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人間と全体性。


人間と,とは書いたけれど,
人間の全体性と言ったほうが
よいのかもしれない。途方もない
でかい大きい底知れない。そんな
全体性とゆう巨岩を,私たちは
どう把握できるだろう?それは,
雪の巻き上がるスーパーでの帰り道。
スーパーのレジの袋に詰めながら,
巻き上がる雪の照明にてらされた,
その雪をながめながら,カオスな
数学理論などを持ち出し,その私たち
も,デジタルな何らかの自然になって
しまうのか,いやあ,そんなに人は
弱くないのさ,自然とゆう全体性は
運筆をしながら,見付ける。見詰めて
探して,ようやく掘り当てた何らかの
巨岩を目の前にして,ああ,なんだ。
自と他の境い目なんてなかったのか。
とゆう,人間の,人間による,人間の
ための,全体性は,どこから,何のために
どこへゆくのか。答えは風の中に,そして
私たちは何を学んだのだろう。と,呟く。
果ては,南インドの朝焼け。ようやく,
昆布の揚がった北海道。岬の先端は,巨岩の
見詰める。恬淡として,境い目なくシームレス。
はあ,恬淡として,とは言いつつ,味のない
おしゃぶり昆布を摘むよりも,揚がったばかり
の,昆布の刺身を食べていたい。大の字に
なって夜空とほくそ笑む。世界は変わる,
こうして,大の字になって,そうして,人間と
全体性。変わる世界の中で,運筆をしながら
世界を見詰める。思考を観察する。運筆の
その世界思考は,全体性を自他共になく,
人間と見詰める。私たちは,夜空を失って
しまった,夜空に雪の降る理論的にはあれは
白紙のキャンバスで。まずベージュに塗り
たくってから,出直してきてよ。オレンジと
イエローの油絵の具は用意しとくからさ,
あれはゴッホの模写した落穂拾い,ミレーは
結局,デューラーらとは,ツーカーなのさ,
ロンドンには落穂拾いの蒸気機関車走ってる
のさ,ブレイクなんて冗談じゃない。とっくの
昔に竹馬ツーカーの仲なのさ,ロンドン塔に
柘榴を飾って軒下から眺めましょ。



こちらは如何?

KARMA SPRINGとゆう、LONDON ONEの書類群。

腸がつまる、など。必然的な兆候を含む、現代のシンドロームには業の湯浴み、として。沢山の娯楽をエンターテイメントのように軽く、 楽しめるかとゆう、趣味の時間を1分2分。どうしようか? ほんとうに湯舟に浸かれる瞬間は、ご褒美だけれど、郵便物を 受け取るための深夜窓口も、寒くって伺う気にはならない。
疲れている?いいや、眠たいのはいちばんのご褒美で、またあの 思考を放棄する瞬間にこそ、曖昧で朦朧とした意識の、それは、 諦念する、問題も、なにもかもなくしてしまわれるのだから、 業の問題を考えるにしても、その問題をこそ、考える理由にこそ、 思考をなくしてしまえる瞬間に、解決されるとゆう、自己回帰。
スムーズに、ヨーグルトのプレーンを朝食に、必然的にも トーストの欲しくなるのは不可思議以上の不思議な事で、 思考し過ぎる事かあ、趣味と言えば趣味らしいモノだろうけれど 逆に、その時期を通りすぎれば、遺産として、KARMA SPRINGとゆう あの書類群の、ギフトだったのだな、ギフトだったのだ。 LONDON ONEとゆう、思考の山人による、最高の贈り物。
篤姫や、真田丸のあとには、足利学校のテーマなどみられる のでは、など、そんな、太陽悪魔や、オロチ伝説の、赤猪岩受難の、 岩戸伝説や、岩窟の聖母像と重ねて、ヒトの受難は、獣神化する道程を 経て、進む。確実な過程として、行程は、目的地の、アマテラスへ。 太陽の夜明けに繋がるのは、そんな、獣神の角と眼の筋の取られて ヒトよりも人らしい、そのグラウンドダウンしてゆく人間性の、 これは、地味に滋味栄養のある、豊富な、例えば、あの古い語の 富国強兵論なども、こうした、筋肉質な糖質制限や、あるいはまた 腸の詰まりは、富国強兵に、カルマ・クリーニングを一跳びして パクチーのコンソメスープなどを啜る朝に、やはりあの、 トーストを欲しくなる、都市街の朝食風景は、ループする。あんな ループする朝食を求めて、世界は廻り続けているとしたら、 このグラウンディング指向も、また、おんなじ様に、新年のお雑煮を、 頂けそうな、そんな年末のグツグツ、カマドは周るのである。

右側のチカラを抜いて、左肩をいきり上げる。

スーパーに出掛けるまでにも、右肩で考えて、そのトータルに見届ける事を優先していた。けれども、その優先度は右肩上がりには 決してならないものだった。トータルに全体主観によってみえる その眺望は限りなくミクロで、情報分析には役立つが、 現状認識には、あまり用をなさないのだ。 現実を見詰めるとは、想像によるものでなし、それは、 未来を無くし、その視点より時間を無くし、左肩上がりで、 あえて時間軸より、あるいはイマジネーションより、もっと 空間的に、リアリティは、期待も時間もない、悪びれたモノ。 スケジュールに関して、悪態をつくくらいの丁度いいのだ。 それは、左胸で考えること、そうして、論理的なリアリティは、 とっても毒づいて、リアリティに頑強に厳密な、 NO TIMEの様。
左胸で考える、それは腹で考える。すぐにはできなくとも、 とりあえず、両脚を伸ばして、アキレス腱を延ばす所より。 あぐらをかいて、息を吐いて、リズムを刻んで、背筋をのばす。 水出し風烏龍珈琲を呑みながら、右側のこめかみにかつては チカラを入れて考えていた、トータルな全体主観を、あえて クリスマスへの供え物にして捧げ、僕はいまもう、この 土の上に落ちた南天の実のように感じながら、土の酵素を身に 付けて、プーアール黒茶を啜るように、あんな感じで、むしろ サンタクロースのように1年の1度せかせか届けものに、 あくせくそれは、黒茶を発酵させる酵素は、毒づいて僕の 論理性リアリティとよく似ている。これは、烏龍珈琲のミラクルでも、 毒は薬にもなる、ホメオパシックな奇跡的酵素生成にも似て、 本当に、実際に効果的なモノとは、毒素を酵素に変質させる何か。