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賢治のリンゴパイ,永訣の朝には烏龍珈琲を利く。

ラファエロの描く,ペテロの改心は,あれは知恵の実の一連の事象。 一度,写真でみた加藤清正の井戸なるものは,あれはリンゴの実だ。 そうして,達磨大師や円空上人の木食する,彼らも皆,リンゴの使徒。 だいぶ冷え込んでこの冬将軍に一瞥する何をかを言いたいとき,その 発言は,自らの魂を差し出してヒトのココロの隙に這入りこみ,情熱を 粗雑な想いよりもリンゴの赤に換えてゆくのは,あれは賢治のペトロの ようにみえる,いまはもう,リンゴポテトパイを焼いて,ウーロンドリップ によって,珈琲烏龍茶抽出を試みる,瓦解する身体,『脱落,脱落』と, 禅宗に答えられる,その精神は,リンゴの果汁の滲み出たときよりの彼ら リンゴポテトにウーロンドリップ,差し引いては,ようやく染み入るので, この知恵の実の一連の事象は,ようやくのこと,昇華されて消化され砕かれ, ヒトの身となり肉となりて,こうして,雪の朝にも,こちらは温かいので。 さては,『雪国』の朗読などを聴いてドライブをする心地,熟した甘柿と 烏龍珈琲を豆乳割りして頂く所存。また,人の世は起きていることほどの それを,昼間に覚醒してある状態に映しては,またこんな奇跡な事柄はない, 昼間の光りは,もうどうしようもないロマネスクだ。
冷えに関しては,足首を暖めておくことを,そうして,インナーウェアは, 裾にきちんと入れておくことを唯一の防寒手段として,あとは下取りにだす スマートフォンの行方を案じてすこし寂しく,きちんと身上整理をしてより 沢山の写真を撮り,様々な文章を連ねて,こうして趣味の高ずる,アートを 楽しめているのだから,これからも,機種の変って,防護ケースは講じては 計算して,傷まないようにこういった精密な相棒ウェアと付き合っていたい。 こうしてAIならぬ,精密機器のどういったところにたましいの宿るのか想像 するのに,そうだなあ,やっぱりプロフィールの部分は宿るべきところだろう と,その部分は,写真フォルダなどの,切り取られた画角の部分。影像の, また,翳の差すところには,暗転した世界の実像の描かれる,そこに誰かの魂。 寒さの染み入る部分とゆうのは,むしろ寒さとは関係のない,無味乾燥とした この冷えを誘発する実体の果たして何もない所のポイントであって,脂肪質の 状態や,動物性たんぱく質の摂り過ぎは無論の冷えに親いのではないか,影像は そ…

存在するってのは様式美よりも,門戸のない野原。

自我の領域より飛翔したいとゆうのは,ちと違う。青空は二層にも 分れて,上は真空,地上は温暖に溢れているのだから,もっとあったかく 野性の酵素に満たされているくらいの力強いパワフルな悟性を,もっと。 訓戒は破るためにある,それは依存だったとの由。カビは,潔癖が産むとは 功利に走る感性の,腫れ物に換わってゆく様を想えば,まさに,土着の農業に ミラクルな意地の強さを頂いて,キレイな大理石にはわかるまい,あの祟りの ように,タケミカヅチにはもう解放の予兆。萩原朔太郎の詩性には,孤独の。 上杉謙信には辛口の酒。平敦盛の首塚には,近藤勇の肖像をポケットに歩いた。 猫町横丁を逍遥しながら,妻帯せずもののふの塩辛よ,供養する美青年への悔恨を 結局の優勢,無勢に関わらず,人を助くる所に助られる者なり。と,もう予兆は, 確かに,土着の酵素に適えられて,やはり,ネギの収穫を手伝ってきて良かった。 そこで,得も言われぬパワーを頂いたことは,潔癖症より打ち克つ何よりもの,あの 祟り神とは,本当に(神話は誰にでも当て嵌るように出来ているのだから)リアルの 神がいるとしたら,いいや,リアリティとゆう意味の唯一無二の,現実性のあるなら, それは,祟りの比喩にこそ存在している。嫌ってはいけない,正直であるのに対し。 少しの笑顔で,不思議だなあ,と。理解できない野性的趣味にも,世界の歴史上,まず 野性のあってこそ,存在するのは”白亜”の様態なのだ。この野獣のかんばせをこそ。
ミケランジェロや,漱石山人などが,彫刻を制作する折りには,あるいは大英博物館など 訪れたのちには,親くのお宿などで,石膏の石板などをテイスティングならぬ,毒見した のでは,とゆう白昼夢をみる。創造知性の探索,または西洋文化なる知見を目的として, その無味なフレイバーはきっと夢のなかでも秘密を,ある世界の歴史においての,秘密を あらわしているように感じる。僕には体感的に,それが潔癖症を治す,唯一ほどの手段に 感じるのだ,イマジネーションの上では,そういった,酵素質の話しは差し置いても,の 白磁,青磁の陶器にも至る道程には,なぜかしら”白亜”の生誕の上で,土の鍛錬に結ぶ, そういった工程を,この町で通り過ぎる石膏彫刻の姿に,”デッサン・アート教室”の看板 には,『素晴らしい文化だなあ』町の中で,何か日に照らされて暖かい硬質な花の匂…

ゆきずりの恋を活きる共同体形成の宵明け珈琲。

自己責任の発想は,やっぱりちょっと違う。海外のひとからは ナンセンスと言われる,例えばコモン・センスには,合わないのかも 知れない『日本の”常識”=その噂話=逸脱した集合無意識など』は, 確実に,共同体形成や,防災意識,暮らしの成立,自由の体現などに 必須事項であるはず。ちょうど,ゆきずりの恋に,宵明けの珈琲を啜る みたいに。極端な疲れには,珈琲を呑んで寝る,この発想が,なかなか 疲労自体の裏にある,自己解除作用に結び付いて,ダイエットする精神。 腸活や,リンパケア,遺伝子のONなども,こういった作用に関連して, きっと痩せることが必要ではないかも知れないけれど,精神は痩せていた ほうがずっと良い。なんて,最近は,そうゆう精神肥大について,半ばの ダイエットを始められそうな次第である。大抵は,パートナーが寝ているとき 僕自身の目覚めてアートを楽しんでいる。僕が大いびきをかいて眠るときに 彼女は,その録音をコラージュなどして,ダンス・ミュージックなどに仕立て 起こしながら,朦朧の意識に意地悪など仕掛けてくる。今日は僕が起きてる番。 塩釜をコトコト煮詰めながら,灯油代も,その理由で気にならずに暖を取られる 心地は,冬景色の良い効果だ。半額で,豚ひれ肉のブロックが売り出してあって 醤油みりんで漬け込んでいたのを,じわじわ焼いていたら,簡単なチャーシューが 出来上がった。タイミングよく,父が”キタアカリができた”と届けてくれたので, お礼にすぐにタッパーに入れて,持ち帰ってもらう。実際は,なぜだか自然体で そんな一連の火の調理づきあいのできてるので,こんな精神のダイエット構想には もってこいの火の調理週間であるはず,水回りはキレイにして,しっかりと使おう。
ちょうど,フグの湯引き調理のあとに,床底に暖気のたまるみたいに,業の観念は どうしても内にも外にもただよっているものである。こんな,感情を知的に合わせる もみじおろしみたいに,はっきりと業を認識することは大事である。認識できず,あの ポイズンに当ってしまうこともあるだろう,瀕死の業中毒はよくあることなので,ただ 業が過ぎ去るのを待てば良い。ここで,自己責任にNO,を言うのは,業の付き合い方は ちょうどの,ゆきずりの恋愛ドラマをみるような,そんなあえての”自由の発想”で良い。 中毒になっているときは結構大変なモノ。精神…

脳細胞のひとつひとつが共同体鏡像姿態で,あの。

多分,鏡のように世界の映るのが心眼だとしたのならば、もう
他人の頭脳まで分け入って這入る必要はないのだろうなあ。
脳細胞のひとつひとつが共同体鏡像姿態で,あの。僕の世界は,
その幾億もの組織のワンオブひとつひとつなのだ。そうやって,
ヤル気と勇気は,火の意識として,業の最中にも,また漂泊する
そんな,ひと粒で一瞬に発火する,山椒のような”薬味”になって
クラフトの態度を熱っぽく煽動する。”神さま”は,きっとヒトの
普通の意識が業を抱え込んで,世界はそのもので,宇宙大な何か,
自分は傷つき世界精神まで膨れ上がった,そんなチーズ発酵のあの
革袋,ワイン袋,貯水袋になった,乾燥した灼熱の荒野を進むには
そんなショートスリーパーの珈琲通の現す,オアシス好天気の気候,
気象条件を必要に,晴れ男,雨男の何でもいいので,きっと世界大。
喉風邪を引いてから,咳が付いて離れない。けれども,これは正直に
我慢していることがあると,発生する咳込みなので,むしろ感情の
パラメーターとして,有効に働いている。そんな金木犀より寒椿。
随分と,底冷えする季節には,このピリピリとした寒さの中に,あの
あかぎれやささくれが自動発生するこの気候の何らかの神秘を感じる。
正直でいられるのだ。そう,正直にいられるのは何よりの神秘作用。
特に,寝不足で,珈琲のウーロン割など呑んでしまう。

基本的に,中毒は順応に帰してしまう。そんな信念を,深淵に隣接する 議事堂の,コミュニティ・プラザみたいな公共の神の境域関門のような 気分で,喫茶風情の咳込む灯油ストーブに安心の嘆息する夕暮れ珈琲。 社会的な視点は,元来日本には馴染まず,縄文の気持ちの残る喫茶の 噂話と,そのコミュニティには,きっとほんとうの暮らしの在り方の 垣間見える。なので,空気のような順応性と,揺蕩う流動性の風体で。 むしろ,その諧謔と剽窃の,イロニーのつるつるした円滑なスタイル。 中毒は,珈琲においても,その飄々とした所の美しさは,人間性の最もな 美学を堪能させる,漂泊する,そう,上滑りに微風に揺蕩うスタイルで, もう,そのままその美しさは,軽妙で,爽やかで,ふんわりと無頓着な そう,なので,そのままで行こう。この旅路は,社会的な外への通り道を ふさいでしまう回路はしていない,その通路は,内側を過ぎ去りつつ,また いつか,すべての執着の離れてゆく,…

青カビのチーズは,なぜか青い薔薇のよう。

ニニギ=神功,アマテラス=武内宿禰,ニギハヤヒ=仲哀,と置き換えて,
彼らをまた,三島文学と芥川氏と漱石山人に並列に,ならべてみては,その
ニギハヤヒによる薫陶を経て,アマテラスの女神性は発揮され,そしてまた
ニニギとゆう,文学による発露にして,訓戒を,神事的に昇華した文化史を,
おもわず計らずとも,ユーモラスにシニカルに皮肉めいた発露をその中に。
稲佐の浜,とゆう実在する国譲りの砂浜に立って,満月の翌日のお潮汲みに
出掛け,三杯ほど汲み入れてからなぜかしらそんなことを考えていた。例えば,
(文学史に置き換えるのが好きなので,)太宰の大黒さんの国譲りする浜を想い,
タケミカヅチとゆう,天孫降臨にも似た,あの大黒に迫りくる,三島文学のような
勢いを察して,ああ,国譲りの力比べとは,あれは何だか,正義において,気迫の
上の勝負だったのか,モラルや,慣例や,正当な判断はもう,踏まえて,その気迫。

例えば,太古の神が何ゆえの譲り渡す理由を探ったのか,とはそれは,もう新自然の
ネオ・ナチュラル・メンタリティなどを見出したからだったのだ。
なので,法則とは,メソッドや,技術によるモノを超えた,
何かをあらたに見つけたとき,
『あれは脱規則的に天然発生的に起こったのだ』って,そう言った
何かの気迫をさえ感じたときに,”譲られた世界において定着”するのだった。
青カビのチーズは,なぜか青い薔薇のよう。こんな感じだった。そうやって,
科学的な何かは,化学的に可逆的に,科学発生的に起源へと還ってゆくのだ。
ケミカルな法則的心理の否定するときに,逆に,自然は世界を譲ってくれる。

汲んできた潮水は,反射式灯油ストーブで,ことこと釜炊き海水塩になるように,
奥さんが楽しそうに,鍋に移していた。正直,盛り塩になどすれば,すごく様になる。
汲んできたこと自体が,僕にとっては神事的で,利用価値などは考えてなかったのだけど
あとで確認してみれば,そういったことだったようだ。もちろん,稲佐の浜に行けたのは
とっても良かった。曾祖父も昔から,元旦近くには,お潮汲みに行っていたそうで,その
信心深さは,評判だったように聴いているし,ほんとうにわるいものではない,それは
変な言い方だけれど,とっても清々しい,お家に海のある感覚。不可思議に伝統的な行事
とは,清々しさ以外にまず表門は飾っていないように感じる。…

人間性の羽虫の飛びかう,世界はそのまま浮遊感。

夢に同化せずに,影になることを択ぶ。また,そうして,薄っぺらい決意の, そのままに,夢に同化するより,そうやってエゴイストの夢の住人よりも, さらに,夢のインプラントを抜けるように促しながら,人間性の羽虫の飛びかう, 世界はそのまま浮遊感。草叢より翔び立つ羽虫の数々が,世界の夢そのままで あることを教えてくれる。夢の姿の虫の知らせ=世界そのままの私の姿。それは 突如のこと身魂鳴動せり,羽虫のように宙を舞う,浮遊感を感じたあとに, 川端文学=菱形信玄墓=五輪書武蔵=放念する法然。ガイストを堀辰雄に任せて 魂を,ヘッセに据えて,身体は川端文学に預けて,宙を舞う。そして,古都には ぼんぼり屋敷と,護摩焚き法要。入江に燻す,何かの匂いのして,水面に映る 幻燈の走馬燈の余りに,終に仕舞うことを思うのなら,川端文学に落着こう,と 室井コアラの『工房の宝石』などを読んでは川面に響く輝きの照り返しを思って 涙する羽虫の群れ「夢に拘泥する気はない。ないのだけれども,夢を楽しむもので。」 浮遊感に任せて,舞い散ることのできれば,夢も意味はなくし,ただ,水汲み場で 感じるような,その浮遊感のみに,想いを託すのだった。
夢みることを止めたら,それは,影になりきったことの証左であるのだ。なぜだか, エゴとか,それに世界とか,人間性や人間自身まで,虫の姿で,夢の姿で抜けてゆく。 責任感は,責任遂行力には換わるはずもない,それは,感情は100%に近づくほど 身体的には宙を浮遊し,影に親づいて,段々と責任感も能力も消えてゆくのだった。 それは,自由である。好きなことを,能力や評価により曇らすエゴより”希薄化”され。 「夢に拘泥する気はない。ないのだけれども,夢を楽しむもので。」段々楽しみだす。 夢は消えていったとゆうより,希薄化して,考えずに気にならなくなって,責任感も うすくなって気づくのは,ああ”好きなことやっているな。”と,影になった,感慨とは。 観照して,感傷的になる,スピリチュアル・センチメンタリズム。お茶も,煎じるとは 花の匂いのして来る凝集化であって,開花するとは濃密に,存在収縮して,ブルーム化。 あんまり収縮されると,お茶も水分を減らして,カオスな種のように少なくなってしまう ので,さあ,ある程度で,また湧水など足していってもいいのかなあ,何だかわからない けど,水分を摂るため…

思考=理想の,概念思考とは,運動する理念。

橋のたもとの衣料店。土手を渡った,パン屋さん。夢のエーテル界で,
結局,夢の住人の業=エーテル形姿を持った僕のダブルは,その本体で
あるらしく,いくらこの”現実”で追憶したとしても,エーテルと物質は,
融合することはない。攻撃と防御の,身体性に起因し帰結してゆく,その
影像神界とも言える,物質の界には,もう,影である”自分”を活きる外ない。

結果,思考は理想であり,業であり,エーテル的である。概念を理念が産む,
それは解るけれども,結局のところ,”概念思考とは,運動する理念のこと”で。
希望される理想の謳歌に臨戦してゆく事が,ポエジー溢れるクリエイティビティ。
影として活きる覚悟を持った,物質の姿した僕らは,意志とゆうより,表象の
むしろ深層よりも表層の,無意志の哲学をさえ捨て去る,”夢”の住人に帰るのだ。

そうやって,我執の強いエゴを”業=エーテル”に引き込み,いずれ表層化してゆく
自我の影自身に気づく,”夢”の法則は,諦めに僕らを引き連れてゆく,笛吹男で。
ハーメルンはそういった,エーテル色の強い街だったのだろう。エーテルの強い,
その本体性の強いエネルギーの中心地である”夢の市街地”には,オーガニックな
生命の眩惑の渦巻いて,もうそれは本当に,”妄想=夢の世界は,桃源郷である”。

夢について,ここで夢の世界の武器である,諸刃の”思考”によって,眩惑の都市を,
思考してみよう。もちろん,現実のイチ都市ではない,夢の未知な街を,嗜好品の
ように,たしなんでみよう。夢はとにかくも,無駄でなければ,夢とは呼べない。
そんな性質を有している。脂肪溜のような存在は,だからこそ,ベーコンや生ハムの
あの,アパタイズされる塩味の絶妙な調和によって,”夢=脂肪”は”思考=塩”によって
微妙な嗜好品文化へと摺り寄せられグルメに変化してゆくのだった。

結局,夢の都市は,アペタイザーのように扱われる軽味で,軽妙なテイストが売りで,
軽薄にさえ感じられる,記憶の片隅の都市であるからこそ,彼の居場所は確保される。
実態は,切り分ける思考態よりすれば,ジットリ重いものだけれど,それらを,軽味に
嗜好品に換える,その辺りの上手さは,絶対に,夢の特許シェフ・テクニークだろう。
夢は,軽い。そうして,思考は重い。こうやって,現実は,エーテルと逆転している。

消化する能力を蓄え,やがて現実を夢に…

神話性には仮説親和を湯に浸かりながら。

三島文学より芥川氏,太宰の門をくぐり,漱石山人の内へスライディング。 自己と犠牲よりの,詩情ポエジー。そうして,人間性より,宇宙自我へ。 自己より,情緒に,そうして,そこから全体主観の全人格的にユニバース。 逆戻りにみえて,物質的にグラウンディングするには,そういった,固形化する 何かのプロセスを必要とするらしいので,”自動化する思考について”は, それでも,お風呂の湯は止めなければ沸き続ける。そうなれば,地球自然の そういった水源は元を辿ればシステムそのものか。漱石山人は太閤秀吉の面影を, 何故ならば,戦国の世に照らし合わせば,その桐の花の咲いたようなスサノオの 彼を,ニギハヤヒとゆうなれば,そんな個性化された一般人間個性は,他にない。 皆,全体的な人格思惟に留まって,自然神のイザナミ=太陽神母に,なじむのなら 何故だか,ボーイッシュな”人間個性”はいかにも大事そうに,ミニマルに扱われる。 漱石山人=小林一茶=太閤秀吉=後醍醐天皇=源実朝=平宗盛=怪僧道鏡, =初代アウグストゥス=バルタザアル(ヘロディヤの父)といった,何の関連性の ない或る仮説神話性を見詰めては,これぞ宇宙自我だ,叫びたくては,風呂に入る。 バルタザアルはヘロディヤの父と仮説物語りすれば,ヘロディヤの娘のサロメーに 討たれた,バプテスマのヨハネに責任を追及される,そういった祖父また父としての 呪詛を受けるだろう,悔悟の前半生もあながち間違いもなく,垣間見られるものである。 『学生時代』には,整った文明開化を迎えるはずの生誕地に,何故か犠牲を求める開花。 木の燻されたような跡には,ロマネスクの干物のような,自己開花のチャペル・プレイヤ その教会群に,ユリの香りと,芳醇なブランディのような匂いの漂う。あれは,告解だ。
だから,寝る前には,かならず三島文学の香りの訪れるのだ。起きれば抜けるようにして 身体から立ち去って行くその芳香に,いいや,もっとスパイシーなその神秘性に,まだ 飽き足らぬ情熱の感慨を抱き締めて。まだ,起きる事のない自然の宇宙大の開花を夢みて その自然の開花した時に見られる壮大な芳香性の発露は,いかにも多分,ユートピアな 何かだろう,それで,珈琲豆乳を呑んで,チャペルの事も何もかも忘れる瞬間。僕は, 幸せだったのだ,そのロマネスク芳香に包まれて,出立する汽車に,いつも乗っていた。 …

サマーランドの芥川氏と,恵比須顔の東照宮に寄せて。

水の構造は,傷ついた心の求心力に膨らんだ革袋のようだ。 世界中をめぐる革袋の水力精神には,グリッシーニのような 棒立ちの個性が良く似合う。むしろ,傷ついた心には人間の, 普通の個性が,何より必要だ。とは,時間経過で,チーズに 化してゆく,そういった発酵過程にも良く似て,個性化する その繊細な感性は,個性化する,モッツァレラのような革袋には, 酵母を入れて,桐の花眺めて。プツプツゆう,ドーナツ盤の音源にも そんな酵母を活かしてくれるような余白の,その安心感をみては 函館の坂を登った教会群に,傷痕の神秘性を感じ取っても,また その中に,非常なロマンチシズムを嗅ぎ取るのも,決して間違っては いないのだ。むしろロマンの先立つ一般史観においても,その傷跡の 香りは,前向きに言って,教会群の芳香性は,”世界はまずもって陰性”で, けれどそこより”かならずロマンを産み出す必定の発酵精神”を垣間見させる。 豊穣性なのだとゆう,世界精神は,”生命宇宙”でもあって,もっとプツプツ, 音源は確かにその表現の落ち着いた,あまりに安心感を促す何かで。
一度,ベルフォールのライオン像のような足先のアザに対して,ロマンを, かならずそこには”何かのロマンのあるはず”として,LONDON ONEと銘打って そのライオンを観察してみて思う。僕にとって,ロンドンはアナトール・フランスに よって,あのサロメの母のヘロディヤのようにシニカルにシュッとして響くのだから, ライオンのアザはアナトールのものであった。そうして,それを奪い去って,日本に LONDON ONEを持って帰ったのが,留学時代の漱石山人たる,桐の花の夏目先生だ。 芥川氏は,先生をみて,バルタザアルを訳したのだろう,アマテラスの岩戸開きをして, 世を輝かすのは,芥川氏以外には居ないのだ。ロダンはその時代,地獄の門にうずくまり 出雲の国の大黒さんのように,恵比寿さんと手を組んで,世界の精神トイレを構造化し, 常に,青空にエーテルの輝きを創出して。イザナミ神の大谷崎は,映画の美徳に酔っては 水晶化する大地のロマンを,水の構成とは真逆の遣り方で,三面鏡には真顔の阿修羅。 トーマス・マンは,”人間の父”のような様相で,R.シュタイナーのゆう”人類の代表者” たる,大ゲーテやシェイクスピア,あるいはまたミケランジェロの表情で物書き表現を。 そうし…

到達し,完遂する。ズイキの酢漬けを摘んでは。

三島と太宰は,弁慶と九郎義経のようだとすれば,彼女が,彼を ストーキングしていたのではなく,その文化人たる場末の湯上げは 決してカラフルな手ぬぐいではなく,やわらかなフンワリしたもの。 世界の音楽は換わって。到達し,完遂する。ズイキの酢漬けを摘んでは。 妙に,スパゲティを啜りたくなる夜更けに,デカフェの珈琲でさえ,目の 覚めるのは,コダワリよりも,到達し,完遂する。ズイキの酢漬けを摘んでは。 意味より,意志の文学であるとすれば,そのリズムとブルーズに裏打ちされた, 音楽によればブギウギの出発点に,融解する流動的な”意志”よりも『脱力意志』の 分娩された,数々の希望や,心得を,イザナミは,ストレイトに,巌の意志へ。 宇宙船で流れているような音楽を聴くことのできる時代。本来の町場は,宇宙船の 存在基地で,その実在論は,そのまま,意志の詩学へ,ドリップオン・トリップ。 何か,言葉は『意志の飛翔』を垣間見て,詩学のほうへ一滴一滴抽出されるようなのだ。 脱力しきれば,自我はない。けれども,その何かへ向かう意図のあり方とは,その姿は 巌の意志へ,怒りのない,怒髪天。そうして,鬼の形相の,不動明王の優しきほむら。 到達し,完遂する。ズイキの酢漬けを摘んでは。そうして,カリカリしゃりしゃり。 繊維質の何かを噛んでは,押し戻す酸味の上に,辟易しては狼狽している姿には,仏の おなぐさみ。そのさわやかな,福音の一種。
もう読経は,アメイジング・グレイスの調べと融合する時代なのだとゆう。抽象的な救い それを,福音と称して受けるものならば。空間にながれるアルコールのような生活経には すでに,グルメのなますなどあふれて来て,それは,洋風のピクルス・ファッションに, ちがいない。エコボトルなどに,常温のお茶をストックしては冬場に親づき,一ケタの, その気温には,すでに冷水のように感じるが,相変わらずお炬燵などをだして来てはその お茶を啜る経過に『ああ,なんだか世代間ギャップにあらず,世代間シンクロなのだな』 納得して,氷を保存しておく。いつまで夏が来なくっても,出来立てのお茶には一粒二粒 入れるでしょう?もう,ソレで良いのだ,とお豆腐に醤油の合うだなんて,誰が決めたの と,僕らは想うその時,むしろ大豆同士で,ほんとうに相性のよく,これほどの適当な物 は,お互いそれ以上にない。そんな風に思えて…

時間推移と,相互矛盾する内実共に才色兼備の理想を以て。

身体を動かしている時ほど,頭は働かないものだ。また, 文学における創作意欲は,スケジュールに追われるほど, すくなく,むしろクリエイティブとはシナリオライティングに おいては,停滞している時の,貯金を更に温め続ける感じ。 時間推移と,相互矛盾する内実共に才色兼備の理想を以て。 すべて,流動的に放出し続けるときほどの,時間推移で。 想いは,むしろ,対極の事実より創作にこそ重きを置いた方が クリエイティブで,時代は動くだろう。そう,時代が動く時は クリエイティブで,欲望の対極にある,事実と向き合った時でも あるのだ。相互矛盾することの大事さ,この対流するストーブの 灯の熱源は,いつも陰と陽を繰り返し推し量りながら,眠りの手前, コーヒーを呑むことも忘れるほどのウツラウツラした瞬間にこそ, この時代の動く,迷妄の蒙昧とした,連綿と連帯した恬淡さで, 動くうごく,時間推移と,相互矛盾する内実共に才色兼備の理想を以て。
特に自動車を壊した訳ではないのに,スクラップにしたような夢を見て,
それは事実,違う惑星ではおこなわれているかのように,リアリティを
以て,迫ってくる。この,夢のような意識の,スクラップとは然り。この
忘れることのない,身体は休息を求めている寓意の,白昼夢なのだろう。
デカフェのコーヒーを呑んだのに,書店で催すくらい,効いている。普段の
寝不足で,力不足の眠前にカフェインの強いコーヒー習慣を忘れるくらいの
スケジュール過多だったように感じるのに,デカフェは思った以上に強壮だ。
今日はロマネスクを忘れた。忘れた以上に,時間とは,文学を奪うものだ。
眠りに落ちた瞬間に,カフェインなど摂っていなかったことに気づいた身体は
休息を許すだろうか?まだ,何か,アート・エンターテイメントを,享受して
写真加工や,色とりどりの表現を堪能したいものだから,なので,この際は,
何をするにあたっても,眠れない時ほどローズマリーを勧める慣習にあっては
わかります,わかりますけれども,きっと,温めることのほうが,そうして
ほぐすことのほうが,より大事だと思いますよ。これから,お茶を啜ったら,
寝室で,しっかり横になって,暖まりましょう。これは,とっくりタートルを
着ているだけでも違っていて,例えば,切なさは命の表現である,など。言って
探っている本質にあっても,もうそれさえも温まり…

少彦名=イザナミにみる大白玉パラダイス。

大谷崎=高杉晋作=8代吉宗=光明皇后=持統天皇=推古天皇は, 日本の白玉のイザナミをあらわしてはいるけれど,それは少彦名。 少彦名=イザナミにみる大白玉パラダイス。性愛や,龍神の玉の あの,燕尾服の似合う初老の紳士において,きっと吉宗公にも, 随分と紳士服はお似合いであったろう,と思うのだ。女帝,と 言っては,確かにそうだろうけれども,このツールを以て,その ルーツを道具として捜って行けば。イザナミとゆう発想の女神は 原初の地球にあって,国土そのものであった,その大地母神に, イザナギとゆう浅葱色のUFO来訪者によって,開拓されていく パイオニアのあの客神の,男性性とは来訪者で,
一方,スペシャルティなオリジナルの女性性は,
人格とゆうより,もっと大地と親和した, そうゆう母性な地球そのものなのだった。
なぜだか,一体となる,そんな気のする,
少彦名=イザナミにみる大白玉パラダイス。また, その一体化する大地母神の文学ツールなのだった。
そうやって,この大谷崎の全集や,朗読ファイルなどを,
電子書籍版に,そうして,デジタルストリーミングなどに,試みて。
その,太古より女性性のオリジナルなのだった。このツールを使って
情報を旅すれば,文学における,グルメや,性愛の発想,そうして,
犠牲や,歓喜などの循環は,多分のことを以て,喜捨しきった所に,
還元されるといった,そのイザナミ・大地母神は,そんな枯山水に
海外からのサビの論理を吹聴されるような,ほんとうに侘びた風潮を
個々の所に蒸かしてくれる,まるで饅頭にはセイロを必要とする昔の
茶屋のあたりに聴こえる,女性たちの甲高い声のように。

ミシンのカタコト辛い音の連続は,ようやく落ち着いて,この晩は
そういった,谷崎の文学などを捜る気配の,静かな灯油ストーブの
音もない,電気を必要としないストーブのそういった無音の熱源の
喜捨することのなかに,日々の繰返しは多分支えられて存在してる。
廻り巡ってそういったことを感じながら,大谷崎に至るときには,
少彦名=イザナミにみる大白玉パラダイス。サドよりマゾッホに,
ずっと親いこの文人のグルメによる茹で卵の笑顔を眺め入った時には
大谷崎=高杉晋作=8代吉宗=光明皇后=持統天皇=推古天皇は,
日本の白玉のイザナミをあらわしてはいるけれど,それは少彦名。
この発想はやがて,遣って来たのだっ…

バツの悪い中学生のような気持ちと,高校生の知性を。

ぼくの好きな歌手のひとは,町中をあるいて,返って一瞬で 描き上げる瞬間を,歌詞や作曲に転用昇華してクリエイトされる ようなのだけれど,そんな瞬間は,どうなのか本当に幸せだろう。 頭の上より電気の蚊は飛立ち,肝臓の疲れは丹田を開くことで治る。 この,睡眠時に放つ,昼間の教訓を,学習塾より帰る子供の気持ちで 米麹のような香りを浮き立たせる夕暮れの路上には,夢の中の幻燈。 バツの悪い中学生のような気持ちと,高校生の知性を。その夢の中で 再現するように,再現性の高い,学び取った高次元の,処世訓として。 身に着いた,夜の間の,蟲のような脱皮と,酔い覚めのように肝臓は しっかり,湯舟に浸かって,ヘア・トニックも付けて,歯ブラシ河馬さんの ようにゴシゴシしたらば,そうやって,身に着いた,バツの悪い中学生の ような気持ちと,高校生の知性を。再現性の高い,高次の処世訓に換えて。 ハワイアンのポチキを夜食につまんで,ブルー・チーズを間に挟むのだ。 その前に,豆乳オーレを頂いて,もっと軽い,クリーミーなチーズも。 そうやって原点を探れば,金つばを食前にたべたい欲求はかなわず,兎に角。 お茶をぐびっと呑み込んでは,ミカンをひとつまみして頂いて,待ってた。 コンニャクをラーメンのようにして,おでんのつゆなどで頂く夜の, どんなにか,幸いなことだろう?バツの悪い中学生のような気持ちと,高校生の知性を。
奥さんは,マスクを沢山つくっていた。口につけるマスクである。ミシンを,
誕生祝いに買っていたのだ。そう,ぼくは今まで,手つむぎ等を趣味として豪語。
していた代わりに,やっぱり彼女のミシンに躍起になった。率先して,小学生ぶりに
上糸,下糸の準備をして,きっちり縫い方まで調べ上げた。そうやって,合い間に
ジーンズを2本,コール天を1本,裾上げや,マタ下の補強など素晴らしく熱中し,
なんだか,冬の手前にクリスマス・ギフトを早くも頂戴した気分で,本当に良かった。
『お茶です』それが,お茶々です,に変わり,いつのまにか「お茶々おす」と言って
言葉遊びに興ずるようになって,『お茶々牡,お茶々牝。』とゆう造語にまで至った時
ああ,ヒトは,ふと,立ち止まって空を見上げて,そのまま直立歩行したのだ。など
あまり見上げる事のなかった青空の中に,何か虚空の,寂しさとも付かないあの空虚な
ブランクを眺め入った時には…

幸せを煎じると,桐の葉スギナどくだみの味。

燦々と照りかがやく,落葉前の木の葉たちは,またもう, 飛翔する西洋の天使たちにも似て,にこやかに晴れ晴れとした 笑顔で,この天上の楽園にも見まがう秋日の午後を彩って。 奥さんの誕生日が,もう親いのだった。大掃除をはじめて, 毎年のウツワを贈ろうとゆう想いはすこし陰を潜めて,なので チーズを,どれがいい?と訊いて,地元の加工品のそれを択び, 薄めの豆乳オーレと共に,前夜祭を祝うことにしたのだった。 ほんとうにグルメ・レポートみたいになるけれど,高級品と一口に 言ってみては,信じられない程デイリーのモノとはちがうのだな。 そうやって,地元の加工業者さんの食品などを口にすると,それは やっぱりクラフトの想いで造られているのだから,香り,透明さ, この澄んだ部分に関しては,やはりモノづくりに関する作品には 敵うものはいないのだ,と気づいた。そうして,いまは,祖父母の お家より借りている,ホーローの古い鍋を,昨夜ミルフィーユ鍋と ゆう,白菜と豚肉を交互に挟んで敷き詰める,無加水の(直前に焼酎 を,ひとかけするのだけれど)蒸し鍋のような調理で大分底を焦がして しまったのを,重曹でコトコトしながら,奥さんの帰りを待っている。
誕生日には,秋の日の情景を描いた,絵本にすることにしたのだった。 いつも,もうそれは中学生の頃より通っている古書店があって,大手の 文庫本などもシリーズでずっと揃えられているようなところだから,本当に 参考になって,この間は久しぶりにゲオルゲの詩集を購って帰ったばかり。 その時分に既に目を付けていたモノだったのだけれど,ずっと人にオススメを しておいて,僕自身は持っていなかったその秋の日の絵本は,気にかかって, そうだ,これを誕生日のお祝いにするのはどうだろう?オススメする自分のその 気概は,きっと,こうゆう時のために取ってあったのだった。思い込んでは, 自分で趣味にしている写真の水彩加工などで,得意のラッピングを試みては よしよし,と。この日には九州に旅行にゆく事にはなっていたのだけれど,ひょんな 不幸よりちょっと,中止にしたところで,お花代に,と母より預かった費用を使い, 食事に出かけることにして。まだ,時間はあるので,ラッピングを開いてもらって コーヒーでも呑んでから,すこしカッパを着て外出するような体裁で,今日は雨。 九州,と,ラッピングには青い…

三島文学におけるニニギとジングウの関わりにつき。

三島文学におけるニニギとジングウの関わりについて,その 両者の,ニニギとジングウの異性同士の神々の天孫と八幡神の つながる所に,甘酒より酵母を採ることと,お米を炊いて頂くことの その両面性のつながるような気のして,抑圧の残酷に響く時も, それの獅子と舞うような心地。また,女神のスピリチュアリティと, 咳込む男神の綿帽子に,無論,秋の木陰にもう舞い散ってしまう紅葉の ダンスさえも,そのように,むろんの事。それは残酷な抑圧ではなし, トビナガスネヒコ=大黒=タケミナカタ,ニニギ=神功=タケミカヅチの, そういった,縄文と弥生の入れ替わりのあったとしても,果たしての 自分のジャーマンポテトとバゲット・サンドの対比を好き嫌いしてみたって, 濃いブラック・コーヒーはフランスパンには合うものだし,ビターなチョコも リンゴのシードルなどの酸味も欲しくなるところ。まだ,酸味の必要な時期に でも,いくらそれだって,にゅうめんにはカツオ出汁だしビネガーは入れない。 決して,そうめんにも,暑いからと言って,オイスター・ソースのつゆは,あまり ススまないので,和食を冬に,中華を夏に食べるにあたって,季節自体は入れ替わる ことは,ないのだから。時代性として,ポスト・天孫降臨などは起こりそうもない。
キッチンの照明を換えてもらった節,知り合いの電器屋さんから,父と同い年と伺って 驚いた折には『私も,入換え時で,車も,この間あと先あまり要らないのに替えました』
と聴いて,ああ,そうか。IH調理器も見てもらって,ガスに替える話をしていた矢先 前回のその話題を踏んで,よもやま話をして下さったのだなあ,紅葉の季節に実に風情の あって,落ち葉も,そのように電器を換えて行くさまにも似て,季節と入れ替わり移る。 家の奥さんの,朝の出勤時に,目の前で接触事故をした折などは,正直ぼくの方の動揺は あまりに動転して激しく,それで,奥さんは冷静だったらしい。昼にもなって,ようやく 電器屋さんに渡し余った珈琲缶などを啜って一息つく心地。その車で先週よりの,旅行を 予定していたあげく,天孫降臨の名所旧跡めぐり観光を考えていたものの中止になって, なぜかぼくの方は,ホッとしている。不可思議なくらいホッとしている。それはたぶんの 小難に切り替わったように,無意識は安堵しているのだろう。ガスに替えるようにして, 祖父母か…

桐の葉と,鳥獣戯画と,八束の剣と。

気づいたら,安吾の地粉のような練り方と,三島文学の諧謔に, 独特の美学とを合わせたような感じで,堀ロマネスクの蕩尽と, 川端ホムダワケの浄霊効果の上には,芥川氏の論理性の教育の, 漱石山人の桐の葉と,鳥獣戯画と,八束の剣と。大谷崎には, またもイザナミの刻印を授かって,さあ。太宰のその中立中和, 親和調和のみごとな無頓着さを,さあ。中心軸に添えられたら, 酢豚のような酸味には,パイン・フルーツのトロピカル郷土の 山岳料理などを嗜めて,たまのデカフェ珈琲にミルクを割ったり, そうやって,身体中をサラサラにしたいと望みながらも,郷土の 強烈な土着酵素のロマンチシズムを鑑みては,夜型の自分の昼は こうして,夜食の片付けや,湯沸かしや,買い物に鍵締めなどを する自分の夕刻に遣って来て。けれども,決して暗いのの好きじゃ ない訳ではないのだから。カフェオーレを傍に置きながら,この CD造りや,簡単なスケジュール調整などをモノづくりに照らしては 考える,何だかジャコピーナッツのような,そんなつまみの時間が 好きなのだった。モーレツに,そう。好きなのだった。
考えたり,それを過ぎて考えなくなったり。考えなくなったりもする, この時間は,とっても好きなのだ。素敵な本とは,どうゆうものだろう とは,イメージしてみるのに,絵のない絵本。とは,アンデルセンなどは ほんとうに絵のない絵本があったら,どれほどすばらしい本の出来上がるか? こうやって想像して,冒頭の月のシーンなどはそのヴィジョンだけで,もう 一介の,その一遇を照らす,すばらしい本を頭脳の書棚に掛けていてくれる。 詩学とゆうのは考えないところから始まり,意味の詩学があるのなら,それは 哲学・文学の境遇に身を置いているとゆう証左になっているので,考えなくなったり。 そうして,詩学の始まり,結局は月の登場する冒頭のシーンへと還ってゆく。 メルヘンが必要なのだとはゆうけれども,メルヘンである日常に追加するのは, コッテリした童話である必要はない,そんな意味深な調味料は眼をつぶしてしまうので, それこそ,気づかずにいる,本体の”メルヘンである日常”に,気づかせる,お酢のような そんな,目覚めの香辛料をこそ,普段の何気ない詩学としての香辛料こそ,やはり 頭脳の書棚には掛けておきたい。スパイスのある風景には,意味より香りの詩学。
ようやく…

恍惚とゆうのは,柿と春菊のヨーグルト・サラダ

早くも,冬の気配を感じるこの頃の,何故だかこうもはやく, 落ち葉は散りきってしまうもの?とは,そうゆう感覚にして, 早くも,冬の気配を感じるこの頃の,恍惚とゆうのは, 柿と春菊のヨーグルト・サラダを,試みに造っていただく,また。 豚キムチとゆうこのストレートな表現にニラも加えて頂いた,その 翌朝に,豚キム丼を造っては,絹ごしにひきわりを載せてまた,頂く。 すこし秋のにおいのような感じの減ってきた気のするのだ,下手に 猫の機嫌を窺って無視されるような変な気の使い方を始めるような。 こんな季節に,冷たい絹ごしは何故だか秋の余韻を強烈にしてくれる。 幸せに,言葉の記憶を紐解いて,恍惚とゆうのは,柿と春菊のヨーグルト・ サラダ。こんなメッセージを,ヨーグルトは塩加減を合わせて,より単純に 熟柿に親い身をほぐして,生の春菊と。そのヨーグルトの酸味に柿の甘味が ドレッシングの作用を担って,春菊に和えて頂いているような,そんな感じで そろそろ,珈琲豆も切れてきたのだけれど,うちはデカフェのものを所望する, 夜派の珈琲習慣の着いている昨今の。シンプルに加工しているモノでも良いから, 美味しく呑める,とゆうことだけは大事にして,珈琲を日々淹れてゆきたいのだ。
ミカンも終にはお茶の間の卓上に昇りだした。ほんとうに,炬燵はもうひと月も
前より出していて,炬燵で寝てしまうこともあったのだけれど,ミカンの昇り始めると
ここまで落ち着いて目の前を直視できるのか?とゆうほど,安らぎの効果を,この
たまのミカンは与えてくれる。非常な世間体の嵐を感じていて,それは,きっと。
メーターの振りきれたように,悩みの尽きるときには,ああ,安らいだ。冬のミカンは
こうした,悩みの振りきれたときに起きる,不可思議な酸味の効いた芳香を発生させる。
発生とゆうより,発声と言ったほうが正しいか?いいや,正しくはないけれど,発生の
発声するように,たまねぎよりも目に沁みるような柑橘系の飛沫には,こんな目頭の堅い
気持ちのような冷徹なココロにも,それはほんとうに美しい声楽のように,目に沁みる。
キャタピラーの木目のようなコロコロとした形で,皮をむくと現われて来る身のミカンは
ご老人の諭し方のように甘い囁きで。とつとつと,うつろうとうつろと,そして安穏とし
ぼやくようにつぶやくような甘さで。それでいて,酸味ときたら,若…

都市街と,山脈地と,個体性と,なんだか疲れた時には,眠たいモノ

お豆腐も,納豆も,ミカンも,ピンからキリである。そうゆうのは, 生産者に対して失礼だ,とゆう文言も想定されるので,使わないのが, 常なのではあるけれども。決して,美味しくないモノのある訳ではない, こんな言いワケじみた,メッセージは,あながち鵜呑みにしておいては, はて,やっぱり地元の工場の,大豆加工品や,地物の野菜市などのミカン。 たまに,そんな食材にありつけると,言いワケじみた気持ちも鵜呑みにして いつも頂いている常用食品に対して申し訳ないながらも,優劣を付ける癖に, 都市街と,山脈地と,個体性と,なんだか疲れた時には,眠たいモノであるので それは,縮小された自我じたいの,拡大された,街や山麓や個人の問題に照らされた こんな,コピーである自分自身のそのままで行きたいと思う。コピーするには, インクは必要であろう?インクとして,必要な,ぼくのコピーなりわいは,こうして グルメに対しても,感謝の第一に,とにもかくにも地産地消のグルメを摂りたいと望む。 地物のミカンなんてシャープな怜悧であるほどの酸味と,酸味の中に鮮やかな甘味は お庭で出来た果物。といった印象でしか語られない,あの独特の鋭さのあるものなのだ。
糖質制限を励行する食習慣を,家庭内に感じて,その風潮を豚肉に先行されて旨味にただ 興じて,お腹周りもスッキリしてきたように感じていたこの頃,龍馬の軍鶏鍋ではないの だけれど,そんな鳥鍋を食べたいなあ,など言ってみたところ,聞いてない振りの彼女は 何かの拍子に一言,豚肉がいいなあ,とつぶやいた。あれれ,そんなにコダワリはないの だけれど,水菜と,春菊と,豆腐に,鳥団子を入れてもらって,豚汁用に取ってあったの を,加えてから,ニンニクごま油の塩鍋にして頂いたところ,結局ぼくは水菜や春菊を, ばかり口にして,鳥や豚は取らなかった。こんな気持ちだったのだ,軍鶏を食う気は全く なかったのだ,龍馬さんはきっと正月に南天の実をほお張るツグミのような気持ちで逆に 鳥をほふって自らの逝き場所を飾ったのだ。すでに青菜の鍋に,清流の感じや,その間の もうクリスマスを祝っているように,感覚をホクホクさせながらも,顔の周りは,すこし 肉づいてきたのが,さらに慶事の時間帯であると思わせながら。この,期間に鍋を頂いて 地物の野菜を砕いてお腹に詰め込んで,さあ,サンタクロースにこんな良い腸…

芳香剤を嗅ぐように,珈琲を啜る夕べ

シヴァとサラスヴァティ,また龍馬と小五郎,そうして, 太宰と三島文学の,この和合の杉のような相対する女夫の 芳香剤を嗅ぐように,珈琲を啜る夕べに,やっぱりお米を 頂かないと妄想は発生してこないので,お肉ばかり頂いて スッキリと思考の整理の付くような何のハミダシ加減もない, そんな夕べには。『ああ,もうモノを描くこともなさそうな』 と言った,そんな頃合いに,自分の中にある三島文学,その 時代的系譜なのか,熟柿の身をほおばる気持ちの良さを保存して
いまは凍えているのです。と言わんばかりの,熱い珈琲を啜って
現代病のように思春期よりまとわりついて 離れなかった,女神のような三島文学に至って,ああそうか? もう,そのどちらともつかない龍馬=太宰=シヴァのように, 男神のような形式で,ザックバランに,実に人格芸術論を闘せ, ほんとうに身につまされる,この人格哲学を始めて行ったらいい。
珈琲は,熱湯に親い程,鋭いような芳香を発しはじめ,いつも 温湯で淹れてしまったりして,それを常温の豆乳と割ったりして 酵素たっぷりな珈琲豆乳を造っていたりもするのだけれど,いつも お肉を避けていた奥さんは,肉食も受け容れられたりもしはじめる, そうして,今夜は手ごねハンバーグをコテコテと弾いていると何故か とっても心地よかった。玉ねぎを炒めてから混ぜてこねるのだと教わり その熱の伝わりから,真っ赤な挽き肉は絵の具のような発色で,僕には ルビーが耀くようにみえる。皿あらいは予想以上に大変だったけれど
馬油の製品のように,手も潤うのかと思えば,肉料理に冬の天候も体験して すでにアドヴェントのクラスを立て続けに受講しているような天然自然の 暖かい日暮れなのだった。そののちの芳香剤を嗅ぐように,珈琲を啜る夕べは 何だかもう喉元を通らないような気さえして。
どこか三島文学に浸された思春期に,身体の芯まで凍えて冷えてしまったような 神功の影さえみえる,その辛辣な教えをもとに,供にしたこの身体の冷え様ざま。 特に,それに気づいてしまえば,至って普通のザックバランさで行けば問題ない, そうタカを括って,臨んでしまう。秋の夕暮は,時に春の訪れさえをも錯覚させて, さて,冷えて凍えた,ふくらはぎや背中の各所のところどころ,すこしずつ,薄明に 向かって,温めて差し上げましょう?デトックスとは我が物顔に言う,身体の各…

頭寒足熱と,心頭滅却する湯舟の中で。

寒暖の差の果てしなく,ただ,冷える事と,それを温め直す事の 両極についてだけ考えて,後のことは言い訳なしにそっちのけに そうやって出来ることが,何より嬉しい。『お風呂に浸かるのは, 身体を煮るようなそんな心地。冷えているから,カチコチなのだ』 そうして,糖質制限を試みて,初めてご飯を炊かなかった夕べの, 何だか妄想はお米より来ていたのではないか,と風評にもなるような そんな気概を持って,なんだかすっきりしている気持ちの清々しさを 晴れやかに頭寒足熱と,心頭滅却する湯舟の中で。例えば,オシャレ なんてものは何とゆうものだろう?と,考える。お腹で考えることの 出来れば,それはオシャレでも土着の勢いのあるモノでも,すでに 心地よいものだろう。と,月が杉の樹に翳って非常に良い晩である。
朝の掃除をしていて語ることのあるのだけれど,語る内容はいつも同じ そうして,語ること自体が,空っぽにするために非常に良い効果を出して くれるので,『モテる床拭き=ファンタジーの床拭き=狙わない床拭き』, など,いきがって普段にない語りをしてしまうのも,空っぽにして床拭きを するのには,いつも決まって無欲に透明なシートを敷いて行くようにして, その一日の行方を願う。それだけなのである,身体=お店の,リンパ=運気の 流れを良くして,帰りには,快調=アウトプットの健やかな結果を願って 一日を過ごすのである。そんなに体力のあるほうではない,いつも眠たいし どちらかと言えば,リンパの流れを良くしたいと願いつつも,そんなポジティブ でもないほうである。嗜好品と言えば,酵素ドリンクや,たまに珈琲豆を購って ジリジリと堪能する程度の,あまりにそこまでは刺戟性を求めないタイプの, 通常通りいけば時間通りに快速でも鈍行でも駅には着くであろう,きっちりと 運行する電車のような性格はしている。そのぶん,レールから外れると,訳が 解らず,動けなくなるようなそんなプロトタイプにテンプレートをかぶせたような 変な平常心を大事にしている形式的に従順なタイプの者である。だから,こんな 杉の樹に香りまで沁みてくるような月夜をみると,何故か思う事がある。
革命は,いつも想っていなくても遂行されるものだろうか?頭で感じることは, いつも現実味を帯びて万人に通達される共有項でもあるか?行動する事,実践家は 明るくされることで,そ…

飴玉の女神と,蜜柑の女神と,珈琲の女神。

ヒステリクスにテーマを置いて,結局は自分にヒステリーを, 鏡のように鑑みて,そこに映った自分は,ヒステリクスだと。 本来の観光などをして,大地の親和性を持ち帰ったまま,その リンパを流すように,心のストレッチをして,その試みののち, 土地爾来の,自分のヒステリーの対置融合などこころみるのは, 最高の旅の土産話だったりする。それは,旅に行った自分への。 旅の途上では,時間の無駄を最大限に遊興するその感慨に浸る, そうして,人間性や現地の親和性を感じて,それぞれに蓄電し, それらを持ち帰って,やはり鏡のように鑑みるヒステリクスと 対置させる。勘違いだって思うけど,そのヒステリクスの姿は 変容させられて,それは,旅の最高のお土産になったりするのだ。
勿論,土地のヒステリー=鏡としてのヒステリクスなどは,旅の 前もってでも,既に洒落っ気などでカワしては来たものに違いない。 違いないがしかし,ヤマタノオロチ退治の伝承のように,旅よりの 土産物のように,スサノオが退治するオロチ=ヒステリクスの姿は 洒落っ気でカワしていた自分も含めて爽快の一途を,垣間見させる 非常にスリリングな旅のお土産話の道程である。飴玉の女神と, 蜜柑の女神と,珈琲の女神。正直に旅のお供はこんな非常に甘い, 一粒一粒の,一かけ一かけの,一滴一滴の,甘い甘い女神の恩恵で, 例えば,女神とは,スサノオと対峙するように双竜として機能する, 月の女神に違いない。そうやって,旅より持ち帰るお土産じたいの, それは月の女神以外の何者にも違いないのだ。それでは,いつも洒落で カワす,お子様としてのヒステリーの逃亡者は何か?それはまた自分の オリジナリティでもあって,旅は,親神を連れて帰る,さとがえりとは ある意味親い関係を持っていると思う。飴玉の女神と,蜜柑の女神と, 珈琲の女神。退治するのは,また意味合いの違う話には,なるけれど。
それは,決して逃亡者は,オロチより逃げているより,そこに居ながら 避けているのだ,飄々と逃げながら,お洒落にカワしている可愛い者。 太宰が,マント姿で呑みながら,ニコニコと街頭をあるいていたような, 彼はヒステリーよりの逃亡者だったろう?けれども,旅に出ると,百景の 要旨で,あんな御坂峠の不可思議うつくしいイチ・シーンの描けたりする。 秋の行楽に,イチ・シーズンは,まるでそんな逗留執筆を…

段々と,エナジー・ボトルのように扱う大地の礎。

眠気を抑えながら,抑え込みつつ低血糖のような気怠さを。 突き進みながら,癇癪を受容して,三島文学とゲオルゲの。 ゲオルグとゲオルゲの違いを調べても上手く説明できない, しかしながら,太郎と次郎の違い位なのか,タカを括って まだ,古書店には秋の小人の画文集の揃えてあるのを聞き耳を 置いて残しながら。いつか,段々と,エナジー・ボトルのように 扱う大地の礎。二時間も独り待ちぼうけを喰らって,その双方向。 双方向を求めて,結局辿り着くのは,自分で,いくらでもエナジー。 エナジーを操作するように体幹をコントロール調整することを,一貫。 一貫して,怒りに託さず,応酬にも天然頼らず,そうして武者震い。 段々と,エナジー・ボトルのように扱う大地の礎。ブルブルと,心の ココロの,体幹を揺らしながら心中起こったことを綴りたい,そう思う。
会話の弾みと,気の応酬を行きつ戻りつ,往復させて。赤いビーツの 果汁のようなのを,ボルシチのシチューだけではなく,赤シソジュースの ように,ただ順々にゴクゴクと呑み干す心地。意外と,野草・西瓜・葡萄の ブレンド酵素などを,豆乳と割って深夜に呑んだりしていると,その鬱屈と 心理開放されるその情感を,ああ,それはタンパク質はバナナのように, 酵素を,デンプンと合わせたものに違いないのだ。納得して,プログラム上, 例えば,珈琲豆や,バナナなどを設計図を描いて品種改良された叡智人類の 食べやすくとゆうより,その願いのうえで達成した,本来の設計図のあるとして, バナナは酵素と豆乳を割ったようなモノとゆうことと,何が例えばなのかは, 良く解からないけれども。豆乳珈琲などを毎晩晩酌のように造って口にして, これがなきゃね,など桃園の誓いのようにして,三国志の義兄弟の絆を約束したり もしかしたらこんな習慣的な奇特な発生の縁より,珈琲を割って豆乳と呑むにして, やっぱりデンプンからタンパク質を数珠つなぎのように追求しているのではないか? 多分,継続的な気怠さや,低血糖のような目眩に親いフラフラは,新鮮なタンパク質に よって,フイゴのようにクサビを淹れられて,生命力をあざやかに復帰させられるのでは? こんな反射機能的な順序で。時期的な段々と,エナジー・ボトルのように扱う大地の礎。 段々と,身体の機序もすこしずつ回復するように帰納順応して行く。こんな,写真を撮る 事に対…

非常に護られた空間で運筆す,珈琲豆乳啜り

むしろ護られた空間でなければ,ロゴスを運搬する役割など, 任せられる訳はない,何処かのスペースシップの船長さんは, そう言って,港町より頂いたスルメなど美味しそうにたべている。 何だか,宇宙空間のごっそり反転するような夢をみて,眠られずに ぼーっと目を開けながら,これは,風邪でも,ぶり返したか?また 案の定,朝掃除をやすんでしまって,ネギ抜きも雨天中止をよいことに 一日中ぐったりと,寝具に横たえていた。何か,胃腸の大掃除でもして 免疫機能の総入れ替えをしているような,そんな不可思議な感慨を以て, フシギでもなんでもない,日常の静かな室内をながめて,やっぱり一息。 夕方には,お茶を三リットルわかして,お米を三合ほど炊いてから,ああ そうだなあ,まだやり残してはいないか?とくに静かな室内からはそんな, オファーは届かないものの,けれども,夕食のお買いもの用に着替えたり, 今夜は,気分を一新してタートルネックとジャケットなど合わせようとして, ネイビーの組み合わせで髭を当たってから,チャコールグレーのデニムなど 履き込んで,奥さんの先日髪の毛をカットしてくれたので,余計に似合ってる, そういぶかしく自ずからなにをそんなに気張っているのだろう?靴下には穴が 開いているのを,すこし可笑しく感じながら。お茶は沸いて,ご飯もうまい具合, まだ六時だとゆうのに,夜は早く訪れて,何か焦ってる,なにも無いはずなのに。
『今日は,豚肉と白菜のミルフィーユ鍋にしよう,』そう提案されて,珈琲豆と, 豆乳も欠かさず,しかし白菜は用意せずに帰ったため,すこしの芯の周りの白菜と あとは,キャベツ,そうしてイレギュラーの春菊を多用して,豚バラで肉厚の鍋を また,焼酎やお酒もなかったため,みりんをすこし加えて約束通りの無加水で蒸す ようにして,ひと煮立ちさせると,良い具合に水蒸気の春菊の香りがしてきて,さて。 あとは,ブラックペッパーも最期のあたりに,すかさず振りかけて蒸してゆき,さあ, いただきます。とっても,美味しく。シンプルなんだけれど,一層何だか永遠に続く, 病み上がりの体質には,野菜のミストのように滲み渡って響いた。簡単に浸け置きで 鍋を片付けておくと,所望される珈琲豆乳を淹れながら,上手くいったぞ。湧き水も あるし,三拍子揃って,珈琲豆・豆乳・湧き水も思い通りに用意万端,アフター珈琲。 …

青い珈琲豆乳と,存在遊戯

どうもヒステリーとゆうのは,人道的なヒューマニティと親い, そうゆう関係性には,どうしても情熱と,優しさの必要なようで, 青い珈琲豆乳と,存在遊戯を試みるうちに,だんだん三種のストーンを ブレスレットで,ガチャガチャと着けている作文途中の自分の風景にも 微笑み可笑しさを投げかけてしまう,客観的な青い珈琲豆乳と,存在遊戯。 今日は白ネギの収穫作業の初日で,何だか,調子がくるってしまうほど, 暑かったし,せわしなく気だるくなる夜半のこんな内省のうちにも,豆乳を 珈琲と割って,青いまま頂く豆乳のアイスの半々に珈琲を薄く淹れて混ぜ, 半生な酵素のたっぷり摂れる珈琲豆乳で一服する。静電気の多いような1日, 僕は一瞬のうえにも我を忘れるほどのリフレッシュを,こうして文章を表す ことで行えているけれど,家族は溜め込んだまま頭が痛いなど言っている。 そんなような,妄想に親い,けれども。それを眺める自分の視点からすれば, そうゆう時,家族は妙に焦って,何かをしなければならないとゆうような感じ, せわしなくしていたのは一緒なのだろうけど,ああ,溜め込んでいるなあ。と, そんな印象で観察している。焦る必要はないのに,いいや,もうちょっと水分を 摂らなければならない,叫びを上げているのが,焦っているように見えるだけだ。
だから,転機は急にやってくるとは言うけれど,一生懸命になるべき一瞬は唐突に 瞬間的,瞬発的に訪れるもの。何か,ほかのことに,しかもそれはとっても重要な ほかの何かに集中しながら,エッセイの感性を試みて,一生懸命になる心地は, やがて豆乳オーレのなくなってしまう器を横目にやりながら,さしおいては,そう。 この,お茶を運んでは,お灸をすえるために,駆け回り,やっぱり最近も,家で灸を するときに限っては,あまり火災報知機など親い所にある部屋は外れて,そうして, こちらの寝室でなど窓を開けて,と。パートナーを誘導して,お茶を摂って,お灸を すえながら,もう眠ってしまわれたらよろしいようで,別に疲れてるわけじゃない, いいや,いやいや,はいはい。それはオツカレのしるしなのです。ゆっくり,睡眠を。 ぼくの場合に限ってではないようです,やっぱり手先を使って,準備や算段を図ること より,何か,エッセイを描くような,こんな心地でエッセイを造るように,頭の中を, ある意味からっぽにして,そ…

夕焼けには酵素ドリンクを掲げて,天に地に情熱の挨拶

以前,六十センチ幅の卓上機で,結局五十センチ位には なったけれど,割と大きなキャンバス生地を織って,彩色を 試みて,飾らせてもらったことがある。手織りキャンバス画, とそう題して,展示をさせて頂きました。今でも,部屋に飾って 大事に写真に撮っては,さらにそれを画像加工して,遊んだり。 念入りな作業には,心地いい余韻の残るもので,そのなかには バテてしまって,低血糖のような情況で途方に暮れることもあり, 決して,良い思い出には,など思っていたとしても,それはもう, 情緒の溢れる感じで,甦ってくる。夕焼けには酵素ドリンクを掲げて, 天に地に情熱の挨拶を投げかけるような感じ。交わすエモーショナルに 交わすパッショネイトする,農作業に当って帰る道すがらの,そんな 夕日には一瞥の,挨拶ならぬアイサツを,交通状況によって投射しても 殊更の,程よい酸味と芳醇な香りに至って,情熱は切なくても温かい。
シンパシー,とゆう言葉について,情緒はやはり,確かに実存であって, 妄想虚実の区別は付かなくとも,それはやはり確立された人間性である。 艶っぽさはなくっても,情緒に至って,それは,色と空の,あいだに いつも佇んでいる,そんなエモーションの実在形態なので,ときには 発酵食品にヨーグルトなど欲しくなる時でも,夕日を背に受けて,おにぎりを ひとつカブりつきながら,ゆっくりと自家製のお茶を啜って,ハンドルを 握り廻している。夕焼けには酵素ドリンクを掲げて,天に地に情熱の挨拶を, 攻撃的であることはリーダーシップには乖離した事柄で,むしろ控えめで, 遠心力を用いたひとの方が,ずっと統率に向いているらしい。最近,気づき ぼくは,そんななかでも,リーダーとゆうより,こまごまとした,皿洗いや 荷造りや,掃除の役目を担って,それは1日千円ほどで成り立ってしまうような そんな役割であってほしい。それは,ぼくの人生の課題である,しかしながら, 自信のなかに,願望を以て,ぼくの願いは,リーダーシップの支え役である。 さておいて,珈琲豆は切れてしまって,ひさしいが,なかなか次のストックには めぐり会えずにいる。それは出逢いである,珈琲豆は多分各種の産地にしても きっと神さまを帯びて,ひとを択んで出逢っている。ぼくは,しばらく距離を 置かれているらしい。暴飲暴食ほどの,消費を適えてしまって,やっぱりすこし 新…

ざくろ果汁を呑みながら,したたかにお風呂入れる時の

今日は,筆が重い。こんな格好いいことを言おうとしては, ざくろ果汁を呑みながら,したたかにお風呂入れる時の, ほんとうにお風呂につかることだけを楽しみにしているほど。 ちょっと1日愉快でもあったけれど,感情的に緊張度合いの 強い日だったようだ。帰って,お買い物をして,上の空とゆうか 火照ったような,つらうつら,と歩いていたのだけれど,そうか 夕食に,チーズフォンデュをしつらえて,パクパクと口元に運び, 急に,その張りつめた糸のほどけたのか,お手洗いに駆け込んで, ざくろ果汁を呑みながら,したたかにお風呂入れる時の, ほんとうにお風呂につかることだけを楽しみにしているほど。 あんまり真面目になったことは,なかったし,自分でもそんなに 緊張しているほど,真剣な事柄だけではないと思っていたのに, そうゆう人間ドックのような検診には,したすらに全力投球によって ぶち当たっていたようだ。スムーズに,ほんとうに万全な運気の様子で 抱えていた問題もクリアして,新しい爽やかな健康を維持保存していけそう。 みな医療従事者も,30代の方が多くなった。同時代人として,世知辛くは ない,その潔癖ともいえる噂話のない仕事ぶりを見ると,ほんとうに世相は 医療にしたって替わり始めて,それは屹然とした現実なのだから,否めない。
薬とゆうのは何にせよ,良性に敢えて言うのなら,良薬口に苦しと言えども, 快方に働くものとは,言わざるを得ない。副作用のある時ほど,治癒過程なので ある程度細胞レベルの回復してくれば,それは良薬口に苦しと言えども,やはり 快方に働くものとは,言わざるを得ない。依存などしてはいないけれど,それは 薬学は,確実に文化的素養も内含して,好奇心を満たす,知的にも快癒への働きかけ にも,両面において。金剛杵(空海などが持っている)を,川端康成翁も傍らに 置いていた,とは言うのだけれど,昔通販でたのんだ金剛杵は手元にあって,ぼくは 新しくタイガーアイや,オニキスを巻き付けて,変った呪具みたいにして,文豪の如く 側において離さなかった。けれども,奥さんがお土産に名刹のクリスタル念珠を購って 帰って来てくれた節,ぼくは,全部ほどいて,3種の巻き付けを,両手首につけてみた。 何が換わることでもないのだけれど,とっても豪華な気がして,ソロモンやダヴィデの 宝石リングのように悦に浸って,ほくそ…