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情と熱と天性栽培。

HystericsとHumanityは同一のもので, TemperatureとHumidityが,水で一致しているように, ヒステリーは,人間性と,”命の源動力”とゆうもので, 一致している。人間には,大地(水)のうちにあって, 熱=気温+湿度の境界線は厳密に引くことは出来ないのだから 「大地の”器”に漱石山人を貰い,三島文学の油粕を肥しにして,  芥川氏の水分を頂いて,太宰の種を淹れる。  この,世界エーテルの育て方に,秘密の鍵を世界エーテル。  一度しか水やりをせず,一度きりの肥しに添えて,一粒の種。  幸せの大地に”天性栽培”の,芽は噴いた。なので,どうしても  遊興に,町屋意識よりの創造を目指して,定式=常識。天女の  また,天馬のたてがみ,揺らしては世界エーテルを振り廻し。」 もうすぐ,夜明けだな。町屋意識まで辿り着けば,あとは”記憶”を 紐解くだけの挨拶回り。
”天性栽培”の叶って芽の噴いたのならば,それはイコールの,以て 世界エーテルとゆう境域をほどいて超えてしまえば,”記憶”の紐解き, 一膳に,自己クリーニングとゆう世界の紐解きに他ならない作業の, 宇宙大に拡がったマクロより,”記憶”像の挨拶回りとゆうミクロ性へ, 移転しては,移行して,移染される,身体の記憶。腺組織とはそうして, 熱中症などと深い関わりのある作用を持っているが,そうしてまた。あの, 腺組織の解除を成功して,試みにそんな事を言っている市井のESSAYは, あのお,腺組織の解除とは?と言われて,いやあ冷房の効いた部屋を, 氷枕をして,水のお風呂に入って,もう万全とゆう奴ですね。など, 口を揃えて,あれは冷やす目的の,ひやかしにすぎない。 なんて,そう言って。帰ってゆくのだ,月の国。そうですね。あのお, の次は必ず,疑問符だとおもっていたのだけれどもそれはそうとしても。 世界エーテルの解除,って言ってもよいのだった。それは,腺組織の, とゆう世界エーテルの解除。空調の自分の部屋に戻って,”記憶”の挨拶回り。 もう,口々に”よろしく。”と言って,回るので,良い加減に,世界の紐解き。
「遊興に,町屋意識よりの創造を目指して,定式=常識。天女の  また,天馬のたてがみ,揺らしては世界エーテルを振り廻し。」
俗っぽく言うつもりはないのだけれど,”記憶”の紐解きは,そんなに関心を 惹くなどと,…

熱する=時間扇。

熱するとゆうのは,果物が完熟に向かう,ボイルする 沸騰する湯沸かしに,時間は十倍速に進む。そうして, アンチエイジングとは,抗酸化とゆうの解る気のする。 だから,夏は,時間の進むのが全時間的に環境的に, ずっと早く廻っているのだ。何故?なぜ全時間的に, 環境は時計の針を早く進める,必然の速度増す。この, 夏の時間の速さに,もうどうしても驚愕を隠せない。その 時間全体の,地球全体の酸化=老化している。この感慨,
もう早くも,朝ごはんに白菜の漬物と白米。昼ごはんに, 茄子の塩漬けと白米ごはん。繰り返しては,あいだに夢想の アイス・オーレを氷カラ・カラ。たまには動物性蛋白も。 なんて感じながら,オーレに優柔不断のミルクを加えて。 せっせ,せっせ。どうしても,働きたい余裕のある時に。
その余裕のある感情は,あと一息。自分のクリーニングの 佳境なのだ。佳境。良い言葉は,時間の速度を早めるから, もうすぐ,15時のおやつの時には変わらずアイス・オーレと 氷カラ・カラ。鳴らしている自分を想っては,筆を速める。 スラスラ・スーラ。点描画は,スラスラ・スーラ。なんて,
この夏の時間速度に焦点を当てて。果ては,自らの胃腸は, 腸活の極致にあって,7年に一度の細胞入れ替えはこの速度の 中で、始まる。終わる,空調の管理は必須で,その下でも, 容易に氷は解ける,溶ける。熔けてゆく氷の見て実感。 やっぱり,氷みずならぬ,冷泉浴のうちに停まって,体も
熔けてゆく。暑さはごちそう。時間の進みはごちそう。そんな この夏の時間速度に焦点を当てて。スラスラ・スーラ。点描画は, スラスラ・スーラ。『地球会議』なるものに出掛けて,すぐに, 門前払いされるのは時間の進みは早いけれど,創作には遅い,
体の熔けない,アイス・オーレを氷カラ・カラ。繰り返しては, あいだに夢想の,繰り返してる自分のクリーニングの佳境。この 僕自身は身体を冷やして,冷泉浴でも,この夏の過ごし方でも 酸化や,熱する=時間扇にあらがって,まだ果実は堅いのですよ,
そうして,抗酸化を謳っては,
”ボイルする世の中を”
逆廻り時間扇の,左回し珈琲を淹れて,あらがっているのですよ。
茜色の空には もうすぐ,もうすこしのひとさじお砂糖を許して差し上げます。

作り置きアイスコーヒー

濃い目に淹れたアイスコーヒー,保存していてその, ホットが良いと,手鍋で温めたら,またこれが美味い その訳は,やっぱり”常識=定式”。質量保存は,業の 意味でも使われると,以前とある天使論の本で読み さながら,アイスコーヒーをゴボウチップスと落雁, 合わせて頂くかのように味わいながら,その意味は ”前世ゲーム=書物の渉猟”文化の表れだとして,その 趣味は,平凡なありきたりの所に隠れてる,そのまま 奇想天外を諭さずに,またこうして,平凡な中を届ける。 計算上は,そのまま冷やしておいた方が珈琲も美味い。 けれども温めて,何故だか美味いので,こうした趣味は, ”真実はどこにあるか”ではなくって,”真実の見つけた” あの,ロマネスクの趣好雰囲気にある。常に反芻して。
”常識=定式”。ここに意図があるとすれば,”意味=浪漫”。 ロマネスクの追及を基にして。意味は,反復する中枢の, ただ集中して,ロマネスクを追及するそんな所に,解決の ”真実の見つけた”。自他同然の趣好をめぐる,WOODY。 反復する中枢に,働きかける,VISIONは他人まかせでも。 中枢は,働き続ける,中枢の思考,集中する嗜好。また, どんな所でも,浪漫的集中力は有難いので,もっての外は アイスコーヒーの渋みに,何かを加える事なのだ。氷で良。 綺麗ごとエスプリに身を任せてグルメーに 舌鼓すれば,そのアイスコーヒーの渋みは遣って来ないので, もっての外は腸活に合わない脂肪分は摂ることのないようにするべし。 このグルメーの油身は,解消される”迷うのは,子羊”。のため。 本当に考えた,ひとめぐりしてかんがえた,奇をてらったもの 奇想天外な嗜好の中には,VISIONはあってもWOODYなしの だから,温めなおした作り置きアイスコーヒーの偶然性には, ひとめぐりした旨味の拡がっているのだろう。この期待感。
アナトール・フランスのエスプリに迷ったことがあった。本当に 彷徨った。犬猿の仲のあるとすれば,ドイッチュ・シュタイナーと フランス・フランソワは,犬と猿,山と海のようなものなのだ。 簡単に考えていた,食あたりしないと思っていたのだけれども, 食べ方を間違えないように読んでいても,食傷気味である。正直に 犬=山と,猿=海のどちらも食あたりしてしまう。この感じ,なので あたらないようにグルメーのフランスを読み,無添加のように…

知性偏重の時,

太宰龍馬のオーナーシェフをしている,シェ・DAZAIは,
東照宮芥川氏がギャルソンをして,太閤漱石山人が内装を,
手がけた壮大なフェスティバルを思わせる素敵処である。
ギャルソンは菓子パンを包み,シェフの刻んだパン種で,
太閤の店構えにブーランジェリーを営む,パン屋さんでもある
だから,知性偏重の時,意味はやがて,音韻を失うだろうけど
そんな中で,やはり歴史を創世してゆく『意味の知性』。その
創世する『未来はやがて音韻を取り戻し。意味の知性は進展し。
崑崙の融通。見事に世界は,一粒の麦を開花させる。未来は。』

腸活の進んでチャクラ・ワークにまですすんでゆく。未来は,
ランチに山麓のリゾートで食事する,そんな優雅な森の匂い。また,
何処かで逢おう。これは,山麓に拡がる水脈の龍神さんの声で。
この,けっして食べる順番を間違えない,食べる順番さえ合って
いれば,腸活を間違えることは,ない。ここからチャクラ・ワーク
の始まりは黎明となって始まって,ガードの取れた精神からは,また
水脈となって龍神さんの所々に拡がる,身体自身の水源となる。

太宰龍馬のオーナーシェフをしている,シェ・DAZAIは,
東照宮芥川氏がギャルソンをして,太閤漱石山人が内装を,
手がけた壮大なフェスティバルを思わせる素敵処である。
ギャルソンは菓子パンを包み,シェフの刻んだパン種で,
太閤の店構えにブーランジェリーを営む,パン屋さんでもある
だから,知性偏重の時,意味はやがて,音韻を失うだろうけど
そんな中で,やはり歴史を創世してゆく『意味の知性』。その
創世する『未来はやがて音韻を取り戻し。意味の知性は進展し。
崑崙の融通。見事に世界は,一粒の麦を開花させる。未来は。』

だから,マウスを光学にして,さらにワイヤレスになってからは
本当にマウスはハツカネズミのように,活きいきと,恬淡として
活躍している。これは,キーボードもワイヤレスで,クジラ雲。
クジラ雲にハツカネズミの載っている。
こうして,叩き打つタップ音からは,風力や水源のよって立つ,
あの生命感はPCより湧き出て,生命源である,知性偏重の時,
poorでもweakでも,stop All the Fight,の黎明である。

太宰龍馬のオーナーシェフをしている,シェ・DAZAIは,
東照宮芥川氏がギャルソンをして,太閤漱石山人が内装を,
手がけた壮大なフェスティバルを思わせる素敵処である。
ギャルソンは菓子パンを…

キュウリとズッキーニ。

携帯の着信音が鳴っているのかと思いきや,先ほどの おやすみ伝えて寝て行った奥さんのいびきだったことに, 驚いた。相当に安心もして,疲れていたんだろう。なんて, 夕食に,ズッキーニのソテーと,キュウリの漬け物を一緒に 食卓に並べてもらって,何だか,火を通してはズッキーニ, 生食ではキュウリとゆう,夏野菜のトップ・レートにはいる, この代表格のMr&Mrs瑞々しさなんてゆう共通項に,追憶し 驚いた。暑さの中に比類なく怜悧な追究心のある涼しさに, だんだんと涼しさを増してゆく涼しさに,探求し追及する,この 怜悧な追究心のある涼しさに,だんだんと涼しさを感じながら。
比類なき涼しさ,それは腸活や,冷泉浴に似ている。比類ない, こうゆう志向を身体に持ってくると,やっぱり食の秋の訪れまで 少し休んで,背中のおできを治すようなイメージで比類ない涼しさ, キュウリとズッキーニを食べて,ただ身体に正直に冷えていたい,が 冷えているとゆう実感を持てるのも,また暑熱の抱く有限さ。貴重な この融通の効く,遥かな地球の水平線。入道雲の湧き上がる,湧き上がる あの,盆踊りの雷鳴ならすよ,お母ちゃん。イザナミの夢を見ることがある, いっつも自然の味方,次いで彼女の味方をすることのできるのは,スサノオ。 だから,自らを漱石山人のスサノオ神話に駆り立ててゆく。彼女のイザナミ。 イナダとスサノオ,アマテラスとオオクニヌシ。果てはイザナミとイザナギ。 オロチ退治だって,『オロチのようなのが女神だ』って,なりふり構わず言う。 だって,それはただしいことだから,オロチのような女神は愛すべき彼女。 オロチ退治に駆り出される酒造りのアーティスト達は,本当は求めている。 私達には無い,うぶすなの祠を。と,まあこんな嗜好を連れづれに考える,また いびきは続いている。本当に,感謝だ。そうして,僕は,冷泉浴励行。
オーガニックとゆう指向は,ルーツを求め,根をもとめ,シモーヌ・ヴェーユの また,ジョン・レノンの,そうして,マクルーハンのようなデジタル指向を産む。 そこに行っては,ゆけない。ブレイクもまたデジタルに叫び,ヴラマンクもそれで 描けなくなった。アーティストの産みだす,オーガニックとはフェミニズムを叫ぶ, スピリチュアリティ=植物性=男性主事の,アーティスト酒造りに違いないから, より叫ぶのだ。『解体してゆく文学には,絵画とWebを一体化させよ。もちろんの 事,文学にしか…

Ding-Dong鳴そう,

遊興次元に,豆乳ラテ淹れてLONDON眺める。
修道異言に,梅肉あめ舐めて崑崙融通しとおす。
情熱は氾濫して,言葉を失くし,熱源には空しく,
一日をscheduleで俯瞰するのは詰まらないので,ただ。
遊興次元に,豆乳ラテ淹れてLONDON眺める。
修道異言に,梅肉あめ舐めて崑崙融通しとおす。梅肉の
渋味は,豆乳のmildな甘みに合わさると,夏のエッキス。
情熱だ,情熱だ。繰り返す,集中力熱源。ただLONDONの
写真を眺めて,繰り返す,集中力熱源。例えば,情熱は
ヤマタノオロチの酒造りを任されて有意義に行う道すがらの
思考を客観的に見届ける,自我の第三者的な姿。私は,外周を
計ってから,すこしずつ殻を破って孵化してゆく,外側からの
『孵化は外周より起る』。ただ啜っては置く陶器。

スイカを畑で,割った。収穫期の暑さの中では,常温の貯水源。
冷泉浴と銘打って,水風呂に入る。不思議と夕暮れの西日が一番辛い。
背中にできた腫れ物は,ズッキーニの大王さんを見つけた時の記憶。
身体中が震えるとする,ふるえたとして。戻ってくるのは,愉悦。
ただ,集中力なのだ。集中力熱源。LONDONの写真集みつめながら。
遊興次元に,豆乳ラテ淹れてLONDON眺める。
修道異言に,梅肉あめ舐めて崑崙融通しとおす。
身体が貫通した時,すべては始まる。終わっているのだから,開く。
ただ,集中力熱源なのだ。すーっと,透き通して。LONDON眺める。
遊興次元に,豆乳ラテ淹れてLONDON眺める。
修道異言に,梅肉あめ舐めて崑崙融通しとおす。
『孵化は外周より起る』。ただ啜っては置く陶器。

暑さの中に何かを学ぶ,それは貫通する身体。 集中力の熱源は貫通させる。 恐い夢を見たとする。無防備だから,怖い? 夜には怪談。昼には暑熱の,なので, だから,できれば,豆乳ラテを啜る時には考えてほしい。 とめどなく流れる,あの果汁や水源には, 私たちの記憶も含まれているから, だから,記憶を贈る。 送り出す記憶の最中には,良い記憶ばかりの籠められている。 だから,そんな。そんな記憶を,ギフトとして,”贈る”。 常に繰り出される,写真や時間の技術の中には, そんな世界のアートのなかには,もちろん。 ギフトとして,贈られる”記憶”の籠められている。

遊興次元に,豆乳ラテ淹れてLONDON眺める。
修道異言に,梅肉あめ舐めて崑崙融通しとおす。

上方ヘミングウェイ,下方漱石山人。

外界の陽極,ヘミングウェイ。それと,内界の陰極,漱石山人。 それぞれが,入り混じって,僕の前世ゲーム=書物の渉猟文化は。 業の泉=混沌の中庸,太宰治に辿り着いた。信頼と安堵感を連れて, フェミニズムに特有のヒステリクスとの付き合いは,一周回して, 信頼と安堵感を連れて,業の泉=混沌の中庸,太宰治に辿り着いた。 上方ヘミングウェイ,下方漱石山人=赤葡萄酒のような,焼石のような ぐるぐると融け合って,長い間ぬけなくて,つきささっていた蜂の針。 太宰は,龍馬,今川公,九郎義経,弘法大師の影を抱いて,蜂の針。ついぞ 忘れていた,彼ら巌の神を抜きにしてはロマネスクは語れない,その中心は ついぞの元来。中心はない。芥川氏や,マクルーハン,ジョン・レノンの境域。

長い間,巌は”蜂の針”とゆう槍をかかえて, もう抜けそうにない地下道を過ぎて 漱石山人の物質身体=ヘミングウェイの精神神体, ようやくロマネスクとの再会をへて, さては弁慶=三島文学。 引いては竹千代=芥川氏。 高杉晋作=大谷崎との出逢いを含めて, 堀さん立原ロマネスクへの道程を願う。 優しさ?地球全体の願い, 感情の裏を,足の裏を掻くように, 蚤の市に文鎮の魚型した銅製を見付けては, 折り返す,太閤秀吉の倫敦塔ロマネスク。

物質体に巌の枕を抱えて眠る,その手前 寝枕には,タイプライターほろ酔いヘミングウェイ。 外側にはブランディー。内には岩窟の清水。 決定的な,薔薇のハーバル・ウォーターをのぞんで 玄関先に立っていた。身体は疼く,それぞれの精神。 ヒステリクスの抜けたロマネスクには倦怠の不安まじりに 雪は降るときになれば,身体は冷えるだろう。そうゆう 想像をしながら,冷泉浴に臨む僕の気持ちは 睨みつける義憤のそれよりもっと,高尚な共感の。 世界の業の泉を以て称する,その泉は栓のあって, 水の枯れてゆくそのときこそは,倦怠の不安まじりに 梅の実を口に含んで,豆乳を呑んで,眠って。 どんどんゆく道すがら,ひとに出逢っては, 頼むだろう,一歩だけ退いてくれないか,と。



スサノオの梅雨空に寄せて,

ウチの奥さんは,スイカの実は常温が良い。ってゆう。 確かに畑の息吹を知りたいのなら,大地の匂いは常温だから。 飴玉を噴かすようにして,ヤマモモの果汁をソーダで割ると, それはやはり,大地の匂いがするものだ。常温は到って,平温。 要するに,梅の花は,冬に咲いて,春先より芽吹いて,梅雨空梅肉。 早くも,梅ジャムなどを舐めこんで,実に五十鈴川に飛び込む気配。 お伊勢参りに,柔らかい醤油うどんと,抹茶のかき氷を頂くのを避けて, その二大珍味を頬張ることなしに還った,私のスサノオは融けてゆく。 お伊勢さんは実に霊験あらたかだ。本当に,女性的な日本,とゆうメソッド。 そんな,日本メソッドを教わった気のして,返った我が里。お伊勢さんかあ, 餡餅を喜んでたべてくれる家族をよそに,天岩戸はどこにあるのだろう? そんな不可解な気持ちで,あの霊験のあらたかさを追憶していたようだ。あっ,と ゆう間に,一週間たっていた。そうして,私は,スサノオ。漱石山人のリスペクト。
昼寝から起きて,奥さんは嬉しそうだ。またすぐに眠ってしまった。なので, もう少し,アマテラスさんと,スサノオのお話を振り返ってみよう。昨今,初夏の 勢いのある日差しのなかでは,野鳥の虫たち捕まえ啄んでいる様子も珍しくない。 鳥の喉仏は恐ろしい,こんなスサノオ。虫たちの生命は無限だ,そうしてアマテラス。 ボタニカル・アートの植物のパートナーは,植物に鳥ではなく,地球には虫の生命。 親和する地球に生命体は女性性の強みを持って今にも吹き出しそうなエゴの共鳴を, 崩しては去って,くずしては取りさって。今にも醤油うどんを頬張ることを適えて くれそう。餡餅に抹茶のみぞれなどどうして考えられようか,とも含みつつ想い,今更。 この昨今のスサノオの梅雨空に寄せて,淋しそうな翳り顔をみせる。自然とは,常に。
梅の実とヤマモモ。微炭酸ソーダとパイ・シューの冷えたものなど,スイーツに手を
伸ばしては,水風呂だけでは飽きたることを知らない,そんな開局したラジオ電波の
ような,そんな面持ちで,表情の映らない,妙なイントネーションで魅力を誘う。もう,
黎明はもうすぐなのだ。

漱石山人,あなたの私であるならば,そんなけもののような眼差しで天然自然を眺めず, きっと,それは,あなた。『剽窃した自然の生き物じみた形が,人間の鑑なのですよ。 だから,どうしたって敵うものでもないでしょう,自然は私の裡にもある。あなたの…

呼吸するスピリチャル,

日が明けては,天台の題目朝課=精神呼気=上昇より下降, 暮れて夕方は,同じく念仏晩課=精神吸気=下降より上昇の, 朝には,霊的な食事を,晩には,精神的な排泄を,それぞれ。 栄養の摂取のように,霊性にも同じく排出吸気や,摂食呼気などの, 分野が,ちゃんと呼吸しているように決められている。 けだし, 題目一座の,呼気をするのみで精神的な高みを目指す宗派もあり, 僕は,どちらかとゆうと,循環サイクルや,整理だった統合美は 性に合わないから,詰め込み詰め込み,破戒して気付くような。 そんな一般的芸術論に肩を寄せたい。情熱,情熱だ。と,言って 普段より頭の破裂しそうな抽象思考態で居るのは,もちろん。あの,
”平和”を装う,絢爛美々たる豪華な衣装に,シュタイナーの初期の
”自由の哲学”に,思想を与したいがため。その情熱,情熱だ。と,
六月の梅雨明け初夏に向けた動きの天候気候。窓を明け放し,そろ,と。
ムカデのいつの間にか,ストレッチ・ポールの間になんて挟まれている。
寝る前になってごそっと音色を感づけば,普段よりムカデ・コロリなどで
対策をしている分,ムカデ・キンチョールも我が家にはあった。
そうして,
階段まで持って降りて,シューとひと吹き。けれども,夜中にはうなされる,
うなされる。うなされるも良いところで,やっぱりそんなところでは,自然の
付き合い方とは様々だけれど,シューとした夜なんかは,情熱だ,情熱だ。
と,言って,回避する。生きているものは尊いのだし,僕も腹を括らなければ。

括り方もいろいろあるので,僕は,やはり情熱一座に掛けて,もう一心に, 危うきは君子も近寄らず。妖しさ=怪しさ=危うさにどんどん近づいて行く。 愛だ,愛だ。愛は,生きるものの情熱=危うさ=尊さだ。って,どんどん。
その”業の泉”に浸って,廻るダルマ・シールド・リンギングに鳴って,あの, 神とも,悪魔とも付かない,生命のダルマ・シールドにエンコードする,では。 情熱の行方は?天の裂け目に黎明のみえる,優しさは充満している。している? では。 思考の貫く,身体性の堅固な”果皮は,どこまで果糖を抑えられる?”リンゴの 落ちた,ニュートンの樹からは,イエスの滴血のように,リンゴ・ジュースの 溢れて止まることを知らない甘い匂いを漂わせているので。 思考の堅実な循環サイクルは,その果汁の溢れる時に,”運命”の車輪の回りだす, そんな瞬間に決められることだろう。

シンプルなコダワリ。

誰のためとも想わないで,左回しに珈琲を淹れる。この
シンプルなコダワリしか,伝わってゆかないもの。わかって
いるけど,思考が現実次元への橋渡しで,堅実な嗜好を持とう。
水風呂の半身浴をして,その思考のコダワリとゆうものと対峙して,
あのヒステリクスなシンプルさを研究してみては,”残酷”さへは,
それになってみないと,解らない。コダワリはシンプルさへ,
堅実な思考は,残酷なヒステリクスへと,嵌入してゆく。それは,
大国主にとっての天照さんのくびき。大物主にとっての卑弥呼の。
そうして,太宰にとっての芥川。今川義元については東照宮の。また,
イエスにとってのヘロデ王の。弘法大師空海にとって,伝教大師最澄の。
そして,九郎義経についての頼朝公のような,知性と体的論理もまた,
堅実思考と,知性的桎梏の間に立って,常に,橋渡しする,思考の論理は
業のヒステリクスと対峙するための,必至な理論で,不屈の態勢。

つまりは,必然の堅実な思考によって,偶然の脆弱な世界へと対峙してゆこう。 今は圧倒的に,世界のほうが神の意志を現す堅固な残酷性に映るけれども, その心眼には,きっと,もう思考の眼には映っているはずだ。脆弱な世界, これを支えてゆけるのは,堅実な思考以外にあり得ない。何らかの脆弱さを 支える,支点の要るのだから,シンプルなコダワリには,思考の支点。
思考自身でモノを言っていけば問題はないのだ,抽象思考,あるいは,また。
コダワリに具象の地下源を通り抜けて,抽象の泉へと湧き上がってきた清水の,
お茶を呑む,珈琲を淹れる,喫茶の源流はこうした,抽象思考のOwnerによる,
思考に切り裂かれた,どん帳の明るさは,舞台のOPENなのだ。思考,思考の
純粋さは古今より叫ばれて来たのに,その明るさは垣間見えた気はしなかった。
純粋抽象思考は限りなく明るく,具象の混沌とした網目を潜り抜けて,すえの
開かれた幕明けなのだ。思考の明るみ。

抽象思考だけに傾注していればよい。そうだな鯛焼きの餡は粒あんで,あの, 珈琲シロップは,ブラウンの,白い鯛焼きじゃないよ,そうゆう意味ではないの,あれ あれは,薄皮のパリパリのだよ。もちろん牛皮は這入ってないやつね。そんなことを 考えながら,牛皮は這入ってないやつね。とか,言いながら抽象思考できる訳ない。 もちろん,思考に活きるには痩身で,背筋の入った,ヨガの行者のような,容姿の 必要かもしれない。一物全体は,全体…

放心して繋がる。

洗濯モノを干すのが苦手だったのは中学時代。まさか,
自分が,放心して忘我して喜捨して,洗濯モノを干せるように,
そんな無我恬淡の大人になれるとは,想いもよらなかった。ただ,
本当は苦手なのだ。日用品作業とゆう,地道なコツコツ型の仕事。
なので,放心して繋がる。喉仏には自己と繋がる鍵の隠されている,
そうやって,ストレッチ・ポールなどを使って,センタリングする。
それだけで,黙想しているときなどは,自分に戻られるし,いまや,
目を瞑るだけで,一緒くたに全部,包括して許せるような気さえしてくる。
だから,つまるところ,放心して繋がる,この月の出の満ち欠けのような,
循環サイクルの必ずしも要るものだろうか。循環は必要なのか?朝も昼も,
夕べも深夜も,入れ換わっては,風の声も変わってくるのだろうけれど。

甘いものが欲しくなってくる。センタリングして繋がるためには,失調気味より
甘いものが欲しくなってくる。愛の感情は,砂糖からも摂れる,と聴いたけれど,
センタリングして,繋がる。これが愛なのか。攻撃的に,先鋭的な前衛芸術の中に,
むしろ,直接的な”愛の生起”する気のしていた僕は,どちらも愛だろうか,もしくは
センタリングしている,中心の温かい愛とゆうものに,健康の精神衛生をみるのだ。

センタリングしている,愛の感情と。前衛芸術の行動にみる,鋭い知性と。それは,
例えば,ひとの見えない,ある別の宇宙の人たちをみることのできる,チャネルを
もっているとして,そのチャネルをまた別次元にひねまわす。音量や,画質はむしろ
換えないで。閉塞的に,物質主事に閉じてしまうこともできるだろうけれど,チャネルは
閉じるものではない,廻すものだから,もし”電源を消す=閉じる”行為に及ぶときは,
それは,”音量=周囲の生命感”や,”画質=意味だらけの世界”に,辟易してしまった,
そうゆうときなのだろう。そうでもなかったので,チャネルを廻すことにした”彼”は,
ふいに,憑き物や,鎧の張った身体から,執着展着の瓦解してゆく様をみるのだ。

砂糖のシロップには,べとべと着いて回る,そういったアイス・コーヒーの爽やかさとの
裏表。口にしていては,熱さも感じない,酸っぱさも沁みない,けれども,また触れると
刺激物だったりするそんな砂糖のべとべとした執着のような触感は,もうすでに,表の,
爽やかな,サマー・シーズン。ターコイズされた,飴の出来上がりそうな乳白色の空…

”逃げ”のテーマ。

エスケイプとゆう言葉の”意味”の流通していた時は, 良かっただろうと。自己否定=エスケイプ。こんな, 当たり前の自己教育の忘れられた時代性。実際は,そんなに ”逃げ”のテーマに活きている訳ではないのだけれども。 意志だけ残って,無意識下の行動だけ遺る。融合したとは言え, 表現は,自由のもとでもやっぱり珈琲を呑みながらするものであるし。 限定vs.非限定を行きつ戻りつしながら,のこるものはやはり,その 表現そのものであって,無意識下の行動だったりするものだ。なので, モノづくりの思考態である時は,扇風ファンなどの音は要らないものだ。 焦るのも徳のうち。効率化は摩耗させるもの,けれども,瞬発力は一瞬。 摩耗させるより,瞬間の轟きの雷鳴のなる夜に稲光を観た。それは, 電気は停まる事を知らない回遊魚なのだから,一瞬で片を着けたい自己扇風。
床拭き掃除を毎朝の日課にしている,モップ履きの真っ二つに割れて道具を
失い,ゆるりゆるりと,水拭きのさらりさらり,道具の故障で磨けずに,
おさらい拭きをして思う。『こんなこともあるのかあ。』そうして,実家の
棚にしまってある,瞬間接着剤を見つけて拝借。モップ履きを修復した際の,
なぜだか『こんなこともあるのかあ。』道具や日常のツーリズムに必要なのでは
なくって,ひたすら,無意識下の行動に裏打ちされていたのだ。って,気づく。
何かに追われている?いやあ,感情と”逃げ”のテーマは,裏腹なのだ。だから,
過去と未来性でもあるのだけれど,エンパス指向には,思考の禁じ手も,また
結局,意志だけ残って,無意識下の行動だけ遺る。融合したとは言え,
表現は,自由のもとでもやっぱり珈琲を呑みながらするものであるし。
限定vs.非限定を行きつ戻りつしながら,のこるものはやはり,その
表現そのものであって,無意識下の行動だったりするものだ。なので,
実際は,健康状態の維持には,扇風機のファンは廻り続けるし,灼々熱々,猫の
ファンを必要としている様子を垣間見ながら,心配する,暑さには強いらしい,
けれども,暇なときに扇風機のない気配を見て取れる,自らの生き写しのような。
融合と,”逃げ”と,またエスケイプと,自己否定。そんな意志の残る,活動の源泉には,
時々に,汗かき,また内輪の茶会の心解きほぐされた感慨にはいたって時代性エスケイプ。

もちろん,猫ちゃんの涼しい夜を想っては…

人間性の過去=未来。

人間性における,過去と未来,伝統と空白虚空の,これを, 例えば,ヒステリクス。一語に置いて考える,胃腸=腺組織の 何らかの関わりを現す消化線の,あれやこれや,これを,例えば, ヒステリクス。一語に置いて考える,胃腸組織と考える脳髄のこれを, 消化=思考の嗜好態として,ひとっつにしてしまえば,一言に楽。なのでは? コーヒーを呑みながら,一服して想うのだ。やはり,栄養失調や,暑気あたり。 憔悴昏睡まぢかに,マヂか,身体の応えて,業のヒステリクスとの寄合いを, 想定内に考えて策定します。オプション,オプション,”メイデイ”のように, 囁いては消えてゆく。人間性における,過去と未来,伝統と空白虚空の,これを, 例えば,ヒステリクス。一語に置いて考える,詰まりは,逃げ切りたいのだ。 ”逃げ”をテーマに,逃げ切ることを考えては想って彷徨う。咆哮の芳香。それの 見事なる,”逃げ”をテーマに,甘藷の割下より逃げようとしている,そんな僕の ”彷徨いつつ行く”のが,”逃げ切りゲーム”の醍醐味なのか?なかなか,レースの 終らない。終わった時には,きっと,腺組織はすでに,筋肉と化して,鉄板の心を 夢に見て,レース振り返れば,逃げ切りなんてありえない,結局,そんなの嫌だ。 酔っているのか,業の泉。
答えは,愛だとも,ジョンは言ったけれど,答えは,自己同一化,きっと,”ない”から
求めるし,逃げ切りのテーマに,自己を自我より避けて,逃げ切るから,ライフはおもろい。
過去性とゆうテーマにしたって,オリジナリティは本屋さんにゆけば,ごまんとたくさん。
自己同一性?そんなの退屈だって,ジョンも言ってたじゃんか?三島文学の由縁も,
文学の消滅を想って描かれた,って論評で見詰めたし,未来性?これにミカエルの宿る,
アントロの言説にも前もって,書かれた言葉は無きにして,そんな”恒星言語”を以て。
対峙する,求める,答えを追及する,廻る惑星は空っぽの中心のない,では実践は,
行動するのは,栄養過多だから。絶食して,業のヒステリクスの浮かび上がり,それらと
アイデンティファイするようなそんな感慨には,多分もう,逃げ切りの終わる。

ROLL ROLLER HOUSE,そうだ,そうなのだ。転石苔の廻れば時間の消滅する。いっぺん なくしてみる,栄養失調が終わっても群れ為すよりも,ないほうがいい。集団性の皆無。 …

アイス・ブラックと,豆乳ラテ。

すこし酸化したコーヒーは,あまり美味しくはないけれど,
あまりは美味しくないけれど,けれど健康に,胃腸に良い。
ってゆう,持論を前から持っている。科学の進歩史観より,
眺めてみるなら,その俯瞰図には,インスタント・コーヒーの
最前線をあらわしているのだから,なので,酸化チックは良好。
けだし,あまり美味くない。ここがポイントで,酸化作用は,
上手く進んでいれば,完熟にもなるようなのだから,酸化還元,
この,微妙なスパイラルを上手く利用して,胃腸の健康回復。
リズミカルに夜には意識を失うように出来ている身体は神秘的で,
しかも一層のこと便利である。そのリズムに浸透された身体を持てば,
それはガーディアンのスピリチュアルな加護であって,その発端には,
”業の泉”冷泉浴の,あまりに恣意的で固執した自分ながらの思索ありきたり。
インスタント・コーヒーもまた然り。

美味さを求めるのか,こんな追及態度には,やはり今もって,平和観想の, 精神体安定しているなら,基本的には,世界安泰だ,とゆう視点より,やはり。 美味さより,勢いである。熱くても,熱くなくっても,勢いである。とゆう視点。 一度全部グルメに帰す,これは精神体の問題に,”精神体グルメー”ならぬ取込み。 取込みダウンロード=インストール理論の心に出来上がるのならば,あとは”業の泉”。 グルメーを楽しんで,それから,闘いの場においては,心理戦線,一所懸命の,勢いに 任せて,自らのオリジナリティ=karmaと闘うのだ。他者グルメーとkarma自己の, このアイス・ブラックと,豆乳ラテ。渋味,酸味のインスタント・コーヒーを頂けば, 必然に,ハニー・ソイ・ラテは待っている。暇なときは,もちろん,背骨を緩ませて, あ~あ,一言ぼやいては,真剣に珈琲を淹れてみよう。淹れた珈琲はどんな味わい?この,
切磋琢磨は目覚めの昼と,意識茫然の夜中の揺らぎにあって,間のあわいを漂うのは,
こうゆうblog投稿,あるいは,テレビの閲覧,ストーリー・テリングに天啓は必要?
曖昧さから求められるのは,結果的に勢いであって,生理現象の文学とは,まずもって,
色々な展開を考慮した上で,喜捨選択しながら,まずすすむ,進む,この川下りのような
川床料理には,アユの佃煮?なぜ,フェミニズムは,ムーミン・ママのように,季節の
キイチゴ・ジュースなど創られるのだろ…

魚の骨鍼灸,

『喉に魚の骨が引っかかってから,小骨のくせに抜けない,  大して気にもならないから放っていると,鍼灸院に居るみたい。  喉のなかに鍼をしているので,こんなに高級な施療はない。自然に  抜けるだろうとは思っていても。』
『女神は宇宙=惑星の気持ちを現してて,  人間=個人意識は土塊の神だ。って,自然発生が起こってからのち,  地球の女神の印字を身体に頂いて,それはこの星の証拠になるような,  そんな天然の根拠になる気のする。』 この真実味のない,正に愛情の強い,恒星の種になるような枢軸を自らに 貰って意味するのは。 身体のガチガチ滞って,ポキポキ解してゆく時に想うのは,骨身の中心性で。
文学は,生理現象ののちに偶発的に必然性の現れもあるかのように,まるで。 効果を精神的に狙って穿つようなストーリーの存在論はありえないから,伝統。 偶発的に発展してゆく流れの中のながれにおいて文化的に発声される,伝統。 生理的に起こった伝統文化は,自然の女神にふさわしく,自然発生的伝統は真実。 伝統文化は,水風呂に浴びて,掌よりの清涼飲料のような,発声的快楽。そのまま 快方に向かう,夏の夜の泉。
猿が出るのだ家の茂みには,ミステリアスな声を映画に観ながら,猿のおいでになる, 不可思議と,応接間には高機のふたっつ,追い払うのに洋間の構造は防犯組織。 模範霊となるのに洋間の燭台よりも現代のジャコメッティ。楽器を弾くのは静けさの 呪いを説くため。芸術は,しこりより産まれ,しこりより還る。強さもまた然りで, 胃腸の働きを,感じながらも。働きを強くする栄養価の芸術と結び合う時に,冷泉の 庭園に噴水をみるように,這入ってみなければ解らないが,冷静に想像するのに,
『龍の形をしたドジョウの2匹は,落ち着いて沈潜する,水温はオーラのように,泉の  温かさを保ち続いて,落ち着いて沈潜する,芸術と精神のしこりの結びつくところに,  精神家は,自然発生的に伝統文化のように発声する,精神家のしこりは”恒星の種”で,  ただ呆然として暑気あたりの開放した瞬間,いっぺん全部は宵闇に解けてゆくのだ,  コーヒーもアイスにする時には,てんさい糖シロップを加えたい。愛はアイスの蔗糖。』


JohnLennonの首飾り,

ダンテ=プルースト=フェルメール=エル・グレコ, =C.D.フリードリッヒはサタニズム分解の土星住人, God=dogを謳ったJohnLennonの精神史のようで。 ウリエルとは夏の大天使を言うらしい,夏の大天使, 炎よりも,濃緑に親い,濃緑よりも,泉に似ているから, 青いドラゴンの背中を映した版画の絵には,夏の大天使, 諧謔の外に,真面目さを抱えてはグルメする,パニーニの BLT(ベーコン・レタス・トマト)は何処まで行っても, ロマネスクにデカフェのラッテ呑んでない,クラフトのあの 職人請け合い,日常の作陶のようにお茶をしているストリート。 ストリートよりみる,冬には雪ぼこり,秋にはメイプル風の, 春にはドライな感じに,なんでだか夏の初めと終りには何もない。

ストロベリー・クランチは甘いからいつも食べない。何もないあの 夏の初めと終りの頃には,眉間にシワのバンバンジーを頼んでる。 StatueOfLiberty?そんなの知らないよ,リセットしたから憶えてない。 一度,話してしまったユーモラスな感情や,シリアスな気色の悪さなど, 自らの陽極電子のぶるぶる振動する,リセタブルな記憶は,いつか何処かへ, 記憶自体は残るものではない。宇宙図書館は客観の中に残るもので,なので。 情景賛美,放出された数学的史観は,いまだもって,活版印刷所原始デジタルの そんな印字形式に,イマジネーショナルにヴィジョン化統括されている。

極度の疲れないと眠れない,自然睡眠は気持ちのよいもので,だから。この, 笹餅の姿を過ぎて,酵素質に自然にくつろいで帰る,山麓の道すがら。そんな, 山道の匂いは崑崙融通,山脈の中を通り抜けるよりもフンワリやわらかだ。この, 今夜は,水風呂に浴びたい。そんな泉の不思議に夜にはこの,賑やかな喫茶のあとに 珈琲を呑んだ後の,酵素質の湧き水を足した感じの呑み心地の良いのか,または。あの, マヌカ・ハニーを足した山の香りの辛味のあるような喉の痛いくらいのリセット感の, あの倫敦有終,スパイス・ビューティの弁証法的存在論には,ハニー・ソイ・コナの そんなごっちゃ交ぜのハイ・インパルス,こんな今夜は,水風呂に浴びたい。 そんな泉の不思議に夜にはこの,賑やかな喫茶のあとに珈琲を呑んだ後の, 極度の疲れないと眠れない,自然睡眠は気持ちのよいもので,だから。



倫敦精神史。

『”三島由紀夫=木戸孝允=サド侯爵=マッキャベリ,  =フラ・アンジェリコ=弁慶”の師事したのは,  ”遠藤周作=勝海舟=チャールズ・ディケンズ,  J.J.ルソー=ヤーコプ・ベーメ=聖ヒルデガルド”の先達に対して,  ヤコブとメルキオール,またピラト夫妻,そして金星の住人の。』
そんな倫敦精神史を求めて,夫婦パートナーシップを目論んでいる。 遠藤周作先生の,ラ・カンパネラのような粛々と美しい鐘の音の言葉。 切支丹についての記述は,実際に修道院芸術に憧れた思春期の僕に, 痛切な程,ドキドキハラハラさせる記憶を想起させる。
コナ・コーヒー。 彼のコーヒーを淹れると,実に軽妙なバランス取れた,謎の必然性のあの 黄金律はなぜ,神秘的なのかを現すように不可思議な調和のミステリアス。 思わず,想像の内だけれど,ウーロン茶や,リンゴ果汁を足して呑みたい。 軽い,実に軽いタッチで押し迫る,こんなコーヒーは初めて。 とゆうような感慨である。
三島文学は本当に,僕にとって,僭越ながら”業の泉”そのものである。 karmaの中に沈殿している何かを同一視できる『自分』のないと,あんな ニヒリスティックな表情は浮かばない。浮かばない,にしても,美学自身は 剽窃されたかのように自然自身をそっくり映して非常にロマネスクなのだから, 水にスタイルは要らないように,映し出す鏡にもなり,被写体に容赦はない。
『”三島由紀夫=木戸孝允=サド侯爵=マッキャベリ,  =フラ・アンジェリコ=弁慶”の師事したのは,  ”遠藤周作=勝海舟=チャールズ・ディケンズ,  J.J.ルソー=ヤーコプ・ベーメ=聖ヒルデガルド”の先達に対して,  ヤコブとメルキオール,またピラト夫妻,そして金星の住人の。』
金剛杵の中心に,タイガー・アイのブレスレットを二重に巻いて,カチャカチャ, 掌に抱きかかえながら,コナ・コーヒーをくいっと頂いて,眠っていた。そのうち karmaの姿の浮かんでくる気のしたのである。『自分』の生き写しなのか,結果的には みずからの”業の泉”を日干してしまうのか,金剛杵リングは非常に”私”を覆っている。 川端先生の傍らには杵のいつも置いてあったそうである。その実,気持ちのいいくらい, 『自分』を映してくれる。泉は深いだろう。底なし沼かもしれない。けれども,杵の 写す”私”の姿と言えば,剽窃的に実に解りやすく=美しく,見事に整然と観…

業のヒステリクス。

坂本龍馬の強固な意志と酒池肉林。また,九郎義経の祈りと溜息。そうして,太宰治の理路整然とヒステリクス。そんな三位一体の柱の多面性に,苛まれ,また強靭にされてきた。強靭さ,影の論理と外より遣って来る思考態に,金剛杵とダルマ・リングで対応してはその,またはその”世界”に,自分と真理の秘密の隠されている,と聴き,妄想は真実の裏。それに鍛えられ,そうして裏の真理に照らされて,加持祈祷ならぬ悶々のた打ちまわり,念じるねんじる,曇りの晴れて,自分は晴天下,普通の真実の表”人間”だった,とはればれした顔で上を向いた。 業の泉に浸かる,そんな癖はいつごろから着いたものかはつゆ知れないのだけれど,30代に出家したり,磔に合ったりもする,そんな家出世代にはきっと,出家の煩悶や,磔刑のキリシタン・インパルスなど,特に拷問に等しくはなく,誰の,人生にとっても,明白なリアリティなのだろう,別段霧の晴れてしまえば,殊更の普通一般人間学的な方向指向性で,晴れてしまったらば,それは酩酊期のくすぶり貪婪な,妄想諸期の事なのだった。業のヒステリクスも然り。今は,酔っていても心地よく,ラズベリーのレアチーズなどたべながら,くすくす,と椅子に座ってまた,こくんこくんと,相槌ちを打ちながらヨダレを垂らしている。そんな,夢想のブータレおじさまに,多々ありましたなあ,業のヒステリクス。その桎梏の幅きかせたLONDON ONE,覗いていましたよ,あなたの更新する,業の沐浴のするようなBLOGの快新,もう見事に駄菓子屋の風鈴の音でしたな。言ってみれば,麩菓子とラムネの更新のような快進撃でしたなあ。こんな,幾多の声掛けを,未来の自分より伺いながら,そうだにゃあ,にゃあはお酒を呑みながら書いていたにゃあ。業のヒステリクスも然り。だから,業のヒステリクス。彼は,真実の人間の現実の裏だったりするのだから,それは,もう情熱を持って対処するしかないのね,なのだった。朝食を摂り,昼には汗かき,そうして夜に水風呂に浴びて,更けては涼風に当たるのだ,こうして晴れやかな人間性,業の裏を掻く数学的妄想性に捉われては,美辞麗句とも違わない文言を現しては,実際はそんな事をしなくてはいけないのか,太宰の虫歯ポーズを改変して親知らずポーズを妄言にニヤニヤしているのだった。



太陽サロン。

岡本太郎,太陽の塔,広島現代美術館の明日の神話原画,そして 芸術大学の,グノーシス主義的『泉の不思議』森と泉の香り。 ギャラリーで,TARO OKAMOTOのオベリスク彫刻作品をみて, 何故か取りつかれていたようだ。彼の中のピカソ,フィレンツェの 円屋根の記憶,寺田本家の生原酒を頂いて,わき腹に来ない,その, 表情の熱くなって,自然治癒力の快復するような,そんな心地に, 龍馬の先鋭,LONDON ONE,九郎義経のハイ・ロマネスク。 太陽サロン,RED HOUSE,ROLL ROLLER HOUSE,GOETHEANUMの メタファーを目指して,自宅をアストラの館,生命神秘の館に。この, 好趣味のように感じる,自宅変革『終わらない家』の構想計画。 外交政策に”喜び”のスパイスが必ずしも要るように,歓喜の歌から, 自由の賛歌,Freiheitの暗喩瞑想,タイスの宝箱にみるように,ほんとに 寺田本家の生原酒に平和実現のハイ・ロマネスクをみる。集合意識の 自分が変われば世界の変る,これが”幸せ”である,根本的にそうである, 根本的な酵素質改革の中に平和思想のあるような気のして,平凡の, 平凡=HEAVEN,直太朗氏の『平凡ぶる~す』の白眉一点,見事なメタファー。
民族博物館の,メタファー。民藝には,柳宗悦氏と,津和野,大山崎山荘の 島根斐川の出西作陶窯に到るまでの民藝ぶる~すは常にTARO OKAMOTOの, 原色の極彩色絵画との調合を試みて,相応する相対応するそのMINGEIismの あの源流は,上島鬼貫の俳諧や,小林一茶=漱石山人,千利休の立茶の そんな,明治文明開化の和洋折衷。僕は,勝海舟の邸宅のそうであったように, 洋椅子,立机を,畳のじゅうたんを敷いて,まさにハイ・ロマネスク・和洋折衷に みせる,あのシッポク饅頭や,豚の角煮や,ぼっけや,くぎ煮などの発展には さらに,オランダ坂のクジラのヒゲ耳かきのガラス細工と似て,軽井沢にみる, あの堀辰雄文学(”ロマネスク”は,まさに氏の専売特許であるから,)山小屋に 湧水の水辺を畔に,名水珈琲など頂いて,
江戸前の東京湾に,近江の琵琶湖川水,
京都に川床料理,ウナギの土用より,シジミ汁。肉に赤汁(ワイン),ハイ・ロマネスクの,
霧の野ばらから,湧水の泉の不思議には,コニャック=ブラック・コーヒー,酩酊ではなく,
目覚めのための…

あたりめと珈琲。

山麓で生やしたグリーン・リーフと,小キャベツの
ジューサーで砕いて,昨日のパスタ・ソースに足した。

昨日は,午前より奥さんをマッサージに連れて,
その帰りにリサイクルなどにアルミ缶や,洋服などを出しに
回って,開いてたりあいてなかったりする業者さんの,そんな
様子をぐるぐると廻転しながら通り過ぎると,そんなこんなで,
名店の油っこい,野菜つけ麺の,半チャーハンと同じく頂いて。
(一度目の)水汲みに山の麓に,ぐびぐびと過ぎてゆくと。

山麓で生やしたグリーン・リーフと,小キャベツの,そのままで
頂いてドライブにぐいっと登っていったけれど,一時間くらい,
山麓から,緑の道を走ってゆくと,『世界中の葉っぱを,全部,
口にして含めたら,きっと,グリーン・リーフの頭になるの?』,
そうやって想像しながら,リゾート群のあるペンション村のあたり
ソフトクリームを寄って,瓶牛乳も貰って,水の滴る良い車?あれ,
水のボトル・パックのCLOSED~OPENの目盛りが移り変わってる。
半分くらいこぼれてしまっているので,近くの冷泉まで近寄って。
最期は”LONG YELLOW ROAD,ROLL ROLLER ROAD”徹夜明けの
ぼやけた意識の中で,水風呂に這入って,帰宅後の仮眠を取った。

そうして昨日は,寝ていなかったので,徹夜など構わずに,父の日に
一日遅れで,贈り物をしていなかった,”トマト・クリーム・ソース”の
夢を持って,ホール・トマトと,豚のミンチと,ズッキーニ,玉ねぎ,
ニンニク・スライスを,炒めたあとホワイト・ソース缶の加えた一緒に,
すこしだけ煮込んでいた。そんな,渋みと軽い柔和の感じが,まずもって,
”あたりめと珈琲”のようなのである,酸味の分離などの注意の必要は,もう
つゆ知れず,見事な丸いミートソースなどの風合いになっていった。

スムージーのようにして,吞みたいなど想ってやったのだけれど,
緑クサいので,これはペーストなのだ,あのモッタリしたクリーミーな
ソースに加えようなど,考えて,これはくつくつコトコトするべしなのか,
塩分を足して,スパイシーにまとめていいものかどうか,どうかすると,
山麓の水の流れを,妨げてしまう予感を打ち消すようにして,霧のかかる,
心のモヤを,森の中のかすみに換えないように気を付けながら調理する。

赤鬼を追い払う,女神のヒステリクスを抱いて,調理する時間に一緒に,
共同してくれるパートナー・シップ…

あたりめの匂いは香ばしく

適応規制は,心に蓋をしていると,やがて快楽に向わせる。
忘れさせるのだ,開放するのだ,快適な居場所は無我恬淡。
良い,あたりめほど,口につまむと実に切なく香ばしく,あの
ヘッセと,マンの友情の,聖ヨゼフと聖母マリアの仲睦まじく,
次いで,アンナ聖母子,聖母の母の聖アンナの実に人間味ある。
どこからともなく藪蚊の訪れる音の聴こえて,甲板の上に立つ,
水色の縞のはいった船員になった着心地を夜の帳へ感じると,またも
良い,あたりめほど,口につまむと実に切なく香ばしく,あの
ヘッセと,マンの友情の,聖ヨゼフと聖母マリアの仲睦まじく,
あたりめを咥え続けてヘミングウェイに,あの聖アンナの母君に,
辿り着くような,着心地で,水兵さんのツルゲーネフ文聖の,また
ロマネスク,あのロシアの詩聖を辿れば,必然あたりめヘミングウェイ,
奥さんには一切れ,ひときれだけ,だと言っていたんだけど,この有様さ,

適応規制は,心に蓋をしていると,やがて快楽に向わせる。
忘れさせるのだ,開放するのだ,快適な居場所は無我恬淡。ヘミングウェイ,
では,彼の奥さんは誰なんだい?-(ひっそり,)P.ピカソだよ,ううん。
-ううん,P.ピカソ=P.ブリューゲル=A.デューラーだよ,彼らは,先進的で,
 果物を好み,伝説の巨人を演じた,(と,言って,彼はノストラダムスの姿。)

適応規制は,心に蓋をしていると,やがて快楽に向わせる。
忘れさせるのだ,開放するのだ,快適な居場所は無我恬淡。彼は,まるで。
からになった,あたりめの箱をカラカラこね回すと,そのまま階下にリンゴ果汁を。
果物の姿は,その果糖とゆうのは心に蓋をする,蓋をするのは果肉の適応規制。
一服しながら,あたりめの替りを,自らのヘミングウェイ転生譚に照らしながら,
朝ボラけてきた,小鳥のさえずりなど,グルメの一興,蓋をしなくなった快楽とゆう
こんなものもウルサいものだ。水色の水兵さん,水色だから,水兵さん。かあ,なぁ。
必然と言えば,必然なのだけれど,あたりめの匂いは香ばしく,津和野の町に西周旧宅を
訪ねた折の,秋ごろの土手道を思い起こすと,必然と言えば,必然なのだけれど,例えば
キー・ウェストの旧宅とゆうのは緑の房はみずみずしくってあまりに酵素質の豊かな,
そんで酵素質と言えば,生命の神秘は,なんでも下町気質に還してしまえばそれでいい,
から,祈りの下町,果物の下…

KARMA SPRING PHILOSOPHY,

業の泉との付き合い方は,非常にむずかしい。なので,
酩酊昏睡,業の泉を呑みほしてしまおう,思ってフラフラ,
非常に心地よくヒステリクスと踊っている夜の最中。まるで,

心技体を,『真理を語り(体),経済の希求によって(技),
女性の出産のような生産力をもとめて(心),こんな視点は,
現代のジェンダーの主問題だろう。フェミニズムは,女性の
視点より発生されたものよりも,男性の女性化なのだ。一理,
あるとはしても,懺悔,視点としては女性化よりの告解だと。
男性の,出産力=生産性の結合は,現在の主要な課題である』,と。

それが,酩酊の最中,業の泉に昏睡している夢の中で,生起さる,
龍の金神,過去の美術を護衛していれば,大黒さん=太陽の結びの,
ミカエルの戦艦,未来の放心呆然には,アマテラス=海底火山の繋がりを,
ゴールドの眩ゆさと,それの”業の泉”との付き合い方は,スキューバをして,
海中を歩く,海の住処に,薔薇の庭園は可能か計らずも捜してしまう,この
パラダイスのパラドックスを。そうして,金塊を熔かす海水のあるとしたなら,
その中にある鉱物性のミネラルは炎の暑熱に真夏の訪れを彷彿させる,MEDIA。

『夏の熱中症は,夜辺の冷水浴に救いを求められ,その涼しさは本当に,感謝の
 訳になっている。冷泉浴に救われる理由は,まず夏の訪れにあるのだから,不幸は
 幸せへの由来とも言われ,解放された,感謝の瞬間は世界の存在する根拠である』,と。
アーシング(Earth)=アイシング(Ice)は,”アマテラス=海底火山”vs.”大黒さん=太陽”を
解決する手段にもなりうるので,熱源に電磁気の多い世の中。暑熱にかき氷を口にする。
なぜ,熱源に電磁気の這入りこむ時代になったかは露知らずとも,それを体感する熟知。
アーシング(Earth)は,冷やす(Ice)ことと同義である,と言って声高に,叫ぼう。

KARMA SPRING PHILOSOPHY,業の融け合う夜辺の酩酊に,星が輝く涼風の梢の囁き,
朝目覚めれば,業と融け合うのは間違いだった,融け合いではなく,付かず離れず,その
こんなことを考えながら夜の最中に
業の泉との付き合い方は,非常にむずかしい。なので,
酩酊昏睡,業の泉を呑みほしてしまおう,思ってフラフラ,
非常に心地よくヒステリクスと踊っている夜の最中。まるで,
ヒステリクスの付き合い方は,朝と…

際限のない証左。

しずしずと曇りゆく梅雨の日の前触れには ヒステリクスも瓦解して,そのヒステリクスは 発酵菌のその逆,悪とは酵素の灰汁のことで,まず, 腐敗とは言わないまでも,嫌気的鉱物性酵素のような。 そんなハイ・ロマネスク。工業化と地下世界には,まだ, 存在しないような野菜ジュースの搾りたて生鮮食品を。その お茶を傍らに置いて,海の遠景に何を想うかと言えば,彼の 牡蠣や,アサリ類のエキスをもとめて,人間の情景を追いかけて,
しずしずと曇りゆく梅雨の日の前触れには ヒステリクスも瓦解して,そのヒステリクスは 発酵菌のその逆,悪とは酵素の灰汁のことで,まず, その灰汁のような身体の切迫する繊維質の,つまみ嗜好品の,ただ。 想い続ける,海の遠景に,潮の香りや熱い浜風よりも,そのような, 食文化にしか価値を追い求めない。人間の情景には,浜風の潮の香りも, すべて包み込む人間性の,情緒=超越性=凡庸的な何かをつなぐ,その辺の
しずしずと曇りゆく梅雨の日の前触れには ヒステリクスも瓦解して,そのヒステリクスは 発酵菌のその逆,悪とは酵素の灰汁のことで,まず, その辺にはまず,酵素質の発酵する順風な換気扇ならず送風ファンの ”時間”の過ぎてゆくその逆戻りのしない”時間”の逆戻りしないその感性。 発酵は,順次巡行のようなものであり,”腐敗=停滞”は灰汁の沈殿質の。
内部で,逆行しない”時間”を求めて,そんなハイ・ロマネスク。 工業化と地下世界には, まだ,存在しないような野菜ジュースの搾りたて生鮮食品を。 ハイ・ロマネスクは,ヒステリクスの瓦解したあとに訪れる,不可思議な 工業世界の生ジュース。紅茶,ウーロン茶,珈琲も淹れたてのいちばん良いから, 解っているから,湧き水の汲んでいる水場へ向かう週に一度の,外遊ならぬ遊行の, なので,酵素質の巡行する,海の遠景には,紺や紅の塗装のしてある,船倉のその みえれば,赤ワインの味わいを楽しめるようなダンディズムにも憶えられる。 ひたすら,だから,ダンディズム=ヒステリクスを結ぶ何かを嗜好していた, がんじがんじ,獅子のような家猫に問いかけながら,夜にはあたりめをかじる。
野菜ジュースをひと口くちにしながら家にいるときに感じる,瓦解するヒステリクス。 赤のトマトを,白のホワイト・ソースと煮込むと,ミンチは豚100%。その,また, そんなハイ・ロマネスク。工業化と地下世界には,まだ, 存…

弧を描いていた鷲。

『ちらしずしに,なすのにびたし,なすの京づけ。
 ひややっこに,すこしイクラの載っている。近頃は
 それらに添える,アサリのスープはコンソメ風味。
 自分は,夏大根をスライスして,乱切りざまに,
 コーンと焼きのりを刻んで和風サラダを足したのだけど,
 珈琲はドリップに初めて失敗して溢れさせ,しまいには
 二杯分の豆で,一杯の分量しか淹れられない始末。こうして
 ひと玉500円のスイカを丁寧にきって,並べて加えた。
 珈琲は苦く,スイカは甘いが,日常の風景にロンドンの夜警の
 駆け回る如く,僕も頭のぐるぐる回転して,おすしには,
 やはり澄ましの良いような気がして,しかし,結論は,以て
 クラムチャウダーのようなものでも良かったのだ。』だから,

R.シュタイナーの『未来にはミカエル,過去には悪龍。』とか, 『本来,カラッポな所に思考の訪れる。』のような,まさに,あの コニャックとブラック・コーヒー時代を彷彿とさせる,理解の無味 を,感じると,もうすぐ夜明ける夜警の休憩所は,森の下ではない, 床に就いた朝焼けのon the bedだろう,それまで深夜便を更かしながら 出番を待ちかねる,朝焼けのon the bedだろう,朝焼け前には子供の声。 自転車の遠鳴りの聴こえてくる,これは,夜明け前のいちばん暗い証左。
『意に介しない,そのほど,恐怖心は業の泉に浸かって滅びてしまう。  ”滅びの中に学びを。”まぼろしではない,まぼろしであったら,存在は  消えてしまう。言い換えれば,自分の感じる事,聴くこと,みるものに,  感謝と愛撫を向けずになぜ生きていられる?こんな発想で,常に,あの  湖水のほうへ一艘のボートをうけながして,迎える薄明のしどとけなし。  業の泉には,ウツボの主が待っている。昨夜は奥さん,彼に噛まれた。その  泉は,ただの池だったとおっしゃった。パラダイスの飛び出る,そんな遊興の  微細な池の波紋を呼ぶのはちょっとした,スウィッチ。もうすぐ,カラッポの  所に思考の訪れる。”彼”は,業。』
『ちらしずしに,なすのにびたし,なすの京づけ。  ひややっこに,すこしイクラの載っている。近頃は  それらに添える,アサリのスープはコンソメ風味。  自分は,夏大根をスライスして,乱切りざまに,  コーンと焼きのりを刻んで和風サラダを足したのだけど,  珈琲はドリップに…

音信浴沸々,

ソフィア=ロゴスの聖杯みたま聖母マグダラ,地球を取り巻く太陽の奥さんはコロナ。共感作用が強ければ,自然と悲喜こもごもの共苦の起こる陶然の白昼夢。昼間の共苦に我を忘れて放心呆然,これが暑気あたりならばまだしも。心魂の抜けてゆく作用だ。このゆくゆく幸せの忘我をあたえる不可思議な暑気あたりのどこ風吹く。いわゆる夜食のできる時に俄然意欲の湧いてくる多幸感は夜風吹く幸せの忘我は夜食の多幸感の方へ傾いてゆく。意味の方へは傾いてはゆかない。あくまで忘我の方を通り抜けて,黄泉還る冥暗の中には古事記のオオクニヌシ襲名や,イザナギのお帰りなさいの続いてゆく。本当にインパルスの昼間白昼夢には如何なものか音信浴沸々,何の発信源か解らず悶々と頭脳は沸騰するのだ。暑気あたり,これが暑気あたりかあ,夢の中で,ベトベトさんの訪れた時は,本当に,ベトベトさん。ショキ,ショキ。と言っていたのだ。そんな夢をみるのだけど,妖怪神話にはショキ,ショキ。とゆうのは暑気あたりと何か関係のあるのだろうか?本当に,連れ去って欲しいと言うくらい,のちのちショキは忘我を促すそんな幸せの由縁は暑気あたりから。最近はショキあたりレポートならぬ,暑かった時分の報告日記をつける習慣が付いてきそうだ。それくらい特筆に値のするショキ・レポートである。そのきっかけにまず暑気あたりに放心してしまおう,そうゆう不可思議な領域を心魂に抱いて,還ってきたときには多幸感。暑さには負けず,ショキには敗けず,ただダラダラとソフィア=ロゴスの聖杯みたま聖母マグダラ,地球を取り巻く太陽の奥さんはコロナ。共感作用が強ければ,自然と悲喜こもごもの共苦の起こる陶然の白昼夢。そう呟いてから,白昼夢を起こすのは,コロナ・ショキショキ,あのホワイト・アスパラガスのシャキシャキの中にある,繊維質フレッシュネスだと気づく。ああ,思い起こせば植物の繊維とは,本当に衣服のもとにある,皮膚やメラニンと親い素材なのだ,そうか光合成は角質異常ならぬpeeling'earthの初夏の賜物なのだ,宇宙エーテルはすぐそこまで届いてる。

勢い任せに文を描く,

時に自分の中の子供が,例えば,大人の中の子供が居て,それは”未来人”だと,詰まりインナーチャイルドはよろしく”未来人”だったとしたら。そうして,彼は何を語りだすだろう。そう一括りにしてしまえば解放系の,あるがまま語るのが良いなど思ってしまう。けど,もしインナーチャイルドが僕の中に遣って来てくれたその理由のあるとすれば,それは”破壊”の出会いを,そういった体験そのものを伝えに来たのだろう。技術革新,彼からそれを聴こうとしても,プラマイゼロだ。”破壊”の出会いを彼に訊いて,聴いているうちにみえてくるのが”発明”だ。ジーニアス,あの響きはチョコレイトの香りしかしない。珈琲エレガンスを,梅酒のツマミと共に済んで淹れられる,珈琲エレガンスを,なぜドリップすることのあれだけ金融観念に結びつくのか,さてはチョコレイト。間違えて,ココアの代わりに珈琲を吞んだ夜明けは,カフェモカの発明だ。僕は,ウーロン茶と珈琲割りでいただく,何らかのデトックスティーをイチ押ししている。病とゆう”破壊”の出会いを繰り返しているうちに,停滞するとは瓦解するための一歩手前。その崩壊のうちに学びを得るのだ。と,心得た。自己否定,彼の観念は,常に80'sまではあったとゆう,博士指向,こうしたペンは剣より強しの信念もつい世紀末まであったとゆう,そうして子供を授かったら,エンタメ体験を終えて,30半ばには,自然の安定した居場所に創作の現場を構えて欲しい,そう思うから,それがただ唯一の平和活動である,と思うから。珈琲エレガンスを,梅酒のツマミと共に済んで淹れられる,珈琲エレガンスを,なぜドリップすることのあれだけ金融観念に結びつくのか,さてはチョコレイト。軽快さは,唯救いの一歩先にすすませる遠藤周作先生は軽躁だったと聞くけれど,北先生は,うつを患ってた。北杜夫読者ではたちになるまで過ごして来た僕にとっては今さら感じる解放系軽躁軽快の体感人間にはなれないどころか,うつの考える閉鎖的自己革新清濁併呑思想に好趣味を憶えてしまっているのだから,珈琲エレガンスを,梅酒のツマミと共に済んで淹れられる,珈琲エレガンスを,なぜドリップすることのあれだけ金融観念に結びつくのか,さてはチョコレイト。静謐な瞑想空間に,珈琲を淹れるあの愉しみを憶えてしまった僕にとっては,エレガンスはその理由を問わない,思考も観察されえない,そう…

普通の慣性,

一般的な感性では,ある程度うごいてないと,心配になる身体性に。散りぬるを,テーマにあるいてゆくと,区別する慣性,普通の若干くだり坂を降りるそのペースは変わらないのだろう。業の泉に落ちてゆく耐性を必要にする,崖っぷちの心理性には,前もって用意しておいた,お茶のボトルを一気呑みほしてから,バンジーよろしく,階下にしずんでは潜ってゆく枕の重みにたえかねた,自重僭越,空調を効かせて,朝の食事もパン食にして,フルーツ・ジュースとミルクの合わした合采の天ぷら・海鮮丼・チーズフォンデュなどは夜の食事にも間に合わないくらいシビアな胃腸の暑さにうだってる。暑さ自体が御馳走なのだから,例え,宴の席のないにしても。もう,大催事の昼間っから行なわれている。太陽の晩餐。昨今早朝4時あたりからしか眠られない騒がしい夜更けよりの耳鳴りに,それは集合意識のエンパス体質による,共苦作用なのか,ただ単に物好きのエンタメ趣味なのか露ほど解らず。何が起これば,発生する雷鳴のような爽快さに瞑目できるのかさえ,宴に胃腸の調子を気にする同じく暑気あたりの自分にはサラサラ,背伸びして背伸びしても朝顔かな。こんな眠り薬に酔いは必要ないし,酔いはキライだし。もっと,ああ何にもないや。ミニマリズムに救いを求めたい。ふっと暑さに風穴の向くように,暑気あたりはスーと抜けて,意識の軽やかになる瞬間はある。そうゆう時をもとめて,僕自身,業の泉にひたる癖をやめられない性分も承知で。ヴィジョンはイマジネーション。平面静止画記憶はイメージ。こんな翻訳を試みながら,テキスタイルは数学化学式的描画にほかならず,またも,inspirationは嵌入思考で,インスピレーションは思い付き。こうして,概念思考は理性的想起の事を指しながら,自然一体化は結局の所,包みこみの事で,思いあたる,自由の哲学は,道徳的ファンタジーとゆう,画像ブロックチェーン通貨のことをCLOUD PRINTINGと対訳している。ただし,愛のほか。ことの外,愛のことを,思考と呼ぶのか,思考なのだから,心魂と言うのかまた,喜捨するセルフ・サクリファイスの他力ではないのかしらと,呟いては,氓国の志士。こんなネームの浮かんで。何だろう,セルフ・サクリファイスに打たれるとはヴェーユより,太宰より,芥川氏のサマー・ランドに麦藁帽の河童の国に往かれた,氓国の志士。テンプレート心理性に…

芸術の自然美へ,

エゴのリズムへ向かう,習慣の方へ,芸術の自然美へ,自我を開放してみて思う,眠るには忘れることだ。自然美は,酵素質のエネルギー。もちろん,いただく際には灰汁を抜いて,シロップや,陽光,風化するまでの岩塩などに漬けて食に供す。食べることにばかり,執着する訳じゃないけど。一気,犠牲思考へと向かう,開放の思弁は,もうすぐ,そうやってすすむ論理哲学の夜明けまで。なんだか無我指向の裡には酵素質の青汁の味のような知性の潜んでる。ここまで来れば,大丈夫だ。左へ,左へ行って下さい。R.シュタイナーの大戦前に遺した言葉に,再び葉緑酵素への黎明を尋ねて,阿呆だ,阿呆への道しかない,そうボヤいては風のそよぎの誘いに耳をそばだてる。本当に,緑の中心は,空っぽだ。あんなに真緑の樹の幹の中には根より水の通りみち。嵐の中には眼があるように,グリーンのさなかに無我の境のあるように,考えすぎた痕を残さないように,思考はやがて解禁されて観察され,空っぽになるまで,シロップ,陽光,岩塩などに漬けられて栄養化される。搾りたての青汁を飲んでのこす言葉はない。阿呆になって,喋る伝言も持たない。思考の本質が,天に返って,黄泉還り,再び考えだすのは解ってる。けれど,いまはエンドウごはんのように,緑の豆をがんじがんじ摘むように。緑は死の色。彼の哲人は言ったろうが,墓の色よりむしろ,果肉へ変貌させる種子へのプロセスを辿る夏日のエッキスだと思いたい。死には,変貌への先触れ。精神の死のまた色の死の命の詩の。知性への憧れではなかった,そう弁解したい。生命への憧れでも,詩人の声にそうありたいと思っていたのでも,なかったのだけれど,本当に先はみえない。命の詩には,何の結実する行末をみてとれる?それは,次の声につながる?情緒へ結び付くのか,ただ,本質のみえる一瞬を,Groundingと呼んでは,フクロウの夜鳴き耳にして,本質のみえる時には活きなければならない平坦の道は,Groundingした平坦の道は。

平熱で変温的な

サイコパスでヒステリクスに活きるとゆうより,ヨーガの行者のあるがままに無我で居たい。そんな,平熱で変温的な状態を,喜びとゆうよりも希みです。って,言いたい。ここまで来られたのはしあわせなことで。業の泉は地下まで流れ出す。世の中はうるさいかもしれないけど,矜持して常に同じ集合無意識の裡には狂人と化してましてよりすごく鋭敏なセンスをゆきたい。無我の状態でエゴイストである。不可能ではないはず。しかしながらニーチェのような末路の待っている気のしないでもない。だから,すぐさま放棄しよう。そういう恬淡さも必ずしも要らないもんでもない。無我の状態で,放心している,世界は滅びる寸前に,他力本願の光りをみいだす,そんな恬淡さも要らないもんでもないはず。いまさら殊更の,すぐにも意味の無化をする必要なし。逆さに見上げてるだから,いまさら過去の意味の重要さの否定は必要なし。ただ,もう無意味化に向けて,一歩あゆみだす。無意味の無意味化まで。バスに乗り続いてゆく麦畑は次の,終点,終点。アホウドリの無邪気さ。プロポーズの言葉は,僕のアホウドリになって下さい。僕は本当にアホウドリの本心に成り立たなきゃ。いまから,自我の開放いたします,財源は産まれて彼処の終着点に,何だか,意味の確固と確立していた思考の本魂は,この僕だった意味とは何だったのか,思考の観察される過程へ移って,僕はアホウドリの無邪気。さらば,有終の美。さらば,終着点には,アホウドリ。もうすぐ,夜があけるとしたって,無意味化された世界は,傍観者に見まもられる,そんな世界は蒙昧とした,神の国になるのだ,だから,思考の観察される無意味恬淡は。僕に,とっては。執着され得ない。忘我の終着点。

業の泉作用機序,

古本屋さんで,リチャード・バックの”かもめのジョナサン”をみつけて,帰ってくる。わたしは芥川=ヘロデ,と叫んだ心は冷徹さから外国文学のその背表紙をみて,末路の救いを抜け道ざまに通り抜ける題名。妻は,アナトール・フランス=ヘロディヤと何度も口にして居たってやっぱり業の泉には浸かっていたい。作用機序としては,エニアグラム=9つのタイプ論と酷似して,霊性パスターの捏ね上げられた,土塊にんぎょうのように精神体は形成されて産まれてくるらしい,だから,僕のテンプレートは漱石山人で,芥川やら龍馬やら,沢山の書家文人が,形成されてゆく道程に,背中にびっしり張り付いてくる。そうして,人は2度産まれる。新しいテンプレートは思春期の終わり,朱夏の始まりに当って,次々とヨーロピニアリズムとして,引っ付いて,芽が吹き出て来た。アイザック・ニュートン,僕はそのリンゴの樹をみたことのある,中学生の時より言っていた。ニコラウス・クザーヌス,修道院に非常な興味を持ち,トラピストの地は故郷。(また,R.シュタイナーの”神秘主義と現代の世界観”を,読み解いてみよう。シュタイナーの初期作だから。ラファエロの絵には,ニュートンとそっくりなロマネスクに描かれた男の作品があったな。)と,バートランド・ラッセル,彼は,マンの”魔の山”において,ハンス・カストルプにそっくり。テムズ川や,ロンドン塔の,霧のラスカル,ロジティックスにはLONDON ONEの呼称にも見紛わない,そんな業の泉の温浴を通した思索溢れる。ルイ16世は,断頭台に立った時は,すでにスカラムッシュに成り換わりパリを統べる姿にはふさわしい,サリエリの伝記のようなエスプリ詩情。いまの僕は,彼の王は,のちにマンの文学に,登場するはずのハンス・カストルプ=バートランド・ラッセルの光りをみるのだ。そうして,鮭のソロモン王は,彼が持てば,何でも妖術にみえる。熊のように,鮭を手にすれば,とば燻は,実に美味そうだ。ラッセル=ルイ16世=ニュートン=クザーヌス,彼らのルーツに,鮭のソロモンが居るとすれば,必然的に呪術性は,輪廻の姿なので。もう,手洗いはススムけれど,その先の夜食などは,気がすすまなくなった。実践できない進化とは,静けさの裡には一歩だけれど,実に細胞の曲線を描けば,これも成長して居る『急がば回れ,灯台下暗し=油ロウソクなめる化け猫の翌朝には白い仔猫』…

業の泉の上澄取り。

業の泉にさらされたいた。そこより脱け出るのには,多分
上澄みになって,差別意識の区別化まで上澄取りをしてのち
ただ,知性と体的論理の解離を試みて,そうして,普通のごく,
普通の,損得を見別られる主知主義のほうれん草の灰汁のような
そんな人間に戻れるのだ。川を見て思う,あのブイは蓮根のよう,
あるいは,自転車に乗る婦人を眺めて想う,避けて運転する注意。

業の泉にさらされていた。判りすぎるのは,白黒つけているわけでは ないその真逆で,知性より体的論理に移りすぎて,感情の溢れだしていた 例えば,お肉料理のあとの皿洗いは,フライパンなど右回しにスポンジを 回す,珈琲は左回しにしか淹れられないのに,右回しに油汚れを落とす。 その前段階の料理をいただく際にはもう,まずもってお茶の前に,油のあと その濃い食事の直後にはすぐさま珈琲を呑み込んでしまう。そうしたいのだ。 しまいには,油汚れのスポンジはゴミ箱に捨てられてしまう癖なのに,まだ。 そうやって,フライパンを洗うときには僕は,お湯を使おう,そう決めて。 そうすれば,先に油残りは落ちてゆくだろう,それからスポンジを使おう。では, お水でも十分に落ちるのは判っていながら不服だったので,あるとき,こうやって。 お水で流した相変わらずのスポンジ・ベトベトさんを,最後に少しだけスポンジだけ お湯ですすいで洗ってみたのだ。お水で流して,お湯ですすぎ洗う。これ,Best。


上澄取りされた,ほうれん草の亜鉛の灰汁のような,上澄みになりきった知性的な 人間になって,ただ,胃腸が疲れていただけだったのか。そう,気づきながら,やはり 主知主義的人間,冷徹な程の冷酷でもなくうわべだけの感情的風態でもなく,そのうち まずもって,感情には感情で対するように,知性には知性で対応できるような,そんな 涼やかな人間でありたい。そうなれば,もう僕は業の泉の管理人で,文学志向でも, 絵画専攻志望でもない政治的傾向を伴った,プロデュース型業の泉の管理人になるのだ。 それで面白いのかは解らないけれども,感情に知性で当たってゆく丸裸の青年は,やはり 腫れ物にはハレモノちっくになる由縁でもあって,知性に知性で対応しよう,今から, 空調を点けたとする必死に考えて,書物の渉猟文化を,文筆家にではなくって,論理的な 物理学者に訊ねたりする,こんな冷静な知性的文化を,冷製パス…

勿論お茶を啜って涙とする。

ようやく,冥暗部隊と陰影捜査隊の,それは, またビジネスライクとカルマ・クリーニングの, そんな。例えば,ハイデガーは,冥暗部隊の嚆矢として, 白日のもとに形而上学の雷鳴を鳴らし,薄明のドイツに, 哲学のビッグ・バンをもたらしたのだから。 白黒をはっきりCOOLに済ましてしまえば, ビジネスライクに嫌われるものだけれど,だから, カルマ・クリーニングの駆け引きに嫉妬と諧謔を交えた そんなフェミニズムのうちにあるヒステリクスのような。 その,ヘミングウェイの釣り竿には珈琲のドリップ一滴一滴しずかに。 お茶を呑んで澄ましている,食後のお風呂上がりの眠前の,また, あんな,ヘッセ=セネカ=パスカル=プラトン=ブッダ=聖フランシスコ, =ジャンヌダルク=エリザベス1世=アウグスティヌス=聖母マリア この不可思議な観照よりみ来れば,市民共同体思想によって, 操り人形のそのぬいぐるみのような気持ちのピュリティの 露わにねたみと哀切に取り巻かれた時,この時間のかかる人間臭の 洗礼を受けた際の聖性の間合いの取り方と言ったら,たぶん 嫉妬と人間臭に逢った聖家族は,そのまま業の泉と化すだろう。
それぞれに,またそれぞれの発想のある,またその各自各々の 思考態の裡にはまだまだ消化しきれないオニギリの粒ぞろいの耀いてる。 犯罪,このひと言に含まれる,情状の範囲と言ったら,まるで, オニギリの消化過程を呼ぶような,胡麻おかか,岩海苔,でんぶの姿 そのまま移したように,もう巻き寿司との区別は付かなくなってくる。 酢めし,この締めるとゆう行為にあって,眠前にて夢を見る, 眠前夢をみるさなかに,眠れたら何だって良い。いいや,何らかの スパイスを必要としているだろう,気づけばマザー・メアリー。 そばに入り来たって,慰めの哀歌を唄う。
これが,舟歌だろう?そう言って,ヘッセの影絵は, わたしがそうゆう聖母らしいWisdomをさらうなら,もういつだって。 唄うのだ,ひっそりとした波の底打つ哀歌を。 ガリラヤを近くの半島の畔を歩くバナナの皮を黒いバッグに詰め込んで。 CDウォークマンを取り出して,何を聴いていたのか,夜間行軍。 きっと,エレジカルな,繊細な恋の歌。多分,
繊細な恋の歌を聴く,身の上に,ヒステリカルな, 業の病み具合を抱えて,まさか自分のひとりサナトリウム文学志向の 一青年に落ち着くなどとお…

「楽しむ」ツール。

内と,外を結ぶ,「楽しむ」ツール。スツール掲げて,
足元に綿布団のフィットする。猫の瓶詰め倒しかけて,
スツールsetしなおせば,自然と解る,「楽しむ」ツール。
「胆汁質」とゆう気質論においての壱性格分類にあって,
本当に,胃下垂と消化不良の,「胆汁質=自我の気質」に
なって,胃下垂と消化不良の,治って閉じると,これは,
内と,外を結ぶ,「楽しむ」ツール。スツール掲げて,
足元に綿布団のフィットする。猫の瓶詰め倒しかけて,
スツールsetしなおせば,自然と解る,「楽しむ」ツール。
何かの,訪れ。がたがた,と猫の瓶詰め倒せば,自然と
それは,絶対悪ではなく,訪れそのものだと解る。その時,
お弁当をお詫びにと買って帰る佳日,畦道にモグラの出てきて
思わず,足を留める。この,佳日にあっては,すべては閉じて,
治る。この,感慨をひとしお忘れずにいることの大切な,こと。
九郎義経は夢物語の中で,道元禅師に移り変わったのでは,また,
今川義元公は,遁世の中で,織部焼の藤樹先生に換わったのでは。
太宰治は,岡潔先生の記憶に。そうして,時を跨いで,弘法大師は
妖僧文観に,イエス・キリストの,キリストへの遁世のように。
夢物語とは,本当に貴重なしかしながら強烈な叱咤のようで,また。
また,人は二度産まれる。そんな,言葉を思い返しながら,卒業の
あの二文字は,釈迦イエスの30なかばに家出する,そのプロセス。
内と,外を結ぶ,「楽しむ」ツール。スツール掲げて,
足元に綿布団のフィットする。猫の瓶詰め倒しかけて,
スツールsetしなおせば,自然と解る,「楽しむ」ツール。
「胆汁質」とゆう気質論においての壱性格分類にあって,
本当に,胃下垂と消化不良の,「胆汁質=自我の気質」に
なって,胃下垂と消化不良の,治って閉じると,これは,
内と,外を結ぶ,「楽しむ」ツール。スツール掲げて,
足元に綿布団のフィットする。猫の瓶詰め倒しかけて,
スツールsetしなおせば,自然と解る,「楽しむ」ツール。
本当は,手作りのジンジャ・エールにあの少し砂糖の固めな
沈殿をかじりつつ,手作りサイダーの,あのソーダ水には,もともと
砂糖水の味わいの着いているのではないのか?考えながら,風鈴の
お線香のブタの焼き物みつめながら,うまくはいえないけれど,そう,
あぐらを掻きつつ,キセルの代わりに,うまくはいえないけれど,あの…

InspirationALL,

Inspirationによる,”聴く”のみの無我の恬淡さでは 美味しいばかりで,グルメによって食べられるばかりの Intuitionによる『楽しむ』ことによって,心理の殻を, エンパス指向による,ムダな物質身体がなければ。その, 生存機能の適応規制は持っていってはゆけないから。この, 『楽しむ』。この故あっての完膚ない自己主義に,最終的な 居場所。殻のように身体を覆う,エンパス指向のヴェールは, 曇りの日はしずしず滴の垂れる位の心地よいような,そんな 皮膜を化して,殻にしてくれるような,エンパス指向のヴェールは, 心地よい。熱を以て,お風呂上がりに布団に囲まれて四肢の温かさに, おどけるように不安な情感の安定さの促される熱を以て,お風呂上がりに。 ヴェールのように覆った曇り空の洋服を一枚いちまい脱ぐように視界の 晴れ渡ってきたときは,未来都市に行って,田舎の一本橋を,果てのない 大きな,高架橋のように見てしまうそんな,エンパス指向のヴェールは Inspirationによる,”聴く”のみの無我の恬淡さでは 美味しいばかりで,グルメによって食べられるばかりの Intuitionによる『楽しむ』ことによって,心理の殻を, エンパス指向による,ムダな物質身体がなければ。
完膚ないエンパス指向の『楽しむ』自己主義は当たり前のことのように
ただ,集中して,嗜むように,思考の範囲を吟味するそのような趣味で。
ただ,息を抜いて遊びをさがすようなそんな心地で。どんな言葉でそれを,
『黒いサマーウールのジャケットのあるとすれば櫛で解く。珈琲を,
 ガナッシュの合わしながら,みぞれ氷とは程のとおい位置に居ること。
 湯舟に浸かって,お水のシャワーを一振りしてあがる。そんな中で,
 湧き水のあることに驚きながらお茶を沸かして,一息。』なんだ,何の
変哲もない二流仕立ての本物にはなれない,こんな自我の趣味の”一流”。
身体中の破裂する,そんな瞬間の我慢強いユーモア・ペーソスの溢れる,
ぽっかり空洞宇宙(地球)のように無我にしては,良い感じの煮つけ卵。
何かの黄味だけで良いけれど,趣味は高じて,ふぞろいの,不規則の。
その破裂する身体の,もうすぐ晴れるのならindoorの極致。

そんなindoorの極致にいたる不可思議なサイダーの味わいを夢見て。
青い色合いは,空気さえもその香りに満たして。そうだな,もうすぐ。
運筆の遅くなった,あるいは十全の結果をもた…

SomethingInspirational,IntuitionALL.

笹の葉香る六月の雨模様。美形男子の九郎義経, 捜してすすむ,クマザサの森。繁みとゆうほうが, 繁茂する笹尖塔の翳り映るのは,ロマネスクの絶海。 ヘロデ,ペトロス,ピラトゥス=芥川,堀辰雄,三島文学の。 東照宮,第六天信長,桂小五郎諸氏の行方をたずねて。 笹の葉香る六月の雨模様。美形男子の九郎義経, 捜してすすむ,クマザサの森。繁みとゆうほうが, 繁茂する笹尖塔の翳り映るのは,ロマネスクの絶海。 敵愾心を誘う何らかのしこりなど,嫌いは好きの裏返し。 夜の嵐の発端に見える,風雨の源は,もちろん生命感で, その中にオリジナリティを捜してみるとしたら, 笹の葉香る六月の雨模様。美形男子の九郎義経, 捜してすすむ,クマザサの森。繁みとゆうほうが, 繁茂する笹尖塔の翳り映るのは,ロマネスクの絶海。
広大な世界に足踏み入れる瞬間にこそ,ロマネスクの復活は みえてくる,青い花,闊歩する和洋折衷。オリジナリティを 捜して,みつけてくることのできるのは,言の葉のESSAY。 ESSAYはだから必ず美しい。眠ることのできる仕合せ,その, 次々にやってくる,未来の先触れ。不安,不安があるとしよう, その何らかの準備作業は,相手にすることは要らなくっても, 悩みは,趣味で不安は,好意で付き合っているのだから,だから。 ながれにまかせてお茶をすすり,笹巻のひとっつやふたっつを ほお張り,湯舟か暑い晩の水浴びを済ませ,そうやって,見事な 解除作用を促してきた。酵素質由来により起こることの分析解除。 アドリア海の絶海にある,尖塔の響きに合わせて,ロマネスク。 このオニキスの目玉の鎮座するような,元来のシンギュラリティ。 もともと,本来になかったものはないから,新しく赤ん坊の精神の 追体験を繰り返す,繰り返す新大陸の波濤,何も違わなくっても。 大根生姜のど飴,湧き水のJWT,お酒を避ける”White Wolf,”は 笹巻の粒子のひとつひとっつに,ノスタルジーを感じて,その, アドリア海の絶海にある,尖塔の響きに合わせて,ロマネスク。 このオニキスの目玉の鎮座するような,元来のシンギュラリティ。 和洋折衷は,しっぽく饅頭のそれよりも,クジラのひげ。新大陸, 梅雨を迎える前に,クマザサ茶や笹巻の習慣,その節には流行性の ながれにまかせてお茶をすすり,笹巻のひとっつやふたっつを ほお張り,湯舟か暑い晩の水浴びを済ませ,そうやって,見事な 解除作用を促してきた。酵素質由来によ…