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ところで,みなの肖像画は。

    『妖怪絵などは,悲母太母が描く,肖像画みたいなものなのだ。』
    世界の悲しみから,妖怪は産まれた。妖怪自身が病んでいるようすはかけらもなく,妖怪は神仏が”悲しみの人”の眼によって,神仏との出会いの奇跡まで図画的な表現に換えてしまったものなのだ。もしくは,真の人間の描く神仏画は,みな妖怪図となる,とは言えないのだろうか?
    世界との出逢いから,神仏信仰は始まった。人が意識さえもたらされなければ,私たちは岩石のままで,もしくは岩石のままであれば,凍えることもなく,自然物のままでいられたのだ。意識は,酵母発酵の細胞分裂とゆう生命のテーマを連れてきた。そして,酵母神の人間の意識は信仰を鏡の中の世界へ神仏信仰へ向ける。だから,自然物に戻れれば,意識を持つ事もない岩石だが,それは酵母神が許さない。酵母はイザナミ女神であり,天照神であり,そうして『妖怪絵などは,悲母太母が描く,肖像画みたいなものなのだ。』,と。
    しかしながらもイザナミ神話が語るように,私たちが体験したのは,悲しみの体験のみであり,それは感謝するべきものだ。”謝り感ずる”所の,感謝。悲しみとは,感謝以外の何ものでもない。言ったでしょ?私たちの他に原因であるものはなく,また私たちも,原因そのものでない,だからイザナミ・ママは,感謝をつたえるため,私たちに種を植えた。この種を”神”と呼んで,また釈迦如来は,丁寧にその種を果実に換えて感謝祭を催したのち仏教伝来による”いまここ”一円。禅にみる脱け落ち”心身脱落”観念まで高めた。
    『妖怪絵などは,悲母太母が描く,肖像画みたいなものなのだ。』
    ”解脱”指向は,確かに,悲しみの感謝に代わる,喜びの極楽彩色文化たるグルメの食文化まで造るEuropeの源流,ヒンズーの密林熱帯林にあるかもしれないし,それに対峙すること,創世神話の宇宙伝説など,もうあえてゆうなら,岩窟に酵母を起こして,人間の創成をした神話の女神達のいるなら,あんまりじゃない?だから,男の子は。って,イザナギさんを,怒ったように,感謝の太母からしたら,男性達は,子供たちであり,『むしろ,感謝によって真の嬉しさなども造りだした。』と,女神たち,叱ったりするやもしれない。
    『妖怪絵などは,悲母太母が描く,肖像画みたいなものなのだ。』
    だから,昔から神の子羊。男女の融合,ユニセクシャルな瞬間は尊ばれたし,人間の,自然志向や,業の泉に対する,”インド源流vs.アジア創世神”の対話も解決をみない。そのままでは駄目だ,とゆう意味で酵母神は,発酵するパン種を世界に遣わされた。と,ここまでは僕は男性だからとか言わなかったけれど。”とりあえず,解脱でも脱落でもいいから,バリの極彩色にならって,とりあえずは,頭脳の酵母を取り去る所のOPEN MINDを志さなあかん”と,デトックス,カルマ・クリーニング目指して,日々難問中の難問を解くように,Blogを更新しております。”喜びのためのOPEN MIND。また,悲しみに感謝して,初めて嬉しいのだから,KARMA SPRING。”
    『妖怪絵などは,悲母太母が描く,肖像画みたいなものなのだ。』

こちらは如何?

KARMA SPRINGとゆう、LONDON ONEの書類群。

腸がつまる、など。必然的な兆候を含む、現代のシンドロームには業の湯浴み、として。沢山の娯楽をエンターテイメントのように軽く、 楽しめるかとゆう、趣味の時間を1分2分。どうしようか? ほんとうに湯舟に浸かれる瞬間は、ご褒美だけれど、郵便物を 受け取るための深夜窓口も、寒くって伺う気にはならない。
疲れている?いいや、眠たいのはいちばんのご褒美で、またあの 思考を放棄する瞬間にこそ、曖昧で朦朧とした意識の、それは、 諦念する、問題も、なにもかもなくしてしまわれるのだから、 業の問題を考えるにしても、その問題をこそ、考える理由にこそ、 思考をなくしてしまえる瞬間に、解決されるとゆう、自己回帰。
スムーズに、ヨーグルトのプレーンを朝食に、必然的にも トーストの欲しくなるのは不可思議以上の不思議な事で、 思考し過ぎる事かあ、趣味と言えば趣味らしいモノだろうけれど 逆に、その時期を通りすぎれば、遺産として、KARMA SPRINGとゆう あの書類群の、ギフトだったのだな、ギフトだったのだ。 LONDON ONEとゆう、思考の山人による、最高の贈り物。
篤姫や、真田丸のあとには、足利学校のテーマなどみられる のでは、など、そんな、太陽悪魔や、オロチ伝説の、赤猪岩受難の、 岩戸伝説や、岩窟の聖母像と重ねて、ヒトの受難は、獣神化する道程を 経て、進む。確実な過程として、行程は、目的地の、アマテラスへ。 太陽の夜明けに繋がるのは、そんな、獣神の角と眼の筋の取られて ヒトよりも人らしい、そのグラウンドダウンしてゆく人間性の、 これは、地味に滋味栄養のある、豊富な、例えば、あの古い語の 富国強兵論なども、こうした、筋肉質な糖質制限や、あるいはまた 腸の詰まりは、富国強兵に、カルマ・クリーニングを一跳びして パクチーのコンソメスープなどを啜る朝に、やはりあの、 トーストを欲しくなる、都市街の朝食風景は、ループする。あんな ループする朝食を求めて、世界は廻り続けているとしたら、 このグラウンディング指向も、また、おんなじ様に、新年のお雑煮を、 頂けそうな、そんな年末のグツグツ、カマドは周るのである。

跳び込んで、さては越えてゆこう、あの倫敦の壁。

反射式灯油ストーブとゆう、電池が2本あれば着火して、延々と火が灯して居続けられるとゆう、あの暖かい暖房器具に換えて、 けれども、いくら火が自慢してきたって、この寒さにはギャップの ありすぎて、孤高の熱源とさえ言える。そうとも思えなくない。 例えば、こんな夜に、ジョナサン・スウィフトのガリバー旅行記や、 ジェイムズ・ジョイスの、ダブリナーズや、ブルネルの蒸気機関の、 あのシラノドベルジュラックの引いては切なさとゆうものへ。 たどり着いては、首を振る。僕の、ポートレイト?これは、いや。 むしろ、地底のレストランへの入店チケットに違いない。 ペイパーバックライターのイントロを奏でながら、いらっしゃい!と。
そんな中で、また別の系譜へと、この流れでして、目をやると、 ジョンのピースプレイトと、プルーストの時のない、そんな エル・グレコの静止画と、フェルメールの祈りのない静止画と、 そうして、カスパーダーヴィドフリードリヒの動画のような、 祈りを、静止画と動画に織り交ぜて平和を祈った、ダンテの あの、天国と地獄には、とにもかくにも、動きの中の静けさ。
大晦日を迎えられたのは、身体に感謝とはいえ、なぜかしらの 糖分がすべて抜けたかのように、フニャっとしてしまったので 何かしら食べていようと、寝正月とお正月料理を拝借する。 魚卵は、女性ホルモンにて情緒安定し、かまぼこ、お餅などは 練り上げる消化力を推し進める。とにもかくにも年末から三が日は ほんとうに終わりと始まりをないまぜにして、全然のとやかくゆう、 あのサナギの産褥の時期である。もう、ほんとうに生まれ変わって 蝶に羽ばたくこと、はばしく麗しやかに、その飛翔は、まるで
カルマクリーニングをひとっ跳びして、掻き削がれたオーラの 全体性の発露とはかくゆうこんな、絶対的に阻まれた主観性だ。 何かが、1年の糖分のあまさとして、大晦日の業火に灰と化し、 新年の三が日はとにかく、食べて寝て、練り上げて、寝て。 そうして、思考知性の小さなままの、不死鳥のヒナまでが、何か 新しいスタートのしるべのようにして、現れてくる。そんな、 切なさではいられない。けれども、業火には、もう絶やされない。 すべての出逢いと別れは、一新され、そうして、知性の発現している この、小さな飛翔体によって、希望を持ち抱きながら、すすむ。
こんな、混沌とした新年には、もうすぐ、何か道しるべを掴める。 といって、希望を持ち抱きながら、…