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天台香。

昔から,芥川の香水のような小説は,
好きではなかった。それから,僕自身の
無頓着なところを肯定したくない一心で,
飄々とした風貌も嫌っていた。けれど,
漱石の影響が大きい。と気づく,そうして,
太宰にあてた,大きな石つぶてのような,
そうゆうのも漱石に影響を受けたところの
甚大である,とみる。僕自身がLONDON ONE,
とゆうペンネームを持つくらい,無意識に
現代における漱石の影響は計り知れない。彼は,
芥川を嫌っていたのではないか?
天台香の好きな東照宮を嫌悪したではないか?
また,源氏の頼朝をさえ,また嫌悪したではないか?

嫌悪とゆうより,漱石の怒りは果てしのない,
芥川はその怒りを一身に受けたのではないのか。
何故だろう,僕は乳製品の濃いヨーグルトのことを
いたく気に入っている。そうして,無頓着なところを
いまは長所として,芥川に倣おうとも思っている,
頭で考えればいい。健忘症で構わない,そうしてまた,
忘れっぽい自分は,杓子定規の意味を,頭でっかちで
捉えて構わない。杓子定規は美徳である,と。
アナトール・フランスを慕っていたのは,ヘロディヤの
その名は,サロメーの母である女性のものなのだが,
彼が,『エピクロスの園(フランス)』,『西方の人(芥川)』
などに取りあげられたごとくの,芥川自身のヘロデの役を
演じたからでは,なかったか?
またここで,芥川と,太宰の関係は,
頼朝と,義経(兄と弟)そして,
最澄と,空海(義兄弟のようなもの)であろう。また,
漱石(父)の叱責を受ける芥川(子)は,
太宰(みたま)と兄弟嫉妬喧嘩をして,三角関係(三位一体)。

文学は,その内容を行為しては実行などしていては,
終焉であろう。つまり妄想の裡に留まるそのうちに,
まだもって,自死と思想の内容の中で,平和を演出している,
文学の使命は平和である。
天台香をくゆらす東照宮の傍らには,常に実朝歌集と
真言の密教書があったと推測するのは,彼らが常に想う所に
平和があったからだと言う理由からであって,結局は
恬淡として無頓着に平生の日常を過ごせる心中お察し
申し上げますことには”こころのうちはあらしなので,
少々きょうはご参事お控え申し上げます”とのこと。

こちらは如何?

KARMA SPRINGとゆう、LONDON ONEの書類群。

腸がつまる、など。必然的な兆候を含む、現代のシンドロームには業の湯浴み、として。沢山の娯楽をエンターテイメントのように軽く、 楽しめるかとゆう、趣味の時間を1分2分。どうしようか? ほんとうに湯舟に浸かれる瞬間は、ご褒美だけれど、郵便物を 受け取るための深夜窓口も、寒くって伺う気にはならない。
疲れている?いいや、眠たいのはいちばんのご褒美で、またあの 思考を放棄する瞬間にこそ、曖昧で朦朧とした意識の、それは、 諦念する、問題も、なにもかもなくしてしまわれるのだから、 業の問題を考えるにしても、その問題をこそ、考える理由にこそ、 思考をなくしてしまえる瞬間に、解決されるとゆう、自己回帰。
スムーズに、ヨーグルトのプレーンを朝食に、必然的にも トーストの欲しくなるのは不可思議以上の不思議な事で、 思考し過ぎる事かあ、趣味と言えば趣味らしいモノだろうけれど 逆に、その時期を通りすぎれば、遺産として、KARMA SPRINGとゆう あの書類群の、ギフトだったのだな、ギフトだったのだ。 LONDON ONEとゆう、思考の山人による、最高の贈り物。
篤姫や、真田丸のあとには、足利学校のテーマなどみられる のでは、など、そんな、太陽悪魔や、オロチ伝説の、赤猪岩受難の、 岩戸伝説や、岩窟の聖母像と重ねて、ヒトの受難は、獣神化する道程を 経て、進む。確実な過程として、行程は、目的地の、アマテラスへ。 太陽の夜明けに繋がるのは、そんな、獣神の角と眼の筋の取られて ヒトよりも人らしい、そのグラウンドダウンしてゆく人間性の、 これは、地味に滋味栄養のある、豊富な、例えば、あの古い語の 富国強兵論なども、こうした、筋肉質な糖質制限や、あるいはまた 腸の詰まりは、富国強兵に、カルマ・クリーニングを一跳びして パクチーのコンソメスープなどを啜る朝に、やはりあの、 トーストを欲しくなる、都市街の朝食風景は、ループする。あんな ループする朝食を求めて、世界は廻り続けているとしたら、 このグラウンディング指向も、また、おんなじ様に、新年のお雑煮を、 頂けそうな、そんな年末のグツグツ、カマドは周るのである。

右側のチカラを抜いて、左肩をいきり上げる。

スーパーに出掛けるまでにも、右肩で考えて、そのトータルに見届ける事を優先していた。けれども、その優先度は右肩上がりには 決してならないものだった。トータルに全体主観によってみえる その眺望は限りなくミクロで、情報分析には役立つが、 現状認識には、あまり用をなさないのだ。 現実を見詰めるとは、想像によるものでなし、それは、 未来を無くし、その視点より時間を無くし、左肩上がりで、 あえて時間軸より、あるいはイマジネーションより、もっと 空間的に、リアリティは、期待も時間もない、悪びれたモノ。 スケジュールに関して、悪態をつくくらいの丁度いいのだ。 それは、左胸で考えること、そうして、論理的なリアリティは、 とっても毒づいて、リアリティに頑強に厳密な、 NO TIMEの様。
左胸で考える、それは腹で考える。すぐにはできなくとも、 とりあえず、両脚を伸ばして、アキレス腱を延ばす所より。 あぐらをかいて、息を吐いて、リズムを刻んで、背筋をのばす。 水出し風烏龍珈琲を呑みながら、右側のこめかみにかつては チカラを入れて考えていた、トータルな全体主観を、あえて クリスマスへの供え物にして捧げ、僕はいまもう、この 土の上に落ちた南天の実のように感じながら、土の酵素を身に 付けて、プーアール黒茶を啜るように、あんな感じで、むしろ サンタクロースのように1年の1度せかせか届けものに、 あくせくそれは、黒茶を発酵させる酵素は、毒づいて僕の 論理性リアリティとよく似ている。これは、烏龍珈琲のミラクルでも、 毒は薬にもなる、ホメオパシックな奇跡的酵素生成にも似て、 本当に、実際に効果的なモノとは、毒素を酵素に変質させる何か。