,ドーパミンが出て, 眠たくなくなった。何時も,目醒めていたい。 それは, もう”天国かみになく,ただ大空こそありけれ”と, 語った『私は大空そのもの』と, 是非とも,思い込みたい, 春の夜明けは見る間に,紅潮するドングリのよう, みるも見る間に花のにおいが,ドングリの花の においがしています。

業の泉に『中空グルメ』

グルメは打ち消してしまう所に,
真実らしさのあって,ジャポニズムが
あれ程
歴史で謳われているのに
何もあった事,知らない僕らは,
そこに『中空グルメ』を見る。

今となって,『憧れの星』に落ちる事を知らずに
神になった,フォン・クライストの
何故『憧れの星』でなくては,
むしろ”忘却の星”に産まれる必要があったのか?
それは,打ち消すための,相殺するための
『中空グルメ』による修得の必要があったから。

ある時『一粒の麦死なずば,』とゆう伝言を,
ドストエフスキー”カラマーゾフ”,
知人の手洗いのカレンダー,
あとは何だったんだろう,
本当にヨハネ福音書の内容から,
『一粒の麦死なずば,』のテーマを
頂いたのだろうか?
本当に死ぬのでは,ないのだけれど,
精神的には
自らライ麦の種になって落ちるのであれば,
『エンパスになる事』,
『業の湯浴みを恐れない事』,
『神秘主義の門前に恐れずに立つ事』
を忘れない。

イタリアのズィンゴニアとゆう小麦棒。
”グリッシーニ”とゆうお菓子を,小袋で購入したら,
版画のような小麦の華が咲いていた。何故だろう?
『一粒の麦死なずば,』のフレーズを思い出した。

業の湯浴みに出掛けて,”グリッシーニ”とゆう
華の咲いた,アナトール・フランスの春。
麦の華が咲く。アナトール・フランス。
業の湯浴みに出掛けて,麦の華が咲いた。
現象だけで,物事は片付くわけでないし,
体裁もある程度ないと夢は見られない。

『中空グルメ』ラム・ダークでレーズンを漬けて,
溶かしたココナッツ・バターと和えれば,
”冷やして召し上がれ”『ホワイト・ラムレーズン』

縦長の紙バッグに
麦の華グリッシーニと詰めれば,何だ,あれ?
沢山の麦の華が咲いて,あの後,何になる?
名前を忘れて,その後,アナトール・フランスの
名前を憶い出すと言う,『中空グルメ』。

フォン・クライストの希求したとゆう,
”憧れ”は,きっと,『業』とゆうもので,
アナトール・フランスの春は,
ロンドンの春。
印度に咲いた麦の華は,
業の泉として,佇んでいる。

限定する”夢見”。

『ルシファー(創造性)の道を通り過ぎて,
 アーリマン(物質原理)へ到着する。その時,
 キリストはもう居ない。』この,R.Steinerの
”第五福音書的発想”の流石にルシファー・グノーシス誌
発刊者ではあるような。『現実に生きる』とは言い過ぎかも
知れないが”夢見”の道を通って,裁断する現実的思想への
プロセスを辿らせるR.Steinerの技法は流石。そんな,
”夢見”の道を通るとは,業の湯浴みの瞬間。
つづく技法は『限定する”夢見”』の道を通らせるから,
まさにUFOを待つ樹々の梢に。とゆう,話は否めない。

何にでも,珈琲にはミルクを加える癖のついてしまった。
ストレート,と言えばミルクで割る,を意味する。勿論,
僕にとっては,カフェ・ラテへの道程を踏む気には,毛頭
なれないにしても,どっちみち中空の無に帰すグルメ,そう,
相打ち相殺してしまうのはグルメにとって,不可欠。もう,
道しかないのであって,中身は打ち消してしまう。真理は,
道のない土地である。言い得て妙なクリシュナジ。しかしながら
道には中身のない打ち消しカラッポな理論を求められる,そうして,
ますます『現実に生きる』,やっぱり風鈴の音の如くに,何もない
意味のないような振りをして確実に涼を取らせるあの不思議さは,
道のない土地に踏み入れた足先に響く風鈴の音。横たわって,
息のつく間のワンテンポ・ツーテンポを,コモン・センスに。

『ルシファー(創造性)の道を通り過ぎて,
 アーリマン(物質原理)へ到着する。その時,
 キリストはもう居ない。』この,R.Steinerの
”第五福音書的発想”の流石にルシファー・グノーシス誌
発刊者ではあるような。『現実に生きる』とは言い過ぎかも
知れないが”夢見”の道を通って,裁断する現実的思想への
プロセスを辿らせるR.Steinerの技法は流石。そんな,
”夢見”の道を通るとは,業の湯浴みの瞬間。
つづく技法は『限定する”夢見”』の道を通らせるから,
まさにUFOを待つ樹々の梢に。とゆう,話は否めない。

ロンギヌスとキリスト。よくは解からないが,
桂小五郎と,坂本龍馬。僕は,太宰は死なずに岡潔先生に。
龍馬はロンドンに渡って,伊藤博文に。そうして,
九郎義経は,モンゴルに逃げてチンギス汗に,とゆう伝説と
酷似して,時代の相違は跨いで,空海も怪僧文観に換わった。

岩窟思考(主客没入)

角盤山清水寺,八百比丘尼,赤猪岩の三者。
岩窟思考と呼ぶ,”岩の瞑想”。
古文は,主語を失わない程の主客一体,
主体と世界の一体を主述不均衡によってあらわしては
いるが,岩窟思考(岩の瞑想)は,主客没入と
言える程,安堵感の,むしろ思考の休息を
与えてくれる。岩の中に這入ってしまおう。むしろ,
悠久の時を備えた,パン種のような
思考のエサに這入ってしまおう。そんな時”蟲の神”にでも
なってしまったかと感じる程。
例えば発酵が光りを求めるまでに進んでしまうの
なら,それは
岩窟思考を伴った何かであるに違いない。
むしろの”好気嫌悪”は
闇に親い,
『光りは,闇よりうまれるものらしい』
詰まり,光りの要素は,嫌気発酵より発生するらしい。
だから,『光りは,闇よりうまれるものらしい』
嫌気発酵は,いつもひとを窒息させるから,嫌気発酵的
人間は,常に”隠匿的”にされる。
いつか,文字の手段は”魔道”と聴いた。
『嫌気発酵のほうを向いて,闇を内に抱こう』それは,
『光りは闇よりうまれるものらしい』
描かずには,おられず,筆を執る。
光りから,闇の時代を向いている
ものらしい。光りの産業は詰まり,
原点を言えば嫌気的闇から
出来上がったもの。だけれど逆説的に,
人類は闇のほうへ向かうものらしい。
『嫌気発酵のほうを向いて,
 闇を内に抱こう』そんな,嫌気的闇を,
常に,この『日本』の中に,捜す。
元々,体内の発酵は嫌気的であるから
嫌気的闇は”グラウンディング”に向いている。
『”愛”のために,葬儀にでるのか。いいや,”革命”の
 ために。』と,エンパス指向についての記事に表現したことが
あったけれど。エンパス指向=ホ・オポノポノ体質=平和気質に
対する”隠匿的”傾向は継続しそうだ。『考える人間は,人間。』,
こんなCommunity構想に必須なアミノ酸的な流儀を必要としている
いいや,言い換えよう,
『こんなCommunity構想に不可欠な亜鉛鉄分のようなHumanismを,』
僕(等)は希求している,だから
もっと『革命的”静かな生活”構想を
    世界に,ひろめよう』。
文学の生活は,闇に親い。




左回しの珈琲,

殊に時たまある,右回しの珈琲。そんな時,
淹れている僕は安堵の息を洩らすのだけど,
左回しの珈琲と左上の手の組み方を憶えて。その
少しずつ空っぽの地点に親づいた気のする三十路過。
思春期は細胞分裂が活性化しているから,辛いし
勢いもある行動に結びつく。そのまま行けば,
サイコパスになりかねない人生の指標はうまく,
機能して僕たちの支配構造を精神面で変えて行ってる。
もうすぐだ,もうすぐ。何故かしら,漂って呟きまた,
呟いて漂っているたゆたう僕らは第二の人生。
電気が通っている家の壁面は,贅沢ではある。けれど,
何故だか刹那的に,寂しいから,むしろ薄手のスキニーを
履いてはインナーウェアで過ごしている,壁面の熱源よりも,
身体の細胞分裂をこそ抑えようとのお達し,受けては返す,
忘我の告白。

…… 右回しの珈琲。そんな時,
   淹れている僕は安堵の息を洩らす ……

もうすぐだ,もうすぐ。『確執は解けて,業の泉も解体する』
概念の身体は反転して,猫の着地の半回転。
思考の縦糸は張りきり,ジャコのおやつは今。
思想の波板も震えて,弛緩する筋力は穏やか。

空っぽの時に良い文章は書けるとゆう。
ShelterHumanismは,岩窟の聖母のような,涙もしたたる,
岩肌には,永遠の感情の時間を忘れた生命がある,それは
切なさとも哀しさとも人間性には感じられるけれども,岩の
”人生”からしたらShelterHumanismなのだ。岩窟の聖母。
ダ・ヴィンチは岩石の思考などを描こうとした時。例えば,
転生の秘密。その人のオリジナルは,多分それぞれの”岩石”。
内側にある岩窟思考のようなものに現れている。だから,その
脊椎の所にあるブラック・ボックスのようなものを探れば。その
彼のオリジナリティの見えてくるなど,ダ・ヴィンチの画には,
発見される何かのあるのでなかろうか?そうだ,もうすぐ
岩石は降ってくる。頭の中で,夢のなか椅子の降ってくる童話を
完成させた80’sのクリスマス・イヴのような。
その経過を連れづれに描いてゆこう。

芯のある昆布巻き,

堅く立った,遺る芯のあるお米の粒のように,
芯のある昆布巻き,かんぴょうがそれを演出。
詰まりは,”芯”は『真ん中ではなく,周りの。』
包む,ころもや,練り物などが一番の”肝”であって,
だから小麦粉は尊い。彼らドーパミンを包んで。また,
中身には,充実さを含ませて。だから,神さまとゆうのも
そう言う,沿革上をつつみこむ何らかの皮革の部分の,多分
そうした”支え役”の事を言う。中身のひとは,”こども”なので,
いつも愛でる”神さま”の皮膚は,堅く皴がれて,涸れていているから,
気付かないのだ空気も,熱射線も,鶏虫干しする大地の鮮度豊かさ。
怒りも,裏返るとすがすがしい。大気の中で,風穴のように。
もう侮ることも知らない幼子のように,裏返って放射する”怒り”の
放射線とは,実は光りであって,輝きで,むしろ毒物を含まないから
放射線なのではと思った。人の立場は様々な故,珈琲が苦手な人も,
甘味の嫌いな人もいる。裏返る,とは酷い言い方だけれども,それは
『諦念。』と言っても差し支えない平板化しておだやかな表情を浮かべ
おもむろに笑い出すその顔色の機微にはきっと。もうすぐ春が来るから,
それぞれの虫干しをして,表に出れば沢山の豆の木がなってくるだろう,
”堅く立った,遺る芯のあるお米の粒のように,
芯のある昆布巻き,それがいい。”何をしていても,世界は変わる。
それは,基準の満たされる何か,『恍惚の人,コウコツの,ひと。』うん,
だから多分それでいい。思ってもみない所で,バカボンのパパみたく,
精神の抜けてしまった僕だから,もうちょっと先に行ってみようと思う。
バカボンのジジになって,そうしたらきっとやっぱり”天才”に化けるだろう
神?もののけシシ神?スサノオは暴れて地に下った。サナト・クマラや,
金星の大魔王伝説(鞍馬寺の600万年前に”魔王殿”に鎮座ます大魔王,
”金星”より入来立った。)はては,サタンになったとゆうルシファー伝説は,
グラールの聖杯と比して,親い。聖杯から落ちた宝石の屑は,ライムギ種では
なかったかなんて,妙にクラフト地味た気持ちの起こる,そのようなものの,
話のタネに,芯のある昆布巻きの生えてきたらそれでいい。何の気なしに,
摘まんで食べるのはバカボンだからそれでいい。”怒りを放射する”=それは,
いたずら者だったスサノオは,怒りを放射しながらお椀…

電位は通電する身体に,

祈りは,身体に働きかける,内と外の
ミクロとマクロの,宇宙と心理の相応の
『電位は通電する身体に,』……Web上の
心身相応は,身体に働きかける祈りに親い。
反転するものだ,『世界の悩みを宿した,』その
身体は,いずれ反転するものだ。もう,何度か
反転しているその度に思う,『世界の悩みを宿した,』
その身体は,いずれ反転するものだ。と,

何故かしら,世界を宿しているらしい,気付いた後。
世界に対して怒りを覚えるよりは,むしろ純粋に,あの
『愛しているのだ,』受け容れる,純粋さ故に。だから,
間違えなくってもいいと思う。まずは,身体中の翻る。
反転する前に,少しずつ裏返ってくる。世界を宿した,
純粋さ故に。多分,元来世界の種を身体に宿しているらしい。
”世界から産まれてきたものであるらしい。”
そう,思って
『世界自身は,世界を変える』なんてゆう,逆説的な話が
浮かび上がってくる。地底に産まれてきた私達の,元来,
世界から産まれてきたのならば,世界を変えるお節介は,
元々論理的ではない。わかっているけど,いてもたっても。

『電位は通電する身体に,』……Web上の
心身相応は,身体に働きかける祈りに親い。

世界を変えるなんてお節介だってわかってる。何故なら,
自分で自分の身体を食べるようなもの。それはお節介。
だから節度を持って,接しようと,身体に働きかけるのは,
しかし,少しずつにはできないもの。
『・・・・・・地底の身体をまとってしまった故。』

反転する身体は,世界を変えるその地上に返った”地底世界”。

急がないし。怠けたいし。むしろもって,返りたくないから,

世界はそのままあるがいいなんて,思って。
自然一体化,叫ぶ。
業の泉は湧き出るまま。
湯浴みし湯浴みし,
浴びた後は。
またしっかり,眠りに就いて,豪快に息を抜くイビキの饗宴は,
もう,推し量ることのできない
終焉へと私達を向かわしてゆくそれはもう。
自我の終焉。とは,ジッドゥ・クリシュナムルティの語った言葉。
非常に美しいが,つまり実際には抽象的に,
『世界の終焉に,それは身体の終焉に。
  一日の終わり,人間関係の街の精神体の終焉に親づく。』

『電位は通電する身体に,』……Web上の
心身相応は,身体に働きかける祈りに親い。

普通だ,

意外と何もかにも普通だ,それにもまして
こだわりとゆうものが内側にあるにしても,
それはこだわりとゆうだけで,何も問題ない
から,それで何もかも普通なのだ。価値観として,
それは楽観的な,『意外と何もかも普通だ,』。

珈琲を左回しにいれるとしても,意外と普通。
左回しに豆乳とデカフェでも,また意外と,
そうして眠りの手前にあって,忘我の瞬間に。
お家も身体の一部,人間関係もまた身体の一部。
精神体として,街も地域も。身体の精神体なので
大都会に遊びに行くとどれだけ楽しいかなんて。
精神体の大きい。大きい神と書いて,大神様は,
精神体の大きさは魅力的で,そうして,大きいのが
何故良いのかとゆうと,『意外と何もかも普通だ,』。

楽観的なのは,良くないのかとゆう問いに,下世話な
悩みと付き合うように向き合って。『逆』で,ギャグで
しかない。楽観的なのは,大きいとゆうことで,現実。
だから,悩むとか言うものではない,『食べる』ことと同じ
で,自然の繰り返しと共に,『また,昼が,夜が来た。』,
そう,思って,楽観的なイマジネーションの大きさと付き合えば
良い。キールタンとゆうインドのマントラを西洋音楽にのせて
謳う,そんなキールタンを聴きながら彼らその創唱者は,非常に
『大きかった』。

意外と何もかにも普通だ,それにもまして
こだわりとゆうものが内側にあるにしても,
それはこだわりとゆうだけで,何も問題ない
から,それで何もかも普通なのだ。価値観として,
それは楽観的な,『意外と何もかも普通だ,』。



妙好人抽象

今なら讃美歌のよさが,わかる気がする。その,
クリスマス・ローズの美しさのわかるように。

抽象思考,大病院をみて思った。『これはおおきい。』
だから,構図設計図をみるようになかなかの大建築を,
抽象思考によって把握する。『院長先生のご苦労お察し
致しますが,少々自己の肥大を感じるが故。虚言妄想と
思って受け流して下さい。』こんなことを,観じながら,
さらに統合失調症の抽象思考をして思うのに,精神的な
エリート。そう,感じては,もう,抽象思考のお相手は
いなくなってしまった。目を閉じ筆を執る,親鸞和讃。

話は違いますがデジタル音源の流行によって,主流は
電子書籍も例にもれず,webや電磁線を超えた何かでないと,
文学性も文学性ではなくなって。『文学も通電し始めた。』,
親鸞和讃を,ご仏前にクラウド・コンピューティングにより,
和讃オール・エンドレスプレイしながら思う。もう神仏も,
クラウド・コンピューティング。『神仏も通電し始めた。』,

確かに,或る阿呆の一生。放念して,恍惚と過ぎる妙好人の
彼らは,放電しつくした,その平板人間,脱落勧請の,或る
渡来人の一生。旅をして来たのだ。遠い,遠い神々の世から。
常世の国とは妙好人の郷。天然没して,参賀うしない,そう,

魅惑的な『天然のマカロンニーを茹でて,ガーリック・オイル。
ツナ・フレークを合わせてお醤油をそそぐ妙好人。』みんな,
みんなとそれぞれ違っているわけではないのだから,嬉しいし
そして悲しい。違いを見つけるほどの勇気もなければ,やる気も
ないので。

なんて言う『怒りの忘却』にいる妙好人たちの,そう,
そういえば初めてスパゲッティ屋さんで頂いたパスタは,なんか
茹で立てのスパゲッティに大根おろしとツナ・フレークを乗っけて,
それに醤油をかけるだけ。とゆうとっても高次の域に達した,
鑑の中のカガミとゆうほどの今でも真似できない姿だったけれど。
それは皮肉ではなくって,本当に人気のお店の定番メニュー。

ふと顧みて,妙好人レシピとゆうのは『考えない,流れに仕上がる。』,
そんな自然思想で,絶望の話のタネもなければ,多分もっと映るものには
眼前に楽園のような生命の木が建っていて。

今なら讃美歌のよさが,わかる気がする。その,
クリスマス・ローズの美しさのわかるように。



エンパス指向を取り除く,

おじいちゃんが,なくなった。だから,
そろそろ,エンパス指向を取り除かなければ。
自分に,嘘をつく,とゆう言葉がある。だから,
そろそろ,エンパス指向を取り除かなければ。
エンパス,とゆうのは共感癖のあるひとの呼称。
共依存とゆうのも,それに親いことを言うのかも。
平和共感作用のことを,ホリスティックに呼ぶ。
全体性,そのホリスティクス,普段問題はない。
けれど,エンパス(共感者)であると,問題は
葬式になど,でようものなら,リアリティのある,
参列者が,沢山の宇宙から訪ねてくる。たぶん,
自分に,嘘をつく,とゆう表現は,怒りの忘却。
葬式にさえでられない,こんな私の夕焼けの色。

『”愛”のために,葬儀にでるのか。いいや,”革命”の
 ために。』何だか,うわ言のように,ニヒルなメロディー。
今なら,シュタイナーの哀しみもわかる。ニヒリズムは,
業の湯浴みから,うちへ帰って,何故だか”怒り”のように,
発奮して,うち流すシャワーの水音の,業の泉の残滓。
アストラル領域とか,エーテルの四界とか,そのように。
波の音の,せせらぎに紅い海亀の”悲劇”や,そのような。
ゆくゆく,その業の領域を背負って,憤慨して還る,あの
イザナギの黄泉返りは,返ってきたとき,女神の顔だ,と。

おじいちゃんが,なくなった。だから,
そろそろ,エンパス指向を取り除かなければ。
自分に,嘘をつく,とゆう言葉がある。だから,
そろそろ,エンパス指向を取り除かなければ。
エンパス,とゆうのは共感癖のあるひとの呼称。
共依存とゆうのも,それに親いことを言うのかも。
平和共感作用のことを,ホリスティックに呼ぶ。
全体性,そのホリスティクス,普段問題はない。
けれど,エンパス(共感者)であると,問題は
葬式になど,でようものなら,リアリティのある,
参列者が,沢山の宇宙から訪ねてくる。たぶん,
自分に,嘘をつく,とゆう表現は,怒りの忘却。
葬式にさえでられない,こんな私の夕焼けの色。

身体の生命現象を抜く,

最近は,アーシングと言って,静電気を除く
ような感じで,身体の生命現象を抜くことが,
流行っているらしい。とゆうか,ぼくはそうゆう
風に,”生命現象を抜く”ものと,解釈している。
脱落,脱落。とは,禅宗のお坊さんは皆言うらしい。
『いま,ここ』なる,自己同一性に至るには,また
自然一体化か,自他同一性に到るには,もう,その
脱落,脱落。の”生命現象を抜く”とゆう作業が是非とも
必要らしい。アーシングの静電気抜き,とは脱落のこと。
業の泉,とゆうBlogを遣るさながら,そのネーミングだけで
世界は,水によって設計された建造物と思って頂いて差し支えない
お豆腐を作るのにニガリを入れるような,そんな建築物と思って
頂いて差し支えのない。『芸術に活きるか,概念に落ち着くか』。
冷静の中には,いつもアーシングのアース作用を見て取れる。
情熱のうちに,電気コイルから生まれる温熱線の輝きを知る。
『芸術に活きるか,概念に落ち着くか』。例えば,焼き菓子と
聴いて,ポム・ドなんとかとゆうカスタードの挟まった,お菓子
なのか,ガレットとかのパリパリカリカリ,さくさくっと,お茶に
合うような,そんな味覚を持つのか。

急に始まった,アーシングの身体的作用を思って,直接的に禅宗の
修行とゆうものも医療的には抵触しないと思われるの故。それは,
概念嗜好の問答も含まれているからこそ,禅定ならぬ,自己同一性と
呼ばれるその自然一体化のさなか,『いま,ここ』詰まりの,それは
自他同一性につづく道のりの上,ところどころに顔をのぞかす寝息吐息,
身体の生命現象を抜く,アーシングの静電気抜き,とは脱落のこと。
業の泉,とゆうBlogを遣るさながら,そのネーミングだけで
世界は,水によって設計された建造物と思って頂いて差し支えないから,
それこそ湯舟にニガリを漬け込んだようなデッド・シー・ソルト風呂を,
まずは水分抜きと,豆腐になって納まったつもりの白い豆腐料理のつもり,
お次のお風呂上がりには,身体から静電気=生命現象の抜けてゆく,これを
多分,”デトックス”と呼ぶ,硬水を呑むミネラル効用もそうゆうこと。そして,
そんなに業の泉で生きることが嫌なのかい?問われれば,問われるほど,
『芸術に活きるか,概念に落ち着くか』。地に足着けて,分るよ,解るけど
もう足元は全面死海の湖面なのだ,もう歩ける足元はない,…

IntuitionalTranfanction,

無意識に親い直感のことを”イントゥイション”とでも
呼んで,『直観形式』と言うことにする。転生の秘密,
とでも言ってもよいけれど。”イントゥイション”の日常は
書物の渉猟,『前世』ゲームとでもゆう,自己憑依的な
文学性であるから,詰まり文学とゆうのは霊的なもの。
神に還る,とゆうのは書物の渉猟で,文学的なものに,
他ならない。個性は直観形式に準拠してモラルを超える。

アナトール・フランス(ヴァレリの前のアカデミー・フランセーズ)
ーハインリヒ・フォン・クライスト(ヴァン湖の畔で果てた文人)
ーアランソン公(ジャンヌ・ダルクの支援者)
ークラウディウス(皇帝ネロの先代)
ーヘロディヤ(サロメの母)
ーモーセ(十戒の海を割り)

このような,連環を考えるうちに”イントゥイション”の嗜好は
ベルフォールのライオン像に到る。要塞都市ベルフォール,その
要塞の一角を占める”祈りの空間”が,ライオン像。何故だか,
要塞の主になった獅子の像は,”白鷺”姫路城の,お岩さんの井戸の
神秘的ひんやり感と酷似。幽谷に神を訪ねるような心地で,日常は
狩人が獣神パンを狙って,渉猟する,その間にミイラ取りのミイラ。
私自身の獣神になって還った,そのライムギ・パン種を心地よく。

そのような,芥川氏は,ヘロディヤの夫ヘロデの時代に還ったかのように
侏儒の言葉,フランスのエピクロスの園にオマージュを掲げながら,その
神に還った芥川氏は,寝枕に立ち,LONDON ONEに,サマー・ランドの
輝きを伝える。東照宮の天台香を愛でていたのは,持論の崩さない,
東照宮の横に,真言の密教書,あるいは源実朝歌集の常備してあった。
三賢バルタザアルの翻訳を芥川氏が担って,僕は,ヘロディヤの父親は
バルタザアルではなかったか。そんな漱石は実は,倫敦に向かいながら
フランスのジャポニズムを担っていたのでは。などと,芥川氏の仏文学の
少なからず漱石寄りの薫陶をにおわされずに居られない,文学性は,
神への回帰,そうして書物の渉猟,”イントゥイション”の日常。

無意識に親い直感のことを”イントゥイション”とでも
呼んで,『直観形式』と言うことにする。転生の秘密,
とでも言ってもよいけれど。”イントゥイション”の日常は
書物の渉猟,『前世』ゲームとでもゆう,自己憑依的な
文学性であるから,詰まり文学とゆうのは霊的なもの。
神に…

もちろん視線を強化しよう

FOOEATGOD=GOEATFOOD
LISTENEDTOMUSIC=MUSEDTOLISTENIC,
ラッキー・セブンと,幸せハッピー。
GO UP TO MOUNTAIN 47,

神を食べる,それは外食文化。
聴くこと,それは1%の霊感に。
エンパシーの共感作用が働く時代,
確かに『食べる』,より『聴く』。

神を食べる,とはいかがわしくも,
もともと『捕食』,『生殖』,『世界発展』。
これらの,異種交流が行われる際には,必ず,
何らかの『物質主事』,固形鉱石が必要。
むしろ,
これからの”聴く”,”不食”,”共感作用”が
世界を覆う時代には,プライバシーの観点。
それは,電話帳に知人の名前を書き込む。
9割方同郷ではないのだけれど,同居する。

FOOEATGOD=GOEATFOOD
LISTENEDTOMUSIC=MUSEDTOLISTENIC,
ラッキー・セブンと,幸せハッピー。
GO UP TO MOUNTAIN 47,

むしろ傷つけあうことはないのだ, プライバシーの必要な時代なのだ。 『聴く』ことは,『捕食の代用』に,

”愛”は,みつめる事へと昇華して。

前世もなくなるだろう,不食の時代。 エンパシーの故に,不食し聴く,その 世代は,永遠の生命。
外食文化は何処へゆくのだろう。もちろん, あり続けるそのまま。ただしもって, 音楽の楽しめる外食文化に進展してゆく。

”愛”は,みつめる事として,例えば, 前時代に『愛であった,欲求は,のちには 思考である,真実目線になっていった』のに, これからの プライバシーは,殊に真実目線を眺めやる, 概念思考に掛かっているから,
FOOEATGOD=GOEATFOOD
LISTENEDTOMUSIC=MUSEDTOLISTENIC,
ラッキー・セブンと,幸せハッピー。
GO UP TO MOUNTAIN 47,

神を食べる,それは外食文化。
聴くこと,それは1%の霊感に。
エンパシーの共感作用が働く時代,
確かに『食べる』,より『聴く』。

デッド・シー・ソルト,

死海の塩を分けてもらって,化粧水に,とか
つらつら,と実際的でないことを想いながら,
戴いたのを全部お風呂に浸かって使ってしまう。

耳から,水が抜けたような気がして,目が覚めた。
すこし湯舟で,うつらうつら,としていたようだ。

リンパ腺の腫れやすい体質をしていて,右の顎辺り,
いつも腫れるのだけど,それを改善しようと,ずっと
試行錯誤”思考癖”まで変えようとしていたところ,その
たちどころ,まぁ締めくくりみたいな感じと言いたいけれど
『体質改善』してしまった?のだろうか,とゆうくらいに
耳から水が抜けた。浸透圧の加減はあると思うけれど,
温泉などと比べても,マグネシウム率を高くできるし,多分
身体から,耳を抜けて,滞っていた何かが抜けるのだろう。

『化粧水に,』とゆう野望は捨てきれない。塩分だから荒れる?
そうは想いながらも,いやいやミネラルの高い分,もっと何か,
シア・バターなどと混ぜれば絶対いけるはずだ。むしろ,食品の
ココナツ・バターの方が良い。直感的にそう思う。だけれど,
その嗜好の最中,死海塩を食べてしまいそうで,大丈夫なのか?
と独りで,悶々とする。なぜ死海の塩なのか。そう考えもする。
ただニガリで良いではないか。それが天然だから,とゆうのは。
やはり『人間性』とゆうものに親い何かを,『自然天然性』は
地球のうちに抱いている。

逆説的に言って,『耳より水の抜けて,”思考癖”が変わる。』と
ゆう,奇妙な現象も感じられないわけでもない。それは,”思考癖”
ってゆうのは。むしろ,”癖”を持っている,のは”水分”で”自然の中”で,
頭脳は,”思考”や,”癖”があるものでない,『思考するのは”水”だ。』
とゆう,一風変わった趣向に陥る。その最中,では次のステップは?
今まで果敢に排毒に努力してきた分,なにかにトライしたいらしい。
多分,感受性はより空気に親い,”Mind Of The Air”と,
換ってきているので,その過程によっていろいろ視てみると良い。と,
自分に話しかける,もう”水分”は隔絶して把えたい,そんな心情はある,
あるけれど,『空気には,話しかけたい。幼かった頃のように。あの,
煙突のけむり,ガス臭さ,ひんやりした風に,話しかけたい。』そうして,
また,のん気にお茶をすすりながら,嘆息をつくのである,まるで,
冬の陽の過ぎ去ったかのように。

死海カワウソ。

デッド・シー・ソルト(死海塩)を入れて,
お風呂に浸かる。
『概念で人は生きてる,』って。
思いもよらずエモーショナルな排毒が,その,
概念で人は生きてる。って,言い放つさなかに,
情緒の動き出す。『…エモーションでは生きられない。』
思考vs.情緒のはざまで,お風呂のまどろみを,
繰り返しながら,エモーショナルな満足な時間を
過ごす。『実は,エモーショナル中心の世界にあって,
俗語のように”概念”は排斥されている。故の業の泉。』

環境問題から言って,人間は動くことすらできない。
これは,断言できる。濃密な死海の中を漂う現代文明。
思考はエネルギーを持ち,エンパシー(共感性)の
作用する,反作用で返ってくるアンティパシー(反感作用)の
世界は完全に塩基の海へと還った。だから,俗語のように,
”概念”とゆうキーワードを用いるそれは,アイデンティティ。
また,個我,また左回しに淹れる珈琲の僅かばかし右回しの
安堵の時間。環境問題は,”全体的に考える”って課題を戴いた
人間の身体に,いや応なしに『全体性の烙印』を押し付けて。
その,全体性思考には,共感作用を分解して冷静にものごとを
見詰める,そんな時間は与えられない,責任感?自己はそう感じる,
だけれど,押し付けられた課題を拒むことなしに
遂行させるテクニックを,『地球』は持っている。…全体性思考。
『課題として,』とは言うけれど,”受け容れた”時に,修了する,
”受け容れた”とは逆説ながら”合格”の時。『地球のいびき』,
『地球が眠っている』,はたまた,休息時の安心感。
『目いっぱいに休息する地球意識』の突きつける”課題”。

…環境問題から言って,人間は動くことすらできない。
これは,断言できる。濃密な死海の中を漂う現代文明。…

…デッド・シー・ソルト(死海塩)を入れて,
お風呂に浸かる。
『概念で人は生きてる,』って。
思いもよらずエモーショナルな排毒が,その,
概念で人は生きてる。って,言い放つさなかに,
情緒の動き出す。…

また,お雛壇の香り。

基督も,影のロジックも,牛頭大王も,
犠牲の愛も,芥川文学も,神的全体性も。
みんな,繊細さのコミュニケーションから
人間社会の発展,歴史は,おんなじだ。
結局,犠牲から全体性への道をあゆむ。
INNER NETとは聴くけれど,もう,
集合意識への進展と聴くけれど,それは。
愛とゆうものが控えめなコミュニケーションから
始まり,控えめなコミュニティ全体へと結ばれる。
牛頭大王や,犠牲などは影の論理などとは呼ばれ,
邪宗門のイメージ高いけれど。それは,”愛”とゆう
当然の控えめなコミュニケーションから始まる。また,
神的全体性とは環境を包括して,コミュニティへと。
春の疼きに従いながら,咳や鼻をぐずらせながら,
身体中がぐるぐる。巡回しだしたなら,それは,また
コミュニティへの,全体性”夏”のコミュニケーションへの
始まりに立っていて。早めに外の世界への視線にシフトし,
全体性=自我内面だったもの,それを全体性=世界への視線に
シフトし,岩塩をなめるような段階へと野性の毛皮へ,と
野生動物のもつ酵素や,全体性への入口をそこにみるなら,
春の季節の持つ酵素を,存分に取り入れて,野性を身体に
取り込むその処世術は,四季の世間,外部の世界へ,と
中華料理に特有の豚の天ぷらなどの処方箋レシピを用いて
夏の夜まではゆかないまでも,季節の変化に身体を合わせて
野性への道,野生動物への精神体質変化を指向する。その,
蝋梅も散って,アネモネ早生,また桜など咲きながら,クチナシの
ひろがる頃には,時雨どきに,湿り気の嗅いで,庭先の
全体性を感じよう。

ぐるぐる循環,

いままで,身体の中をめぐる,ぐるぐる。
循環して,感情体の,ぐるぐる。インナー・チャイルド,
そう言って,芥川さんの『希望』,あの天照さんだ。そう,
思って,新潮文庫の『河童・或阿呆の一生』の装丁は,また
ほんとうに芥川の追悼になっている。持っていないけど,
いつも感嘆して,眺める『河童・或阿呆の一生』。
岩波文庫の『侏儒の言葉・文芸的な余に文芸的な』の装丁も
また,その並びにしても,とっても読みたいので,あまりに
持っていないけど,そうゆう並びに装丁にも感嘆する。
武士感情とゆうのは,無配慮に思えるほど,キリストの
クロックムッシュの愛とは違う。クロックムッシュの愛とは。
戴いた日帰り温泉のチケットを持って,大きな旅館にゆき,
浸かっていると,もののふの牡丹鍋にしても,無感情的,何と
語彙を持たないのだけれど,そぎ落とされた精悍さ。それは,
クロックムッシュの愛とは違う。武士感情と言えど,”感情”はない。
そうゆうもののふの感情論を思うに,それでいいのだ。例え,
知性的に過ぎる,白黒感情が,恬淡と無感情からくるとしても,
その無配慮とも言える,思考自体の精悍さ。こうゆうもの,その
怜悧な感情に魅惑的にクロックムッシュ生産者の影をみる。
だから,高脂血症の誘いに,現代版”愛”を被せたとして,それもまた
感情論のうちに『神秘家志望』を掲げたとして。自分の中に,世界。
そう諭されて,神出鬼没への道。記録する媒体はコマ送りになる。
内面への旅は,記録する時間や人生をなくして,だからこそ,その
わかりにくいかもしれないけれど,牡丹鍋の無配慮武士感情。世界を
みれば,自分がみえる,ともR.シュタイナーの遺した言葉に興味を,
R.シュタイナーは,何を目的にしてなのか『内面への旅』へと,その
『神秘家志望』へと,現代版”愛”へと,神出鬼没の没我へと誘う。
けれども,その影の論理はまさに,真理を語っていて,内面に真実。
だから,武士感情の,世界をみるとき。そろそろ,っと目覚めの,
明るさ。伝教大師も,頼朝も,家康公も,道長さん,芥川の天照神も
世界をみるすすめを諭しているから,『文芸的な余に文芸的な』。
めざめは,クリスティァンにないとしたら,それは武士感情に。また
それは,世界をみることに崩壊を促す事よりさらに上回る発酵現象。
確かに『西洋の中の東洋』とは,また『内面の間の世界…

Anatole Japon POESY

クラフト性=ものづくり+効率化。
クラフトは,ものづくり性より 情熱を差し引いたもの。
全体性は, 情緒=感情+情感の機微。 珈琲を淹れる事さえ工業性を 担ぐ事だと,自負する私は バスにも車にも乗れず,工業的に 働く事のできない。悲喜感情の 『質量保存法則』。
足せば差し引かれ, 引いては,pushされる。 加減乗除とはそういった, 乗除の方はとゆうと,よく わからないんだけれど,ただ 電気を消せば良い訳でも なくって,ドリップするには しっかり灯りを点けて,豆を 見ること必須。乗除と ゆう掛ける,割るに至って, 哀切と諧謔とゆう2つの ”ユーモア”を知る。
悲喜感情の『質量保存法則』からすれば 喜ぶことすら,腫れものレベルで。 ほんとうに,それは喜ぶ事すら, 腫れものレベルで。ほんとうに,
グラウンディングするなら, 悲しむ事より,喜ぶ事すら, 腫れものレベルで。

ラム・ダークを漬けよう

あながち”わが友ヒットラー”の,三島文学と
違わないこともない,諧謔は哀切と相まって,
それは”諧謔”そのものである。とにかくも,
”諧謔”は悪いわけではないのだ,歴史は全体主義の
そのまま”俯瞰”とゆうやつだから。間近に目を親く,
見てごらん。小乗も大乗も仏教にも性格にもなく,
プロフィールとプライベイトのあいだには,とくに
垣根を持ちたくはないのだけど,”常識”は,それを
常に歴史に造ってゆくから。悪があるとゆう,それは
”諧謔”よりのプライベイトに違いない。そうして,
めざめのあるとゆう,それは歴史の中にプロフィール。
そねみから,ヘロディヤは歴史を切ったとゆう。それは
サロメーの前に現れる”ヨハネ”のかんばせとして。
フランスの文化は,サロメーを描いた。そねみとは,
”諧謔”であった,全体主義とは,哀切でもあった。また,
酒粕を口にして,これが甘酒となるとゆう発想に,それは
お昼の嗜好になるとゆう趣味指向に,何故とやら,もう,
発酵の中には,ピリリ,としたそうゆう外側への開口しか
ない,とゆうような開口発想。

祈りは発想として概念の半回転へと導くだろう
半回転するの,人間ではなく発想そのもの
甘酒を口にして,呟くのだ。『開口一番,』。

プライベイトには,通奏低音のような,発酵が脳内の
すみずみまで拡がっている。
プロフィールとしては,祈りの発想を,概念の半回転まで
持っていこうとする。

ヘロディヤークラウディウス

ーアランソン公ークライストーアナトール・フランス。

純粋な上に,セネカを家庭教師として世話したクラウディウス。
(厳密には違わないが,)彼らは,”ヘロディヤ礼賛”とみても,
よいだろう。クライストにいたっては非業の死を遂げ,もう,
アランソン公の眼差しと言ったら,非業どころかミステリアス。
クラウディウスと同じくジャンヌを支えたアランソン公の,非業。
R.シュタイナーも,またユング派のヘッセも,抒情どころかまた,
言い過ぎる,厳密に。また精確に。ここが,ずるいところだ。もう,
ずるいところしかみえなくなるこんな,”諧謔”をもって,平和や,
全体性の思想へ行きつく。全体性とは純粋さゆえの傷痕。それの,
”諧謔”じみた全体性。それを,自然一体化と,俗悪と,泰然自若と
呼ぼう。

パンが発酵して,プツプツ,プツプツ揮発音を出して,パン種から,
パンになる…