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台風に連なる,珈琲の苦み。思わず,アイスに。

とんでもない様相をしてきたものである。この台風に,無力なる
人為の,嵐に対する虚脱的インドア・ステーション。虚脱的とは,
台風に連なる,珈琲の苦み。思わず,アイスに。珈琲の苦みほど
身に滲みてくる,或いは骨肉に沁みてくる。年末さながら,明日は
お蕎麦を頂きたいものである。気持ちだけでも落ち着いて,五穀の
豊穣さを追憶していたいものである。さように,スーパーは雨漏りを,
傘は骨の折れて,いつの間にやら暴風警報。思わず,落ち着いて,とは
言ってみたものの,電子書籍にて『吾輩は猫である』を手にして,嬉しく
最初のヤカンの顔にみえる,あの節は,小学生の時に目を通してさっぱり,
理解も意味も露ほど分らなかったあの時よりこんなに嬉しく触れられる,
昨今の猫ブームで更に読みやすくは,感情的に浸っていられそうな感じ。
珈琲が不味いほど苦く感じるのである。その苦みはしかし後になって旨い。
この渋さは解るまい。漱石山人にはそう言われているかのように,飄々と
語って聴かせる,イロニー・ヒューマニズムの名手にして,さながら渋い。

暴風域の中では,ほんとうの想いも筆もすすまない。身体の心理的な作用に, 非常事態の染みてきて,やっぱり流暢な言葉遊びは可能性として,それどころじゃ ない,って言われてるようなので,読書に興ずる気休めも,そろそろ,眠るように 促される。促されるのは,苦い汁を啜った後のような,感情的に渋みのある重みの そんなさながら,眠りにしたって,何だか落ち着かない。嬉しくはあるはずはないが, なぜ顫動するように,はらはらドキドキしている?こんなに,無意識に響くくらい, 台風に連なる,珈琲の苦み。思わず,アイスに。氷を六個も入れてしまって,渋味も ひややかに消えてしまうような思惑を無視して,もう無感情に親いこの感じは,何だ。 正直に,赤信号の,武者震いだ。レッドカードのチリペッパー・ビーフジャーキーだ。 何だか,パートナーの手を付けてない,軽いカフェオレさえも,手を伸ばして,一気に 呑み干してしまおう。そんな気概で,こんな時にライトな味わいはどうしたって呑めない とは。思っていたのに一番旨いのは,クリーミーな豆乳ラテの,ぐいぐい勧むこの感じ。 無理をしないでいいのだ。はらはらしたって,ドキドキしていても,軽快豆乳な感じで。 今日は,半分休止となった公民館祭の出店で,初めてのミカン…

明け方に親い,淹れるレアリズモの

現実主事,その響きは,ロマネスクより産まれた強さの証。その, 明け方に親い,淹れるレアリズモの,虫の響きに酔っぱらうよりも 安い珈琲豆の美しさの豆乳を割って頂く,淹れるレアリズモの。 強さは欲しがったわけではないのに,ロマネスクより,産まれきて, 安い珈琲豆は,何か割った方が旨いとゆうのは,アメリカーナにも 多分,割っていただく方の好きなかたは,たくさんいられると思う。 その,高躁状態にあるのが必要なのではなくって,何か描く場合, 外側への出入り口の通り抜けて,現実主事に到る道程のすくなからず 要り様とされるのであって,強靭さロマネスク=現実主事なのだった。
ちょうど,ポピュラー・ミュージックに親い,輪郭はハッキリしている それに引き換え,輪郭を凌駕して拡がる,さりげない宇宙大の表現には 大衆派のカンムリを頂戴して,さらに演繹する奉仕精神の他者への音楽。 強さは,最大の防御のようにして,他者のためにあるものなのだ,って 結果論は語るだろう。そろそろ夢をみて,忘我のスタイルよりはなれて, 独りで,前世ゲームを語り合った日々より出発してゆかなければならない。 それは,一時的なものにはせよ,強さの,とある奉仕精神の終着駅へと。 それは,強さを持つとゆうことは,ポピュラー・ミュージックのように, いっときにせよ,他者への儀礼的精神である。と,そう,思うのだった。
教えは,身近なところにある。もう,教えを請いたくはないだろう,って
自分の精神は,昔から語ってきたのだけど,そんな精神にも,そんな教えは,
身近になところにあるって,伝えてくれたポップスの,あながち嗜虐的な
放射線状を描いて響きわたる,奉仕の精神。西部劇の面白さは,つとには,
もうあまり見る機会のすくなくなった今でも,その大衆性に,ロカビリーの
素敵な,放縦な芳醇さを,聴いては反復する,手織りブランケットのゴワゴワ。

自分で,珈琲を淹れるように。お腹は,空けば何かを食べたいと感じるように。 風邪を引けばやすむように。昨日は,我流旬彩,自分で料理をしてみたのだ。 丸い手で絞ったようなコンニャクを,白菜の細切れと,ごま油&醤油&みりんで, 煮つけにして。あとは,わかめと,あごの焼きと,大根を擦って,強めの米酢で, さっぱり酢の物。それから,トマトパックと,キュウリとタコの身を,にんにく, 油をしいて,海鮮煮込み風。…

窓を開ける,お茶沸かす,かさぶた取れる。

ひさしぶりに仮眠を取ることのできた昼間の安寧。それは, いまだかつて,病の時ほど寝られず,安寧とゆうのは昼間の 仮眠にあらわれる,健康の証だと気づいた三十路の夜明けなり。 こころの調子も良いとゆう事だな,こんな感じをもって,午睡の できる精神的な調子,サードアイチャクラとゆう第六チャクラなる ものは,第三の眼と言って,松果体と関わりのある,うんぬん。 何だか,調子の悪い時,夢の中で母親が,家庭とゆうスペースシップの 船長さんで,ちょっとやつれたおじさんだった事を思いだして,そんな 夢の情報に,夢うつつの朝方には夢の現実との境の付かず,そうゆう価値観も あり,か。と,心中つぶやいた時だった。ふっと,それは松果体なのか,この 開いた感じ,ぱぁーっと,ロマネスク開いて,カラッと健やかな妄想癖より 離れるこの視界の開けた感じ。サードアイか,何かはわからないけれど,ぱあっと それは,”ひらけた”のだ。なので,風邪のクセのある咳は残るけれども,だいぶ ブリ返しよりは,距離を離して,快方に向かっている。なので,昼間の仮眠に 非常なる安寧を抱いて,ああ,これぞ昼行燈,世も平和なる証なり。自他共にある。
春菊を炒めて頂いた。ご飯を炊いて,塩昆布を加えて,昼の食卓は以上に健やか。 フライパンが,鉄鍋のようにしっかりしたモノに換わり,近くのスーパーのフェアで ポイントによって半額になるとゆうお目玉の品。ところが,家に来てみると,この 重厚感は民芸風で実にすこぶるコレクター精神に適う。青菜を,油で炒めるのが今の ところ一番旨い。ほんとうにそうなので,ご飯に乗っけて食べる。アジアの家庭料理の 一味唐辛子などを加えて頂くあの食卓にお邪魔して,ほんとうに青菜炒めのレシピを 是非教わってきたいものだ,などうそぶいてみては,面白いほど旨い,昼の青菜炒め。 窓を開ける,お茶沸かす,かさぶた取れる。病が治るとは,気の持ちようも強いのだけど それに関わらず,ほんとうに一様に平和を感じる,ホログラムは共鳴して,ぼくは平和に いま健康になる,とゆうことに,平和を感じる。銀行の振り込みなどに出掛けて,夕方の 下校中の子供たちに『こんにちわ』,あいさつ交わす。「アカシアの雨」の現代カバーを 聴きながら,現代には違いないけれど,過去の時代の何が素晴らしいって,ロマネスクの 重みの果てしない,松果体パラダイス。み…

搾乳するように珈琲を淹れる秋の日に

いよいよ堰を切ったかのように,珈琲をドリップする習慣の 再スタートで,しばらく保存してあった豆は,実際にはあまり 美味く感じられなかった。三島由紀夫のインタビューなどを, きつっと聴いていて,急に呑みたくなったし,限定的な,その 口調の良く言えばハッキリしたモノの喋り方にしても,本当に 良い面しか受け取られない,そんな夕べをシトシト降りながらの 珈琲も,搾乳するように珈琲を淹れる秋の日にと言った,そんな 感じに,一気飲みぐい呑みに,したたかに喉を通る,粗挽きの ドリップしたその苦汁の一滴一滴には,桎梏の作文作業の映る。
小説は,潮騒ほどしか実際の所,読んだことはなかった。むしろ, 触発されるのは,若きサムライのために,など人文的な論壇における 口調に到って思春期のかくあるべく触発されていたので,本当に され過ぎない程度に,書を置いて,なんだか,しっちゃかめっちゃか 動き廻っていた二十代には感謝しつつ,今となって,まだ三十代半ばの 今更サムライになれる訳もない,とゆう体力に限界を設けては,実に 電子書籍には著作権の問題なのか,ほぼ三島文学はないのであって, なので,ぼくはフラ・アンジェリコの画集や,サド侯爵の著作検索など 行きあたって君主論など探ってはみたものの,今より三島文学の面から 文芸的な,歴史著作群に思い当たる所はないはずだったので,さては 美しい星などの,最近の映像作品などを当たるか,このヨーロッパ主義の 苦汁のロマンチシズムの匂いのする,雨の日の淹れる珈琲の余韻に浸って, とにかく,神棚に三島文学を形骸的にも据えて,ぼくも精神的に復活しないと いけないのではないか?
珈琲は出口を造る。快楽物質の感受性ポイントを,少なからず開いてくれる。 美味しくない珈琲などありはせぬ,自然の象徴は人間にとっての美味の成否よりも, そこに現象化する珈琲豆の神秘そのものだ。 モカの産地は,エチオピアとイエメンの両者に渡っての生産者によるモノで, イエメン産は,あまり量販店では目にかかることのないように感じるのだけれど ドイツ的なイエメンと,フレンチなエチオピアの印象のする,そんな感じによって, エチオピアのキリスト教会遺跡群に,地下に渡って掘られた礼拝堂にて,イマジン, 祈りに徹する機会はことごとく消えた。なので,ドイツ的なイエメン産の豆によって 祈祷よりダンシングして,…

かかる調子の,トマトソースにベーコンを,

すこし調子にのってしまい,書店などを訪れた際には,喉の 乾燥して誘発したのか,咳のすこしブリ返してしまった。やっぱり すこし,この乾燥性の風邪みたいなモノは,ちょっと流行っている位, それでも,届け物があったので,片道五分位の道程を歩いて,渡すために 散歩しながらフラフラしてゆく。外の大気を吸い込んで,楽になるのはいい, 気分転換に身体も動かさなきゃなあ,そんな気持ちで歩いてみるのだけれど, 道程その道のり,意外と軽い気持ちで,帰って来ては,昨今三島文学の,その ファッションとゆうものに惹かれて,サド侯爵や,フィレンツェの光景など, あるいはフラ・アンジェリコの天使像を思い描きながら,上滑りして,業の 上にも三年,淡々と軽快な,渡り歩いて行く文学性の姿を想像しながら,遂に その切なさ,胸の痛み,茫洋とした感受性のくびきより,何か統合されるような そんな,幸せと喜びの邂逅を,僕自身の想いを連れてきては反芻する文学性の そんな最中に美味しい珈琲を,頂きたくなる,茫洋とした感受性とは,晴れる前の 霧の摩周湖,晴れる頃には本当に日本晴れの空気を漂わせて,かかる調子の, トマトソースにベーコンを,半生のチーズを加えて,酸味だけを体験する,その かっちりと,グッタリした身体の骨組みを直すような感性で,帰り道を歩いて行く。
カマンベールチーズとザクロ果汁,厚切りベーコンと完熟バナナの取り合わせなどを
イメージしては,実際はザクロのジュースを呑むだけで満足し,ベーコンはそのまま,
完熟のバナナにいたっては,まったく普通に豆乳とミックスして頂く次第,単品からも
色々な取り合わせに感じられる食材の神秘は,実際にするかどうかではない,そう何かの
物語り性を潜めて持っている。こんな食材談義を病み上がりの中でしながら,本当の
休息とは何か?を考えてすすんでゆく。散歩は良かった。歩き過ぎはキツイかも知れない
けれども,喉も変声期みたいに潰してしまってこの方,表現はこの位何気なく始められる
タブの樹の大きく実る親くの公園に行っては,上を見やりながら握り飯をほお張る気分は
家の中に滞りながらだって,感じられる。そうやって,無理にでも出かけて,今の時期は
急に冷えたりもするでしょう?おにぎりも,冷めてしまっては,美味しくないはずなので
いや,いやいや。冷めて頂くのがおにぎりとゆうものでしょう。だ…

終電間に合うように,お抹茶啜りドアを蹴る

あまりに神経質になっていたせいか,肝臓の疲れなのか,また プライドや,思考癖に潔癖症を付け加えたものも,その肝臓の 疲れによるもの,と独断に断定を加え,また終電間に合うように, お抹茶啜りドアを蹴る。揚げ煎餅か,あられなのか,あまり区別の 付かないお茶菓子を頂いて,実際にお茶を啜り,帰りに会釈して エシャロットの塩漬けなどをパリパリ噛むことを心待ちに楽しみに, パスタも細麺であれば,ツルツルとコシのある(,とゆうのか) のど越しを感じながら食べられそうだ。茹でたてのパスタの事を 想像しながら,帰途に着く。
珈琲を,病み上がりに,どうしても受けつけなくなってしまった。 多分,あまり良い豆を択んで来なかったせいであろう,そう合点は いくのだけれど,本来,情報産業のPCを点ける位なら,当然のように 行う事のできる感性にも,なかなか自動車を駆け出させて, 行楽にゆくというような気分には,悠長にも,そうして,うかうか, 言ってられないような,そんな気分なのである。
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お茶を,啜る。本来水分を摂る目的の生理欲求に親い行為のその事は,
いかに贅沢に映る,まるで小春日和,春一番の吹き荒れそうな,こんな
のどかな秋の昼間に,Wi-Fiが入ったり,はいらなくなったりしている,
端末の選択画面に構うことなしに,実は,焦燥感にあふれた我が感性も,
ちょっとは睡眠に興じてみたくもなるのである。昔は,すこし暇のあれば
スヤスヤと仮眠を執っていたものだ。けれども,実に五年くらいのこの方,
緊張感に苛まれて,なかなか,リラックスしてないのは,肝臓の疲れの,
昼に頂く,おにぎりに具を何を挟むのかさえ悩んでしまうのである,それは
美味しさへの追及か?はては,すこし眠りを誘うような,消化の心地いい
そんな具合いを目指しているのか。

脳内のはみだす勢いを,とりもなおさず快楽と称して,暴飲暴食していたのを 祟られてのことだろう,風邪を引いたのも,そういったすこしのちょっとした, 隙の空いての事で,罹ってしまったので,その脳の調整機能は,はみだすことを 躊躇して,敬遠しているようなのである,だからこそ食事が旨いので,もう, そんな空腹時以外の嗜好は,誰かと楽しむ以外にはさておいてとっておき,ある 諦めのムードといったもののなかに,ミニマルな自…

幻燈ひかるは,秋日にのぼるお茶の香り。

表現,とゆうあふれだす何かの想い,エゴイズムより,もっと
何か繊細で,吐露してしまうような,自他一体となっているような。
表現自体は,恢復期によく産まれてくるような感じで,病み上がりの
克服して,憔悴からの燃え尽きてしまった塵灰の精神からはあまりに
みずみずしい潤った表現は,発生しにくいようである。そうなので,
もう,あまり欲しなくなったアイスクリームを朝ご飯の代わりに,
それでも何か摂っておこうと口元まで持っていくと,すこし黙想する。

ヒステリックと呼べば,悩み多く感じられるとは言え,そんな尖った, いたずら心を,強気に隠しているような所は,魅力に感じるし,そして 賦活されて惹かれるし,精神的な問題にしても,そうゆう,いたいけな 悩みのほうに,悩み自体のヒステリックさの方へ,段々みちびかれてゆく。 ヒステリックな悩みとゆうもののあるとすれば,それらは,細胞分裂の豊かに 起こっている,身体の節々に,何らかの酵素などの誘発されて感じる,あの 生命力の一部を,とっさに,そうゆう風に感じているだけなのかもしれない。
相変わらずも,まだ,身体のコンディション調整は終わってないと感じるためか 珈琲を挽いてドリップするまでの習慣は戻ってはおらず,始まっていない。それで お茶を目の前に置いて,パシャパシャと,眼前の情景を写真に,撮ってみては その裡,何かに感情を加えて加工して投稿しようとゆう気で,自然に置いている。 アイスクリームをつまめば,すこし食べておかないと,くらいの前向きさは浮かんで ほんとうに不可思議である。食欲はないことは,ないこと自体の不可思議さである。 そうめんを堅めに湯掻いて,ひきわりの納豆とぶっかけで合わせて頂く。すこしの 元気は出てきそうで,なんだかほんとうに気力も萎えているのか?よくわからないほど。
ヒステリックな悩みとは,言ってみたものの,朝の外気に,樹々の囁き掛けてくるような そんな気概も,そういった,爽やかな鋭さを感じさせて,それらの尖った感じでさえも, すこし強烈に火傷してしまう点,自然が換わってしまったのか,はて,自分自身が懐疑の 精神に寄りかかって,鋭い視線を他者に向けまくってしまっているのかさえ,それ自体の よくわからないままなのだ。幻燈ひかるは,秋日にのぼるお茶の香り。月の明りでさえ, 肌の灼けることを,つい最近のお月見で知った。お茶の香…

『朝は,天台の香りして,日中は,真言の想いの届き,』

『朝は,天台の香りして,日中は,真言の想いの届き,』と, こんな一節を諳んじてみては,確かに起きた頃は女神のような と,ある種ヒステリックな情感ほども感じさせる情緒を体験して 段々,覚醒してくる毎に,業のエネルギーとでも言うのだろうか? なにかしら轟音を携えて何かの天体の廻る気のする,そんな日頃。 気にならない場合も,多々あるかもしれないが,肩の凝りのピークに 達した頃には,神経の尖って,繊細なこんな事さえ気にしてしまうのだ。 だから,何故?を繰返して,自分のオリジナリティやルーツの謎解きに 矛先を傾けて,そっちのルーツ探しに躍起になっている振りをして, その神経質な風体から逃れるようにして,潜りこんでしまう精神衛生。
ひとつは,妄想癖についても,空気が読めないなど,昨今言われた状態に, 似ている部分はあるにせよ,妄想癖によって,他者とのコミュニケーションが 計りにくくなることになってくることについては避けたいし,そうゆう自然との 息の取り合いや,コミュニケーションとは言っても,世間からの風当たりに, まったく放屁して逃げるような体裁で対処するのは止めたいとも,感じるのだ。 傷ついた心は,傷の消えるまで,覆いかぶさるように被虐する他者を必要とする, それは,感情の処理の問題で不思議な事でもなんでもないのだけれど,何故? この傷ついた心に,一瞬の自己否定の産まれて,何故?と自問したココロのあれば, それは,妄想癖はあったにせよ,空気は読めているだろう,このふたつの結び付く時, ひとのこころは,分水嶺のように,我が精神の似たところへと結びついて拡がって行く。 感情のあふれるところに,ひとに届く奔流のあれば,やはり氾濫には違いないのだ。
感情の氾濫の人に届くところには,やはり当人に返って行く,奔流の戻り道もあって, それは,ぼくにとっては,恐ろしい姿でもある。そのシステムを,伝えてあげたい。 と,常に,『幸福は,耽溺しても良いものか?』とゆう議論は平行線をたどって来た。 喜びの絶頂は避けるべきだ,脳天にまで達してしまえば,忘我を超えて,我を失って, それは,退廃を産むだろう。とは,自論であった。家族の中には,いちばん身近な者の なかに,思春期の姿でもあるのだけど,喜びを否定するなんて,おかしい。と,有頂天の 喜びを追い求める兄弟など居たのだが,やはりそれは間違いだとも…

身体の中心をすえて読む,羅生門とトロッコ

このまま,外部との連携の取れた,ちょっと風邪っぽい時の,
何も考えずにひたすら自然だけ眺めている,そんな時には珈琲を,
とも,思うのだけれど,そんな遊興に時間を費やすことよりも,
風邪を完治させていたほうがいい。そうやって,身体の中心をすえて
読む,羅生門とトロッコを,ふたつを半分にして合わせたような心地。
二十幾らかの時に,書き上げてしまっているとゆうのだから,そんな
ロマネスクを,日本の土地にしっかりと,そうして文学としてちゃんと
座らせている,彼の文体に驚きをいつも隠せず,正直には朗読のような
感じで聴き入っているのが,いちばんロマネスクの感じがして美しい。
沢蟹なんて,特にお好きでいらしったのじゃないのか?芥川先生の好物は,
東照宮の茄子の天ぷらのように,また恵比寿さんの持つ,シカと鯛のように。
すこし風邪気味である,とゆうのが猪鹿蝶の大事な所だ。元伊勢宮の籠神社に
行った時の,ごみ拾いをして天橋立で持ち帰った中に,青磁の瓶底がまじって,
それをドライブにいつも傍らに置いていたことを忘れはしない。最近には,
初めてお伊勢参りをすることのできた折,岩戸開きをしよう,しようと既には
されてしまってるじゃないか?とは念頭にありつつ,何か持って帰りたい,と
感じてはしたすらに拘泥していた神事的な感性は,我ながら忘れることは出来ない。

羅生門は,実に雨の香りのするようで,秋の感覚に以てピッタリだ。それから, トロッコは,甘露煮のようなくすぐったい匂いの夜に親づいてしてくるよう。 このふたつの作品はテーマの惨めさに比べて,情緒のある香り高さの,白眉で とっても好きなのだ。これらの感性を早くも二十代やそこらで著しているのだから, 嗜好性の早熟度は如何なものか,相当の当時にしてもはやかったのではないのか? 朗読を完全に揃えてしまって,秋の夜長でもなくって,秋雨の朝にでも聴いていたい。 早く,金柑もほお張ってみたい,とそんなことさえ考えてしまう,驟雨の朝には, やっぱり,珈琲の一杯は呑んでいて欲しいと,この願望を授かって,手挽きしながら, ゆっくり雨水で淹れるような心地で,お土産の湧き水によって,ゆっくり沸かしたい。 漢方の観点では,喉風邪などには,鍼灸を合わせて,のど飴などで,潤すことは大事と 聴いていたのだけれど,飴は用意してあったのに,ごく普通のご飯と合わせて,くだん…

複雑な人の世にあって,シンプルな答え合せ。

人の世は,難解な姿をしてはいないと言っても,とってもな 複雑形姿をしているのは確かで,それぞれの業を担っては, そこに漂う,業の芳香をかおらせているのだから,ぼくたちは とってもな謎解き以前の受容を試みるべきなのである。それは, 当然と言えばそうかもしれないけれど,ただ陶然と,それを 受け容れるのには,ある一定の覚悟を持って謎解きに挑む勢いの あって,そうなるのだろう。だから,歴史の中に,あるいは転生譚 らしき,そういった謎解きの組み合わせを拘泥しては想像するのに, 複雑な人の世にあって,シンプルな答え合せ。具体的な答えはない, とまず言い合って確認したうえで,その答えを眺めやる。そうだ, 歴史の中に,自分の組み入れる必要があると感じるのは,転生譚に 具体的にエゴを組み入れる,そういったざっくばらんな適当さに加え, 自らを業の中に放り込む,そういった,カオスのうちに揺蕩う決意の そういった楽しむ余裕のあるところに,歴史は眼前表れてくるとゆう, 複雑な人の世にあって,シンプルな答え合せ。こんな,楽しむ余裕を 与えてくれたのは,複雑系の世界ではなくって,病み上がりの孤独感。 複雑系とゆう言葉が,あるはあるにしても,やっぱりシンプルさに任せて ロゴスがロゴスを語るくらいの,筆致における,シンプルな答え合わせを 言葉上の,論理によってツジツマや動機の合うようにしておく,この同期感は きっと,文学上も必需なものであっては,理由ときっかけを把んでおく。この きっちりハッキリとしたシンプルさは,答え合わせにピッタシくるよな気のする。
業を楽しむこと,と。シンプルに答えることは,余裕めいた体力のある時ほど,
余裕を持って,遂行できるよな,そんな『何もしないでは,意味を持たない』領域より
確固たる離れて距離を置きながら,ほんとうに何もしてない,そんな時に出来る,
なので,余裕とゆうのは不可思議きわまるもので。病み上がりほど余裕めいていたり。
そうして,食欲も,発作もなく眠れる夜も,だんだんやって来て,ほんとうに良かった。
ゆっくり休める,と時間の余裕より体力的な安寧のそれを促してくれるのだから,それは
ほんとうに,余裕である。時間の使い方もだけれど,体力の配分や,睡眠の気質のような
そんな状態には気を付けないといけないなあ。と,そう思うようになってきた。

納豆たまごかけご飯は好物…

引き出しより引っ張ってくる,白紙のページにインクの滲み

何故だか非常に焦っている。焦っているとゆうのは,きっと 描きたいものがあるから書くのではなくって,何も描きたいと 思うもののないことによって書きはじめるのだ。とゆう,そんな 井戸端会議のような風体の執筆論作が始まってくることに関して, 非常に忙しくなってきた。おしゃべりだ,おしゃべりし尽くして, きっと一冊の書籍など作り上げてやろうと思っているのだ。自分の 知的作業に関して,こんなおしゃべり文学をはじめようとする自分の 突き当たっては打ち身を致し,押し入ってはコブを造って帰ってゆく, こんなことで面白いのは僕自身の何かしら,楽しみとしてではあっても ほんとうにくだらないとゆうのは明言しないまでも,そんなこんなの いつものとおり曖昧なテーマで,決して目的性のない言葉を書き連ねる。
咳風邪は,起きているときはさほど,発作的に辛くはないのだけれど, なので,楽だなぁ,と思って,動いたり手伝ったりしていると,段々と 熱っぽくなって,そうして,眠りに就くころにはゲホゲホ,とやっていた。 最近は,アイスクリームを沢山たべながら,睡眠自体の欲求があふれてきて 段々の眠りの深さを誘発してくれそうな,こんな秋の夜中の睡眠道中である。 本当に,しずかだ。落ち葉のカサカサゆう音もしない。独り夜にいる,とゆう 感じはヒシヒシとやってきて,しかしながら夜中にまで,秋の陽の燦々とした 遠赤外線の温みは,伝わってくるのだから,孤独感とゆうものは露サラとない。 だから,非常に焦っている。温みの非常に伝わってくる最中だからこその焦り。 これが,寒々とした冷温のさらには更けてゆく日常に感じられたら,どうだ? 暖かい日差しの中で,切なさも感じられ,孤独も和らぎ,刹那の印象は,まだ 美しさと懐かしさと,そうゆうロマネスクに到っても感じさせてくれるのだった。
孤独への恐れを,感じさせてくれるほど,普段は,そんなに安心しきっていたのか,
それのどうなのか,風邪は,本当に睡眠不足を続けさせて憔悴しきった感性の裡に,
段々と,睡眠欲求の普段より深く誘い出てきて,睡眠それ自体の効能で,孤独感は
ねぎらわれそうである。咳風邪をしていたら孤独を恐れ初め,睡眠欲求によって,
それは補われるのだから,到ってのそれは普通のことなのだけれど,ここでソフト・
ランディングして,睡眠欲求まで風邪が安らいでくれたことが,何より普…

懐かしさの源泉は,縁日の調べ。

急に,自己浄化しなければとゆうので,宇宙交信ばりに,妙に
念じてみたりして,すこし腰が痛くなるほど,好転現象的には
身体より何か抜けたような気はして,実は,腰痛の兆候には,
食べすぎとゆう理由もないこともないのだろうけれど,えへ,
と,自分は浄化したのだ,と言い張ってみたくなる。そうして,
懐かしさの源泉は,縁日の調べ。急激に,ノスタルジックな,
祝祭のような,その日本の祝日のような涼風が吹いたと思いながら
お気に入りの,ロカビリーと純和風をニューミュージックで割った,
そんなアルバムを聴いて,何だろう,懐かしさの源泉は,縁日の調べ。

一度,当時は,まだ”オリエンテーリング”と呼ばれていた,地図を 目安に地域をグループ遠足する小学校のイベントで,何処かの山寺に, 鐘の下でおやつを食べたことを思いだしている。そのときに落ち葉の 匂いの,なんだかとってもノスタルジックだった。中学生に移っては 季節感とゆうモノは薄れてきたはずで,その時は妙に焦ってしまって 大人にならなくッとも,その落ち葉のノスタルジーを忘れたくなくて 季節感だけは手放すまい。そう決意して邁進した,思春期なのだった。
クリスマスもそういった,ノスタルジックな経験のひとつだったけど ノベルティで貰った,チキンとセットのグラスを,嬉しくて,走って そのまま床に落として,箱から流れるグキッとしたような,割れた姿を 見た時には物質的な儚さを感じた最初の体験だったっけ。
高校卒業する位の冬休みに,雪の降る,ボタン状のゆったりとそれを見て,
部屋の内に,コウコウと,水蒸気とともに暖気を吐くストーブのなかでは
正月もちかづく辺り,ほんとうにそれもノスタルジックな経験だった。その
休み中は,ただ童話やファンタジーの,それにまつわる映画や読書をした。

落ち葉とクリスマス,それだけでも,十分にもう,祝祭であるのだから, これ以上何を望もう,として,幼少期におもちゃを買ってもらえる機会に あれもクリスマスだった。その時には,なにかの拍子で,満天の星空より 椅子がたくさん降ってくる,とゆう絵本を読み聞かせてもらって帰る途中で もし,子供を育てることが出来たなら,あの童話だけは,そうゆう雰囲気は 伝えたい,懐かしさの源泉は,縁日の調べ。それ以上に椅子の降ってくる。
あなたでしたか?と,言いながら,その縁日の調べの訪れに挨拶をして…

恬淡として糖蜜を舐める,寺の山上には夕日。

ふと,目が覚めて,次元相位とでもゆうのだろうか?何だか 今日は,はじめてこの夜にこの家で独り夜を過ごす日となって ラップ現象などの多いこの家で,もう慣れてしまったとゆうか, 自分の脳単位の,微調整のようなものは出来てしまっている,と 十分安心して過ごしてしまっていたのだが,怖い,とも,思わず なぜだか具体的には描写しづらいのだけれど,そういったちょっと した,この変位のようなものに関して楽しもうとも,思われる, それだけ胸の風邪をしたことで,『自分』とゆうものの,守るべき ”エゴ”の意識が抜けてしまっている,薄れて存在の重さは,薄れて 軽くなっていき。なんだか,ダブ・ミュージックと,クラシックの ような中間地帯の不可思議なBGMを聴きながら,そんな,時間帯に もう一度,そのラップ現象など,起こってしまったら,ぼくは嬉しく マイタケを発見した古人のように,まるでもう舞い踊ってしまいそうな そんな,ちょっとやばい時間を過ごしているのである。
そんな所にやってきても,不可思議に,「草枕」に出てきそうな,禅寺の 山寺にのぼって来たような心地になっている。日本の風情はもともとの所, やはりUFO的な,不可思議現象に対しても,寛容に好奇の眼を,もって, そうして,禅ではなくとも,踊り念仏なども,そういったラップ現象との 付き合いのなかで産まれた,非常にエキゾチックな遊戯衝動より起こったもの? なんだか,ぼくは山寺にやってきたような気分でここに居て,そうして思う, はてな?ここで,何がしたかった?そうだ,これぞ,一休さんの心地だろう。 そうして,なぞ解きを始めるのだろう。そうだ,一休の心地に非常に親い。 非常にエキゾチックな哲学的問答を始めるのだ。『幽玄のもとは何だろ?』と ”幽玄さは,恬淡として糖蜜を舐める,寺の山上には夕日。この部屋で現代は ヒップホップの山寺ロックをかなでているような,そんなラップ現象の夜明け” けれど,『淋しさと執着は何処で解きほぐれる?』といって,”その通りで, ラップ現象は,おおむね,淋しさと執着よりやってきて,恬淡として糖蜜を舐める, 寺の山上には夕日。何だか,わからぬままにアイスクリームを舐めていれば,明ける 夜も,(夜がなかったかのように,)明けるものである。からして,淋しさと執着は 朝が来れば解きほぐれる。朝のようで,あれ。そうでなくば,ア…

ある,ザクロのジュースの刻印づける記憶の跡。

トーマス・マンによる,実吉捷郎・訳の短編を紐解いて, その瞬間に,なんだかロマネスク一言では片付かない,あの ビロードのくれないに,幾層もザクロのジュースを染め付けたみたい な,そんな重さや鋭さを感じるうち,なんだか,太宰の確執は, とんと抜けて行き,そうしてその確執は人間性への追及であったのに 同じ人間性へのテーマを以ても,太宰のそれより,ある種の父親の眼で 確執を覆っているようなそんなロマネスクをトーマス・マンに感じる。 しっくり効いてきたような腑に落ちた知性を刺戟されて,僕は闘病中, 百日咳になる前に何とかカムバックしよう,と丁度ウチも一日独りに なるはずだし,電子書籍でも,紙の書籍でも手っ取り早く手に入ったものを 読んでしまおう。一度は,『トニオ・クレーゲル』を,最近は『ヴェニスに死す』 を読んだ者としては,勿論のこと実吉・訳はないにしても,『魔の山』には 取り組んでいるものの,こんな身につまされて,自分の事を指している位の 文学を提示されて(いる気分の上には)”読まない訳にはいかないだろう”。 ”この孤独”を感じる文学夜話は,どうしてか,日本の太宰と訣別する位なのだから, 何かを刻み付ける,ある,ザクロのジュースの刻印づける記憶の跡。を,提示して, その終結を,持って行きたいと思う所存なのであるが,そんなことを言っても,
何故かしら,軍服姿を映し出すマンの手法に当っては,そのベルフォールのライオン像 孤高に,勇壮な軍壁を呈して,その前に確固と鎮座まします,獅子の像に思い到り, 何か,孤高の,とゆうにふさわしい,時代背景のそんな頃だったのだろうか?勿論, マンの孤独に関しては,人一倍知らなくてはいけない奥深い記憶は沢山の犠牲の上に 傷付けられた記憶の山積しているはず。消化するとか,そういった前提の話題ではない, そうではないのだけれど,マンの背景に,なぜライオン像のような孤絶がみられる? マンは=大ゲーテ=ミケランジェロ=シェイクスピア=征服王ギョーム2世の陰影を, そのルーツ印象的にみるのだけれど,一種ぼくのなかでは伝説じみたその聖ヨゼフの翳を 殊更,文学史を眺める中でも気にしているつもりのなかったはずだった。しかしながら, 全体主観,この巨視的思考のなかで,闇に入り込んでゆくエンパス共感的指向を携えて, ようやく犯罪史などの,心理的探究の奥にある,そ…

てんさい糖の蜜を頂く,手挽き・ドリップ・豆乳のあとに

懐手に,差し込んでみたいとは思いつつ,及ぶことなしに
それでもついて行きたいと感じる,そんな精神体のあることで,
本当は,打ち上げ花火を揚げたいので,そんな想いを感じているのか?
精神体を追いかけて,廃墟をくぐり抜けて,そんなサナカに,ふっと
打ち上げ花火を連想して,なんだ,お祭りがしたいだけだったのか。
我に返って,こんなことを思うのだ。風邪を引いているので,手挽きの
珈琲豆は扱えなかった。このきついのを毎晩のんでいたための,アレルギー
だったのか,と疑いもしつつ,それは生産者的な想いでの意味ではなく,
掃除を,ただして終わった後の脱力自味た心理を,そうそう庇いもせず,
ろくに珈琲も呑ませなかった,自分への八つ当たりを,今もしている。
そうやって,凝りなども溜まっていくのだろう。
自分のなかには,お祭り好きの,欲求のあふれていることに気づいた瞬間に,
何事も自分のうちからは無くなってしまった。
無くなった,いいや,空っぽに,現つ筒抜け,解りがたい難問をクリアした後で,
風邪を引き,いつになったら,珈琲を頂けるのやら?体調と,質問を繰り返しては,
こうやって,てんさい糖の蜜を頂く,手挽き・ドリップ・豆乳のあとに
などのことなど,思い浮かべ夢みるのである。

恋心,などのことを,描いているうち,それは心の奥で,やっぱり業の在処である,
そうやって,太田治子氏の『明るい方へ』なども,もういちど紐解いてみよう。彼は,
太宰は,とは言って,歴史上”太宰”と呼ばれる,津島さんは,その,作家名の独り歩きする
現代を,どう見ているのだろうか?

虚構だな,そして上滑りしていく夢のうえにも砂上の楼閣のようだ。
だから,恋心は,それはあなた,罪悪感の名残ですよ,と言われた時には
そうゆうことも,そうゆうヴァージョンの恋心もあるだろう,
とは思いつつ,それもそう。

お祭り好きの感性を発見してよりのちの人間性は,罪悪感で惚れるとゆうことの意味が,
まるで解らなくなって。

ブンガクに惚れるのでしょう,詩情に魅惑されるのでしょう。
この方が,魅惑される分のポエジーや,どんどん惚れてゆく芸術的な文言に対して,
少々のヤッカミや,眩惑を感じたにせよ,やはり転じてそれは,魅力に映るのだから。

アイスクリームを二個も食べてニコニコしてしまう風邪ひき習慣。
習慣にしてはみっともなく,けれどももう永続性まで感じてきてし…

何かの拍子で躓く,疲れは寒さの故か,抜ける耳栓。

また,何かの拍子で,喉を傷めてしまい,安静にしよう,と
空気清浄機の横で,咳など出ないように,うずくまっていた。
これは,わりかし成功し,本当に失礼な,話しなのだけれど
堀辰雄文学の抜粋などが,身に詰まるほど,納得・共感のできる
感じのして,身につまされるとゆう方が良いらしいけれど,いまは
そんな感じのする夕べなのだった。百日咳などは,本当に辛いだろう。
とは,ある種,ひとつの呼吸器官は停止する方向へむかうのならば
そういった,筋違いの感性錯誤より,ロマネスクの偶然を計る,一種の
美しさは産まれるのであろう,そういった,確信に錯誤するロマネスク。

アイスクリームの本当に美味しい季節なのだった。甘いものは異常に旨い。
覚悟して,自分の身体性の,お役に立てない能力の一度,腹をくくって,
覚悟の上に休んでみる。やすむどころか,アイスをたしなんでいるのだ。
なにかを秋の日は伝えようとしている。網戸越しに,おサルさんか,猫か。
足音がカサカサと落ち葉にきしんで,鳴っているのだけれど,大掃除をして
気分もスッキリしたためか,今日のゴミ出しも上手くいったようだし,何とか
もう一個,二個くらいは,アイスクリームの頂けたらなあ。など,塩味のモノ
より,冷たく甘い御菓子のようなモノの欲しい。ちょっと,熱も出るのだろう。
こんな甘党ではない,と言ったのは,甘いものを欲する体質ではなかったのに
本当に欲する秋風邪の日頃。もう悠久の時間はながれていったようで,そんな
こんな時間の過ぎてゆく最中,確実に耳栓の抜けて行くような,これは,何だ?
免疫性の変化でも起こってるのだろうか?不可思議に思いながらも,この体質の
痩身化してくる,精悍にこの,何かの拍子で躓く,疲れは寒さの故か,抜ける耳栓。
おサルさんの足音もふと,ロマネスクに疲れがちに聴こえる。足取りは依存性を含み,
人間社会でなくても,おサルさんもサヴァイバルに,努力家の精神は変らずなのか?

綿を摘んで,肺病になるケースもあるようだ。そんな悲惨な,とは言いつつも,
機織り染色のケース・バイ・ケースに,それほどの衣服に携わることの強靭さは
推して知るべし,衣服によって,太陽や,雨風を防ぐのだから,あながち,それは
経験されるべき,偉大な薫陶を,衣服や染織に関して教えてくれるに違いないのだ。
こんな咳の時期を体験していたり,虚弱な身体を,より…

栗の実に文章構成はありますか?と,問われ着る夕べにはチャンチャンコの

風邪を引いて,熱や頭痛を超えて,喉の腫れに到った時,それの
発破してしまわないように気を付けながら,ある意味,この正解。
イオン式加湿器を持って来て,寝室に置いて,まわしてみると,これ
呼吸も気にならずに出来るし,あまりにすがすがしく心地よかったので
眠れたはずのタイミングも目を開いて,黙想してしまったのだった。
風邪を引くと,迷惑をかけるモノだなあ。とか,身体が重たくなるのは
これは本当に,動けなくて辛いものだ。など,普段から怠け者で重病みたく
ロマンを追ってばかりいる事のそれとは比較にならない,やっぱり風邪って
痛いほど辛さの身に滲みるものだ。なので,加湿器を持ってきた途端に,
すっかり心地よくなって,いろいろと考えていた。今となっては,耳鳴りの
諸症状なのかもしれず,解らないなりにだけれど,小学生の後半あたりから
妙にヒステリックに右の側頭部に違和感を感じ,癇癪も酷くなってきた想い
のあって,暴力性の否定とか,スピリチュアルに哲学してゆく格好良く言えば
そうゆう思春期を過ごしてきて,暴力の否定。とゆうものに,焦点を向けてきた。

狐にはわるいのだけれど,狐憑きのようなモノ?とは,言っても自分の側頭部,
そうそう客観的にもなれなかった。そうして,昨晩は,そんな想いは,たぶん,
この辺りは,遺跡地帯,弥生のイザナミ文化に対して,ぼくは縄文ヒーリング。
男性性でゆきたいためか,縄文的にゆこう,そう決意した時だった。するする,と
耳の穴の開いて,何か出たと思ったら,それは,分泌液か何かだと推測するけれども
そんな縄文ヒーリング露知らず,ロマンも逃げて,一気に先ほどの事なのだけれど,
耳鳴りの諸症状とあとで枠づけては,そうゆうヒステリーは一応の解除を申し渡された
ところなのだった。

そうして,栗の実に文章構成はありますか?いまにもチャンチャンコを着ておもてに
でそうな感じのするこのフレーズに。今となっては,文章構成なんて,まっぴらゴメン!
ロマンも,『錠門=縄文の鍵を開く唯一の,堀辰雄ロマネスク』などと謳っていた,あの
イザナミもヒステリクスも飛び去ってしまって,お見舞いのチョコ・ミントアイスを頂き
ながら,あんまり甘いものを食べすぎたけど,あとで返ってきそうなこの糖分には,でも,
そんなアイスクリームの美味しい風邪ひき珍道中だった。今更ながら,心地よく耳も抜け
眠らず…

抑制の効いた風邪を貰う,忘我の告白と俗人的シェアリズムと

あらかじめ肺にカビの生えているかのごとくに,大掃除後
アレルギーみたく風邪を引いてしまった。こうゆうときは,
熱のでている感じは,むしろ排毒をしているように思えて
心地よかったりもする。喉の消毒だけして,スポーツ飲料の
摂取と,食事はできるようにしているつもりだけれど,この
抑制の効いた風邪を貰う,忘我の告白と俗人的シェアリズムと。

忘我の告白とゆうのは,自然一体化の方針に言えるような,その
月明りに,ぼーっと,風邪に酩酊して,忘我してしまおう,とゆう
そんなつもりで使っている。
かたや,いやいや,忘れるより,自分を持とう,平和には,それが
いちばんの近道だ。など,と俗人的シェアリズムと称して,下町の
風情に,うなぎ屋の一杯を加えたようなそんな心地で,一矢想念,
これは確実に造語だろうけれど,報いるような気持ちで想い念じる。

アイスクリームをとにかく所望して,買って帰って来てもらうのは,
なぜか,フルーツやスポーツ飲料を合わせて,インドアな裡に,あの
カフェの気分を味わいたいがため。夜には鍋を用意してもらって,朝も
昼も鍋でいいので,とっても温まりながら,うずくまって眠っている。
と,あるキッチンアイテムの会員様限定半額祭りなどがしていて,今月より
キャンペーンは開始されたのだけど,ほんとうに欲しいものは沢山あって。
いいものはいい。ってゆうのは,そういったスウィーツの匂い。そうして
ゴッホ=ロベスピエール=シレジウス=カエサルの彼の系譜に僕を携えて
半ば夢見がちに自分は,ケイトウの花を彼岸花のごとく描く癖がある。そう,
調子はわるいはずなのに,気が強いようで食べ過ぎてしまって,ちょっとお腹が
痛み出した時には,実際に,焦ってしまって,すぐに寝転んで眠ってしまった。

結果的には自分はゴッホだ,と行き着いて,離見の見(とは,仏様の話らしい
のだけれど,)よろしく,自らを離れて見てみて,ああ,こんなお家に住んで
るなあ,など,発熱のためなのか,そんなこともできたりする,ゴッホの夜明け。
風邪を引いていて『自分はゴッホだ』などと想えることも,ほんとうに真面目に
風邪を引いてるようで,嬉しい。そうして,ロベスピエールのような革命家精神も
自分にはあったのか,など。シレジウスにはよく耽読させられて,瞑想詩集は濫読
していたなあ,など。足の右親指のあたりに,甲の内側には,産ま…

Mr.SOLと,LONDON ONEと,IZABERA DIVAのブギウギ

A.シュテッフェン,夏目漱石,バートランド・ラッセル

F.v.シラー,小林一茶,アイザック・ニュートン

M.エックハルト,太閤秀吉,ニコラウス・クザーヌス

Mr.SOLと,LONDON ONEと,IZABERA DIVAのブギウギは,

縁の下の偽悪者と,ロンドン者と,St.Pauloの化学の結婚。
黒い森を走らす,シラーの陰に,いつもロンドン漱石の未来を踏み, 女神のような,ディーヴァ・アイザックは,既にその神秘母性を携え
Mr.SOL=A.シュテッフェンの影に,小林一茶の影踏みは彩りを添え, 結局フェミニストに映る,そのラッセルの愛おしき,文通宣言計画。
エックハルトは偽悪者の面目を晴らすために,太閤秀吉の馬肉好きは ダンディズムの,なぜブランディー好きの葉巻好きを,クザーヌスは 対象にするの?愛の故,愛が語るの故。
風邪を,引いてしまって,コンソメスープにトロトロの豆腐を加えて, 温まる夜食を啜ってみては,千切りのオニオン,土の匂いのキャロット, キャベツの甘さなどは本当に身に滲みる。もう,昨夜の,トンテキを, ポーク・ピカタばりに,作った折の,ボイルキャベツの茹で汁だったそう。 1枚の葉野菜のエキスの身に滲みる,サナギになる蝶の幼虫の,一歩一歩は 妖精スピリットの陽の光をいろどる唯一の香り。
食欲は涌いてきているのだから,喜んで,食事に向かうかどうかは別にして, もうすぐ眠りの瞬間に就く前に,お家の大掃除も済んだその為の風邪だったか, 景気づけに,文章を認めて,歯磨きをきちんとスッキリして眠りたいがために, 掃除の終えた瞬間,描く文章は換わるだろうな,と思った。そうして,整理の 付いた部屋からは,何も昇っては来ない,地下の帝国よりも,頭頂の彼方にある 太陽の神殿にこちらから昇ってゆこう,そう思った。ディーヴァのいる,彼女は 心底,加護者で,太陽への道筋を造ってくれた。そうやって,我が道は,我が身体の 古都の秒針より産まれるものと心得て,空への虹のレシピを教わりに行く。
掃除が終わったら,獅子像の王冠を戴いたジャケット箱のタオルなど,よく見かけた。 この宇宙は,脳内に省けるものあれば,カットしてしまう世界だ。脳内宇宙はそういった 簡略化を目指すものだ。夜空にチカチカと,目眩いサインをみる時などは,そんなはずだ と言い切って,歯磨きをして,きちんと眠ろう。
存在…

糸を撚る,念じる=朝焼け

念じることは,日がたつに連れて,執念深さからは離れて
更には,すず風の感じられる頃になって,念じなくなってくる。
糸を撚る。強撚糸(きょうねんし)などとゆうが,糸を撚(よ)る。
念じることは,そのまま糸をつむぐことと同義で,あの糸車を以て,
がらがらグルグルと廻転させる,あの風車小屋のような,強風には
いくら要請されても,撚れなくなってくるのは,実態である。しかし
衣服は,強靭な,強撚糸をある程度は要求されるもの。なので,あの
衣服は,強い風や,太陽の熱射線にも耐えられる,念(撚)じ方を,
されているのである。まだ,糸をつむぐことのあるとしたら,本当に
意地でも生きて遣る。そう言って,魂の入ったように,目が覚めた時。
執着を離れて,豪奢に諦念する,そうして,ふっと,我に還った時には
また糸をつむぐのだろうか?恋をわすれて,人を想わなくなったとき,
ぼくらは”人間”になるとおもってきたのだけれど,そうやって,固形の
コンソメ出汁のように,スープに溶ける瞬間の遣って来た時には,また
芳醇な,発酵パンにも合う,秋風を日差しに融け込んで,露わにするの
だろうか?これは,念じることのテーマであるので,そうやって,撚じ
に返って来た時,いまはそれが大人風に失われそうになっている頃合いは
解らないだろうなりに言うのだけれど,”糸を撚る,念じる=朝焼け。”

ほんとうに人のことを想う,とゆうことに焦点を合わせて,考えてみる。 考えるとゆうより,思いを馳せてみる。もう,ひさしく諦めてしまった。 なにかの恐怖を入り口に,文明社会の嚆矢となることは,諦めること,と 人間真情の嚆矢となることからは離れて,いつしか,弓を弾く手になって, いつも,肩を痛めて,常には動じることのなくなってしまった。そうして, あれは”想い”だったか?すでにわすれられそうな,完全に失いそうになって 念じる,お腹の魂胆とやらを手放そうと身体のおもう瞬間,”想いの念じ”は 最期に挨拶をしに遣って来ているようだ。ほんとうに,良いのだろうか? 恋することと,執着と,人を想うことより,はなれて良いのだろうか?ぼくは もう,文明社会に酔っぱらって,”想う”ことの我執を,放念してしまいそうだ。 今日は,もう,眠るからね,さようなら。こうやって,毎日我執とお別れして いるのだろうな。そんな程度に,”想い”にお別れを言って,今日は…

かっさらうハヤテの過ごし方を見直す。

仮眠をとっての昼間に起きてみたら,とっても穏やかな目醒め。
なかなか眠られず朝を迎えて,最近の珈琲ヘビー・ローテーションの
ためなのか,とか,アレルゲンを秋日の大掃除・大整理によって,吸い
ポヤポヤとしているのか。わからず,こんな,ことを考えるのだ。

パスカル・シルレルのローザ・レッジーナ騎士道を,
ニュートン・マラルメでマグダレーナ・パウロの獅子が追う。

天の岩戸はオロチ退治と,国譲り。

空海の灌頂に,最澄は何かを感じ取ったか?

白玉の雫を,朝露とともに,口にする。

オオクニヌシに,アマテラスの憑依する,岩戸開きと

オロチ退治,国譲りによって,白玉は大地に落ちる。

忘却の薬が,蕩尽して国に帰る,放蕩息子の説話に,
天の岩戸が解除する,潮風呂の半身浴。それに,
朝の珈琲を,付け加えての,添えるクッキーには,
岩塩・全粒粉・杏子ジャム。

石切伝説には,大人の中の子供。子供のなかの大人。
遊戯衝動に,全体的主観を以て,ミクロコスモスの思惑,
すべて解放されて,太陽の光線は,放射状にコロナと化して,
熱くなくなる秋の燦々と果実の爛熟する。
収穫祭には,麦の大祭。ジャムを舐めて,ゴスペルを歌おう。

仮眠をとっての昼間に起きてみたら,とっても穏やかな目醒め。
とは,いえ。悪口を衝くわけではないのだけれど,目醒めは
突然のように遣って来た。奥さんが,彼女の妹さんを連れて,
寝間着姿の,僕が玄関を開けると,二人で並んでいる。『アッチャー。』
起きた感じは,爽やかだけれど,ちょっと動揺しながら,上機嫌で
珈琲を淹れたり,煮卵をふたっつに割ったり,マドレーヌやクッキーの
お盆に載せたりしながら,彼女たちの,妹さんの結婚式の準備とやら,
仮眠していた部屋を換気して,すこし肌寒い中を,ブランケット一枚,
着々,準備をすすめていられる。

そんなサナカでダラダラの部屋着で給仕していた僕は,判断が付かずに
寝ぼけマナコで,いろいろ動き回っていたのだけれど,このまま,妹夫婦の
ふたりと,姪っ子の娘ちゃんも,また別に誘って,一緒に焼き肉に行こう,
となったとき,ようやく髭を当たって,(実はシミの付いていた)セーターの
まだ春物に着替えて,ジャケットまで準備していた時,(そうして今は,帰宅後で)
ああ,瞬間を行為していることに楽しみを感じられる。そうして,起きっぱしでも
ここまで,時間の流れに身を…

行為することの楽しい昼間の存在咆哮

身体のコリのほぐれて,それから,右の側頭部にいつも感じて, 鬱陶しかった束縛の感じも,ほんとうに和らいで,やがて行為する, そのことの楽しい瞬間に気づくのだが,なぜかしら?執着するのは, A.シュテッフェン=F.v.シラー=M.エックハルトなどに,みられる 少年的な,狩猟本能のある薔薇のお茶にある,彼の神秘。こうゆう, 神秘的な少年性を携えてゆけば,あの,サン・ドニ大聖堂のある, モンマルトルの丘の麓には,ひとの集まる理由の解る気のする。例えば S.ヴェーユ=李白=サン・ドニ=張角(黄巾の乱)を並べてみたとして, スターリン=孟浩然=ヌルハチ=聖ベネディクトの対応して相手をして, サン・ドニにひとの集まる理由は,落葉するシモーヌ,聖トーマスの調べを 聴きながら,犠牲と,思想と,ポエジーを考えたひとの裡に何かしら宿る, あのジャム・セッションの賑やかさを感じられる故のことなのだろう,そう。 破壊衝動を極めて不整合に縫合して,自らに返ってくるように鏡の反射を こちらに向けて,対応している,そのRoseTeaStory,本来の趣味趣好の,例え 何であれ,H.ヘッセにとって,その少年的な狩猟性は,魅力に映ったのだろう。 それは,ヘッセにとっての薔薇のお茶に芳香を感じる神秘性は,何であれ,彼の 聖母的な,慈愛に映しても,やはり魅力に取れたことなのだろう。同じように ヌルハチのサン・ドニにとっての整合性も,やはり,少年性の魅力に映るような 世代を超えての,行為することの楽しい昼間の存在咆哮,そういった香り高い何か。 落葉するシモーヌに,ジャム・トーマス。モンマルトルの丘には聖トーマスの曲調。
昨今,全体性とゆうものが,浸透してきたことに,はっと気が付く。何故か,へそくりの 文化は影を潜めて,共有する経済性,シェアすることの優位性に,適材適所のシェアリズム。 そういったものに財産の価値は与えられ,経済性は全体性への道程を辿っている。その, 夢に活きる時間は,いつも独りで,しかし進歩する大人へのステップは,やはり,独りで 見つけて行くもの。なので,その趣味趣好はそれぞれであるとはいえ,いずれ夢に活きるの ならば,いっそのこと,孤独に耐えるシェアリズムは危機管理のプロフェッショナルにみる, あの孤独に独り自室にて,黙想する固執する激しい,堅実思考の探究者。それぞれの想い, 受け止…

ハイドクネヒト氏のよって立つ,崖の上の尖塔に。

夜中に,なかば変態的な習慣を以て,アラビカ豆100%の ブラジル&エチオピア豆を手挽きミルで擦って,アイスにして, (結局,欲に敗けて,業の姿でこのアラビカ豆を頂いている。) 一度,自分の幽体離脱したように,凝りもほぐれて残ったもの, ジキルクロース&ハイドクネヒト氏の対比は,いかにしてなのか, このように,白い,ピカソ=ブリューゲル=デューラーの聖マタイと それから,あの黒い,ゴッホ=ロベスピエール=シレジウス=カエサルの 聖ルカの対比による,”妄想癖”による贈り物に,一瞬の”ソレ”として。 バーンスタインと,カラヤンの,雌雄対決する,そのトランスパーソナル。 やがては,イザナミ大谷崎と,イザナギ太宰を訪れる,聖マルコ川端康成の では,聖ヨハネの誰であるかとは,クリストフ・マーロウの”ソレ”である。 いわば,アラビカ豆のことを,生産地名であると勘違いしてはいたものの, ようやく購ってみる段階にいたって,ブラジル産の銘柄と誤って認識して, そのことに気づけたことでも,勘違いも,はなはだ美しく思えるほど,ホント 実際は,記憶の筋違いは良くあることで,恥ずかしい事この上ない次第。 誰を,理想とするか?”転生譚”は,きっと,パズルのピースのようで,
多分は,歴史を振り返って,ぼくはジグゾーの組み合わせのように考えるもので,
きっと,そこには現在進行形の,偶然な千載一遇しかない,偶然の代物である,
としか言いようのない,記憶の錯そう,多次元体の体験相議,そうして偶然に,
必然の糸を加えるモノが”歴史”である。と,天邪鬼な事しか言えそうにもない。
”転生譚”の,理想を言えば,(そうゆう意味での,パズルピース合わせをして,)
カラヤン=セガンティーニ=ペスタロッチー=ヨハネス・タウラーを,子羊として,
バーンスタイン=ゴッホ=ロベスピエール=シレジウス=カエサルの,聖ルカには
”記憶の入れ換わり”作用として,そのぼくの”妄想癖”の,深夜アラビアン・ナイトの
”贈り物”とは言ってのなんのそんのなんだけれど,と言い訳でもして,一瞬の”ソレ”を
頂いたように語りたいのである。誰が,そう言おうとしても,語れない”歴史”を,その
”ストーリー”として,組み合わせて語る。それこそが”転生譚”だろう。そうゆう文化も あって良いだろう。けれども,語り部になるまでは,甚だ,以て迷惑千万なジャ…

例えば,妄想癖とゆうLOGOSの操縦士が。

妄想癖とLOGOSの関係は,飛行機を操縦するパイロットの。 LOGOSとゆう飛行機を,妄想癖さんと呼ばれる操縦士の操行に よって,転生譚から文学談義まで,前世ゲーム=書物の渉猟文化に よって,促しうながされてゆくその過程。パイロット・プロセス。 無限の中に無が含まれるような,経済活動はその無の中に潜んでる, おじいちゃんのへそくりのような。文明や,文化は,LOGOS飛行機に よって,灯りをともしながらゆく,変幻自在のUFO船体にあるのなら。
久々に書物渉猟をするのなら,宇宙文化の幕開けに文明開化の匂いは, パパ・ダイキリのヘミングウェイにあるとして,彼ら=ツルゲーネフ, =エカチェリーナ1世=ミシェル・ド・ノストラダムス=聖ニコライの 非常に獣神パンの如く,不可思議に,アヌンナキや,聖アンナの母君の, 彼らを象徴して,White Wolfと銘打っているのだけれど,そんな裏宇宙の そのもののように,家を這いずり回るヤモリの眼のような,不可思議存在。 その,サンタクロースと,クネヒト・ループレヒトの,赤(白)と=黒の, タッグを,ジーキル博士とハイド氏になぞらえて,ジキルクロースと, =ハイドクネヒトと組み合わせ。秋と冬の妄想の入り交じる季節になって, 裏=表の宇宙が入れ替わろうとしている。そんな冷静さを,取り戻す自分の 心理のあるような気のしてならない。と,書物の渉猟は,もうすこしで さながらのLOGOS操縦士になりかけた,失格訓練生の姿のようです。
最近は,ほんとうに身体のウチより,静電気の抜けていくようなパッションを 体験する。一年間位の期間を経て,ようやくそれの,胃腸の効果とは連動してる, と,いうことに気づいたのですが。すごく妄想癖とゆうか,それ裏を返せば, あのエンパス指向。この”指向性”と呼ぶのは,ずんずん突き進んで,結局の”アーシング” 彼岸より此岸へ戻ってくるとゆう,”黄泉返り”の意味で”指向性”をもっているので,そう 呼ぶのですが。そうして,昨今ようやく,右の半身に及ぶ,リンパの”凝り”という, そのリンパ液の,流れをコントロールする位,マッサージの可能になってきたのです。 急に,丁寧語ですが,とゆうところで,ほんとうに,”妄想癖”と呼ばれるものは,この ”LOGOSの使い手”としての必須たるべき体質,そして,その凝りというものが, どれほどの意…

珈琲による多幸感,その仕合せとは。

今夜は,ある送り迎えとともに,時間のあって,成分表示に ”アイスクリーム”とある,消化不良に効く高級なチョコバーか, そうして,生産者に気を付けなければならないと,言いながら 今日は,アイスコーヒーをコンビニで購ってしまった。まずは ドリップをイチから機械がしていることに改めて驚き,そして, 手造りのよさはままあれど,こうして,文明の改新とゆうのは, すごいのだなあ,まずもって,フットワークが軽すぎるようで。
それで,逐一かんがえる。副作用と呼ばれるものが,例えばだけど 出汁や調味料に現れることのあるとして,そうゆうものの最たる 現象は,肉食であるとはおもわれるのだけれど,そういった,あの 副作用を,すべて循環させることはできないのだろうか?これは, 健康と呼ばれることにすべて関わってくる。石けんの発明。あれも 灰ガラの,ナイル川に羊の脂と交わって,そこに水浴びすると,あら 身体の汚れがよく落ちると言った,曖昧な記憶だけれども,なんか, そういった効能は,副作用を循環させる発明と親い,と感じるのだ。
そうして,ひとつには,珈琲による多幸感,その仕合せとは。と, して,今夜は,ある送り迎えとともに,時間のあって,どれかしら なにか不思議なファンタジーを感じた。このあたりは,古来よりの UFOメッカと言われているようなのだけれど,改めて驚きの,休憩で 山中を走っていると,車窓よりピカピカみえるので,なにかの自然な 発光現象位に,さして不安も感じない,なにか非常にメルヘンなのだ。
『珈琲豆も択べないと購えない。書店にも”道楽だ”と立ち寄られない』ので, 結果,どんな立ち位置ならば自分のチャンネルは選べるのだ?と,探り あぐねているサナカのことだったから,つまり,コンビニのコーヒー。
UFOドライヴ,そうして,珈琲による多幸感,その仕合せとは。なので, もうすぐ,クリスマスも準備していかなきゃならない,杉の樹,モミジ, ハッピー・クリスマスは,戦争のない,闘いを終える歌だったけれども,
そうして,やっぱりドーパミンのない世界へと向かっている?
ぼくは,諦めや,さようなら,を”喜び”にむかって伝える中で,
『追い求めることを離れて』向かう先は,どこなのだろう?

チャンネル択びは,つとに重要。 それだけは,力説したい自己弁護,珈琲による多幸感,その仕合せとは。

けだし,五本…

強靭な温かさ,その踊るテンポの。

表現するとゆうのは,ロゴスを造りだすこと。みんな, 何かを練り上げて発表するところに,ロゴスの誕生を, いたるところ,生命現象の産まれる強靭な温かさ,その 踊るテンポの。夜間に甘いものを欲する癖が付いていて, それに反して,ぼくはすべてを諦める癖を自分に見出す, 美味しそうな豆があるなあ,ブラジル&エチオピアかあ, 挽き立てならば,この感じは直感的に,絶対に美味い。 そう,感じているのにブラジルのほうはちょっと,搾取の (いいや,すべては搾取ならば,全てはインチキ,太宰曰く) なんだか辛い匂いのするような気のする。結果の所は諦めた。 珈琲はウチの温帯地域の文化には元々なかったじゃないか? 諦めが付かず,行為としては,たまに良い豆を手にして頂く, この貴重さの珈琲である,とゆう認識にもとづいて,ぼくは, もう追及して求めるところにはなし,きっと,ダーウィンの 進化論曰くの,首狩り人種より,諦めの宇宙民的人種になった? 結局,攻撃性より,敗北感に美を求めるあたり,これは,至って 普通のことならば,集団性と,都市化する民族性を進んで持って このままありのまま,蟻化してゆく民族なれば,ありていには, きっともうそのままの,エゴの抜けたサナギより蝶の誕生をみた, とゆうことにしておきたい。強靭な温かさは,エゴの抜けた蝶の, あの,立派な羽の色をした蝶の,そのロゴスの姿であり,そのなか には,攻撃性は含まれず,彼らは待って獲るスパイダーにあらず, そうして,堅牢な姿をした,野鳥の捕食反応にもあらず,なので ぼくらは,珈琲を呑むより(それは”豆の選択肢”をより選択する。) 甘いものを摂ろうと試みた。それさえも,天然の成分の飴をなめる。 それによって,なんだか不足している自分の,そういった気分の, 何らかの欠陥部分を,諦められそうなのだ。この先になにがあるのか, 先進性を求めず,先進的であることを諦める事こそ,先進性ならば, その先になにが待っているか,その先になにが待っているかを,待つ その姿の,スパイダーならば,待つことさえも,無意味なのだから。
しかしながら,ロゴスである蝶は,強靭な温かさ,その踊るテンポの。 甘い蜜をさがしてヒラヒラ舞わなければ,いいや,舞うようにしながら 風にまかせて,気分にまかせてヒラヒラしながら,甘い蜜をさがして 求めるのではなく。待つのでもなく。…

秋の日に,拘る太陽神ラー。

秋の日を,受け容れて愛でている自分が居たのか,と半ば 気づかずにも,陶酔していたのに関わらず,秋のあたたかさ, この太陽の造りだす,あたたかなポカポカには,どうも拒否の 気持ちを持ってしまうのだと感じ,秋の日の太陽とは何者か? と,悪者をさぐるかのように,秋の日の太陽を,集中力探検。 宇宙船か何かを調査するような心地で,太陽の正体を見付けて, それは,その悪者の太陽は,自分の中にある,身体の一部の何か, そうだと気づいた行く末は,秋の日に,拘る太陽神ラー。やはり, 秋ののどかさに安心しきらない自分の不安は,神経症に親い身体の 凝りのようなものの原因によって,ぼくはその不安を取り除こう,と きっと不安はなくなれば,必要以上にのどかな秋を感じなくなるのだ, だから,季節感とゆうモノは,必要以上に世界を感じすぎること,で 幸せの前兆に,世界全体に融けだしてゆく依存する世界への宥和状態で。 世界観,季節感より離れてゆこうとする,きっかけに,この,秋の日の 秋の日に,拘る太陽神ラー。幸せを,悪者だ,と。思っていたのか? 感じすぎる心には,解ることは悪だから。
工業的に,計算ずくで,PCに向かって工業思想デザインをしてゆく工程に,
優しさや,多感さ,幸せなど,要らないもの?普通であれば,要らないのだ。
この,普通は,わかりすぎる感性と比べれば,それに対して非常に,強靭で。
しなやかにしなる,アルミ製の竿を思い浮かべてもらえれば,それは鋭利で,
つめたい印象を与えはしても,美しく,無感情に照明を映し,そうして静か。
堅実とゆうより,堅牢。硬質のパスタのように,粉っぽく。すると,どこより
お茶を運んできて,持って帰ってゆく以前のぼくのような柔らかさは,いまは
もう,どこにもない。工業デザインに,人の姿はないように見える,けれども
工業=人の結ばれた世界は,気丈に,無感情にはない,爽やかさを持っている。
なにかを求めている,アルミ製の工業製品に,マットなツヤをみた時に感じた,
あの工業性の匂いの安心感。それは,依存しない強さ。優しさより,爽やかさ。
秋の日は,太陽神ラーにおいて,造りだされて,疑われて,また消化されては
循環してゆかれる,自然の生命的な発酵循環過程を,繰り返してゆくのならば
それを嫌った,ぼくの感性は,ようやく硬質の思考を以て,繰り返すあの自然に
NO!を言いつつ…

シマチョウと神の匂い,その論理的ゆえん。

一昨夜のドライブでは,古今東西”関の大明神”と言われる岬まで, ほんとうに,古式の灯台の現役で回っているのをみて,唖然とし。 遠くから見守るには,『ああ,回っているなあ,』だったのが, こうして親くに,尖塔に放射線状にひと筋のラインの伸びているのが みえると,えっ,としてしまった。そうして,翌日の昨夜はもつ鍋を 頂いて,頭の牛頭みたくなっている自分の,『自然は一緒くちゃだ。』 など,ほのめいて無我呆然とする我が典拠なき真情には,もっと偽りを, こうして自然一体化する,そのエゴ=自我を失うのが,自然一体化である。 たくさんいただいた,慰労会などのキャベツのひと玉分あたりが,その, もつ鍋にしようとゆう,きっかけだった。腸にたまりそうだなあ。いや, でも,自然一体化だ。そんな理念がどこかしら,あったようで,灯台を みて帰った自宅の部屋に横たわって,脳のほぐれは,腸の論理も動かすとゆう そのことに気づいて,そうしてもつ鍋を頂き終えて,さあ論理などあったもの, ではないのだから。なので,エゴ=自我を失う事こそ,その自然一体化である。
キャベツがあったからと言って,良いホルモンの手に入るわけではないのだから,
外国産の小腸などを眺めていて,わからないなりにそれが生だしいいんじゃない,
と言っていると,隣で奥さん,あるカップをながめながら,ひたすら考えている。
みれば,シマチョウ,国産で,半額とある。新鮮さは良さそうだけれど,考えて,
グラム計算してみても,国産の良質なもので,従来の食品概念と変わらないのだから
半額ってすごい。半信半疑ながら,シマチョウってなに?とも感じつつ,それを,
等量分あがなって,帰ることにした。僕は,コツコツと,その昼間に汲んできた,
ひょんなことでいつもの水くみ場のいっぱいで避けて訪ねることにした,温泉場の
温泉水(ここは従来良質の温泉水。)を人気が居ないことに幸運を憶えつつ,汲んで
帰ってきたので,その温泉で,モツを湯引きしながら,二度ほど油抜きをしていた。
結構たくさんの分量のあって,ほんとうにいっぱい平らげられた。いままでのものより
ほんとうにさっぱりきれいで,鍋も温泉で造ったから,調味料で自家製のつゆをもって
炊き込んで,きれいな食事のできた。ここで初めて,素材重視の意味が解ったのだった。
シンプルでいいから,素材を大事にしたほうがいい。…

ウッディな神の匂い,ラベンダー&ティートリー。

うちの可燃ごみの扱いは,月・木の週間だから,なので, 今日は,地域のオードブルの可燃ごみなども預かっていたので 木曜日までは置いておけない。そさね(仮眠)していた奥さんも 4時ごろに起き出してきて,お風呂に入れる準備など請合ったのだから もう,起きていなければ,と言って,早朝より三袋のゴミ出しをして, 帰って,石けんで手を洗うさながら,これも化学の実験と相似形だ, いや,形式は一緒で,似て非なる者ではない,同じものだ。などと うそぶきめいて,ほぼ,酩酊だ。いいや,呑んでいないが,この芳香。 ウッディな神の匂い,ラベンダー&ティートリー。昨夜は,そさねした, 奥さんの横で,この芳香を炊いていては,横になって,神の匂い,そうか。 ウッディーな,と,ある”植物性”は生長力だが,木目調は,『神』である。 木目調の『神』は,加味する匂いであり,241,見世意などと当て字して, 何だか,全然の相似形なのだけれど,とにかく,ウッディ―な匂いは『神』。
だから,愛の神は,愛を攻撃し,ウッディ―な精神は,ウッディ―な被害者を 産む。いつも,裏と表のように本体を刺激する,何らかの精神体=自然物のあり, 愛は生きる事と同義なれば,やはり,植物性の生長力=愛は,人間を攻撃する。 でも,アロマテラピーをしていれば,腸は第二の脳。頭脳にそれによって,感謝の 解除作用の起これば,必然的に裏から表へ返る,被虐への感謝の気づきは,整腸の ごろごろへと繋がり,どんどんとヨガの行者みたいに最近は脱落,脱落など,禅の 僧侶みたいに叫んでみたくもなる。咆哮するそういったこのBlogの言葉も,本来は こうゆう芳香を炊いて眠りたいさながらに,どうしても,頭脳の整理の付く前に, 神は匂いだと,掴んで離さないでいたかった。実際に,愛の天使,また神性の精神に よって,僕自身は至って純粋培養の少年みたいな倫理=論理性に戻ったとしても,この 発見は忘れないでいたかったし, もう,眠くって仕方のない。けれども。
愛が生きることは至上か,いいや神性のあるとして,平凡なスピリチュアリティーは, クラフトの木地師のような存在か?そうして,そのウッディなクラフト性はやはり神。 そうなので,だから,そこには戻らずに,いいや,言ってみれば,生命力に活きること などにも戻れずに,次に記事を寄せさせて頂くことになったら。どうゆう,心情…

ドライブと会話の中心性と,音楽と文学の中立性。

弥生と縄文のあいだ,とゆうのだろうか?差別感で捉えれば, (それは,決して差別しながら”みる”とゆうことではないが,) 裏を返せば同じことと思われるのだけれど,弥生的農耕性は, 実に,区別したがる癖のある,ように感じる。噂好きな,また フッァショナブルでお洒落で大衆的,そうして,評判する区別。 僕は,ずっとそうゆうのを否定したくて,自我を,顧みてきた。 自己否定は縄文的で,自己じたいの弥生的なところがあるのだ。 自己同一性や,自分探しは,そういった国譲りの縄文神が旅立つ ための,自己と自我を結ぶ,弥生文化への皮肉めいた響きを持つ。 そんなことにコダワる自分を見つけながら,ドライブに出たので どんな皮肉めいた会話になるやらと思っていたら,昼間に運動会に でた奥さんの,嫌な役回りを実際に家の父より申し渡された話で, 皮肉めいた状況をみるに付け,笑いに受けて”ほぐれてしまった”。
始終,その話は尾を曳き続け。結局,音楽を聴くような中立性,と。 たまたま,小学校以来の友だちのお兄さんを想い出せなくて食事し, 共に食事を早く促した自分の皮肉とが相まって,『明るい方へ』と, 題された太田治子氏の作品を読んでいて,その文学的な中立性へと 話題は移って行き,太宰の愛は,太田氏へのその愛に優るモノなし。 など,と急に哀切めいた響きで,格別皮肉めいた,情熱の縄文式へと, 一言訣別し覚悟を決めたオオナムチのような面持ちで,”愛について”。 そうして,その中心性と中立性は”愛によって”,忘れられ,そうして, 途中までだけれど,太宰は,多分”愛に掛けては”情熱的で,いられた。 ひとは誰だって,何かに付け,特定の事柄に対して,情熱的たるもの。 批定されるべき特定の噂話だって,そうだ,彼は,いったじゃないか? 『真の正義とは,親分も無し,子分も無し,そうして自分も弱くて,何処かに  収容されてしまう姿において認められる』こうゆうイロニーの堪らない。 革命精神?いいや,そんなことをゆうと嘲られる。アンニュイな思索?いや, そうとも言えば,叱られる。他の名句を読んでいてもそうだけれど,太宰の ほんとうに好きなことは多分。『眠る事,と。微睡む事。いっぱいのお茶。』 だった,はず。お茶も限りのあることだから,水増しすれば構わないとは言え, 手洗いもそうそうない時代だからね,モラルもないけれどさあ。な…

太宰の好きな,爛熟香景,金木犀の匂い

西日のまだギリギリに,熱い感じのゴミの仕分けなどしていると それだけでも,金木犀の匂いのホカホカとすべての楽しくなって。 のどかに,穏やかに。そうして,PCを開いて,グールドの演奏に よる,リスト編曲の田園交響曲などを聴いていると,いままさに, もう天の岩戸開きの始まりそうな気だってしてくる。正直に,内臓の 疲労などは,すこしバテ気味に胃疲れ腸もたれなどして,いそうで。 イライラするときだって,これが残暑の顕れだと気付けなかったように 珈琲を珍しく昼から沸かして,香景だ,これが爛熟香景,太宰の好きな 金木犀の匂いだ,などと,やっぱり,パートナーシップには正統的に 純粋な,堀辰雄ロマネスクの活きてくるのはわかるけれど,遊びと人生, このふたっつに掛けては,太宰の求心力に勝るものはないから,勝るとは 好奇心を湧かす,その程度の興味をそそるもの,といった具合に,自分の フリークとして持てば,太宰=龍馬的な何か,太宰の好きな,爛熟香景, 金木犀の匂い。
こうやって,天の岩戸開きだ,と言っては,この秋の陽に爛熟する金木犀の
ここに掛けては,一層の円熟味を持ってほしいとは言いつつ,そこまで,の
暗さは必要とはしておらず。これからの暗く向かってゆく,つるべ落としの
秋日にゆくゆくは,ここまでで良い。とゆう酸味の匂いにまで留まってくれたら。
蝉の音まで聴こえなくなったけれど,相変わらず扇風ファンの回るチルチルとした
機会音はつづいてゆく変化の裡にも更に轟いて,風の音,ファンの音,コオロギの
鳴く声は,次第にグールドのピアノの響きと,風の音に合わさって,含まれては
そのまま夜にもたれ込んでゆく。

さらには,今夜で湧き水のストックはなくなった。けれども,ご近所のおばちゃんより 新米のお米をいただくことができたので,生命線,生命線。こんなにも,お礼の言いたく なる瞬間,ってあるのだろうか。と,しっかり袋より,タッパーの三箱分にしまい込んで キッチンに並べていたのだった。そういえばなぁ,堀辰雄さんのあの芥川氏の付き合い方 には,どこか金木犀の季節の酸っぱさみたいなものがよく感じられる節のある,これは, 詩情とゆうモノがああゆう出方をするに当って持つ,必ずあるシニカルさ。それから,もっと ゆうならば,ロマネスクを発現させることに当って,必ず出るあの,シュールさイロニー。 悪言をゆうつもり…

DingDongいこう!澄角堂まで。

堀辰雄氏の傷痕まで,それを切なく,澄角堂まで。
呼んで,願わくば,我に七難八苦を与えたまえ。

など,DingDongいこう!澄角堂まで。とをば,いわく。 甘いのがほしいな。口のさびしくなって。そういって,
皮つき裂きイカを頬張って,ちまちま,それで,いいや。 あと,烏龍茶ブレンドのホットティーを頂いて,そうして。
澄角堂とは,堀辰雄氏の芥川先生より夢枕に貰った号名の, そうして,彼は,風立ちぬの舞台で陽を浴びた陽転された,
芥川氏の麦藁帽をみた。そうして,堀氏は,織田信長の頃に
更に芥川氏=竹千代の時分であった,恵比須顔の東照宮をも

夢見に現れたのを,みた。こんな空想を考えては,澄角堂。 さらには,いつも神功皇后女神と,武内宿禰祖神の対照で。
堀辰雄氏の傷痕まで,それを切なく,澄角堂まで。 呼んで,願わくば,我に七難八苦を与えたまえ。
願わくば,我に七難八苦を与えたまえ。とをば,いわく。 山中鹿之助幸盛公の遺した名言ではあるのだけれども,そういった, 蕎麦の割子にドジョウの形でネーミングされるような幸盛の蕎麦の。 死霊を描かれた大作家の陰や,薔薇刑を撮影された大写真家の影像を 考えては,こういった武内宿禰の神のような祖神の例えば,蕎麦を 啜る,そのドジョウ蕎麦の七難八苦とは,それはホムダワケ!と叫ぶ, 彼らの中心の神さま,ルーアンの丘を顕された狐狸庵周作先生のような 織田信長=堀氏の,東照宮=芥川氏の対比に,神功&武内宿禰&誉田別の 関係性に及ぶあの,埴谷せんせいや,薔薇刑撮影写真の,ルーアンの丘, ここに,切支丹の苦しみの突端は中心に三島文学を据えて,轟音を鳴してる。
堀氏の切なさには,織田第六天=南洲翁隆盛=三筆嵯峨天皇の=平清盛, =フビライ汗のように本当に切ない傷跡を抱いているので,破傷風や風疹の ような辛いdetoxの必要とされる,あの特効薬に葛湯などをのんで,癒す, セロトニン・シータヒーリングに合うよう眠りにまどろむ精神的治癒の陰。 こうして,サイケデリックに非シンパシーを感じるような精神台風嵐の轟きの ある,とある,精神的治癒の陰に轟音を以て鳴らしまくる仏法僧のホムダワケ! この,緊張の轟音には密かにヒッソリ,切なさの白いセージを摘んでセージティー。 本当は,騒がしい何のノイズも要らないのに。そして可愛らしくセージ摘み。

真実さぐりあてるは信玄墓。

川端康成=宮本武蔵=武田信玄=法然和尚の純和系譜を辿るのに,
それはA.フランス=クライスト=アランソン公=クラウディウスの
ヘロディヤとしての声明に浸されて導かれる過程の裡に,あって。
きっと,元を辿れば,何かしらのエスプリめいたシニカルな何か,
シュールを現実を超えた何かとして,美しさしめす何らかのBeauty,
そこに端を発して決して,柔らかくないイカの燻製のような,酒肴。

相変わらずのパインとカフェオレを合わせてしまう夜の茶会において, こんな思索は産まれてくるのだった。ロマネスクより,脱会して,その 蕭条とした茶会に加わって更に問題視される,有意義な理由=意味とゆう ものを,文学性談義として排してゆけるかを『意味するとは,問題視される べき,テーマとは言ってもなあ。こんなことを語らうことに,意味ある?』 そんなものなのだ。眠っているのではない,デカフェの珈琲に酔っている。 なので,A.フランスと川端先生は気が合うのだろう,きっと。
ひとつは,古代の荒野に遺跡ありて,イニシエーションを体現するほどの 秘跡めいたものの表現は,フランスにおいて白眉たる。そうして,それを 体験するべき文学性のウツワを持っている川端文学においては,そういった 何らかの神秘性を,墓にまで持っていける産土性のその連呼する連帯性土壌。 ひつまぶしや,土瓶蒸しの茸の匂いのようなものか,とはいえ意味するべき, お腹に這入ってしまえば一緒だろう?いいや,そうではない,記憶の裡にも 排泄過程=忘却のあるように,そこより産まれる土壌菌に幸あれ。
フルーツを購ってかえるのに,そんなに甲乙つけるべき基準はなかったけれど,
価格に応じてよりも,ほんとうに裂きイカ,揚げ裂きなどにいたっては,中には
酸化しているようなものまであり,好きな適当に購えるイカの肴は,ほんとうに
限られてくる。美味しいものは旨い。これは,甲乙つけるべきとゆうより,その
観点には,何か海の匂いとゆうようなものもあって,好きな肴は,きっと記憶に
合っている。記憶に合っているのは,その海に何らかの骨を埋めているような。

いつもこんな,どこに骨を埋めているのだろう。とゆう,前世ゲームを=書物渉猟 と合わせて,楽しんでいる。楽しんでいる,とゆうのは,自分探し=自己同一性の 自己を,自然と,どうやって一致させられるかの自然一体化問題でもあっ…

いろいろとは,あるけれど。五穀豊穣の折合いに触れて。

段々,めざすものの在り処を掴めるような気のしてきた,この
秋口に。リンパ液の全身を,掴めるのならば,とにかく頭脳の
中をさえ廻るようなその気概を以て,自己同一性と,自然一体化の
混沌的陶酔感。自然の裡に座してしまうのは,クリスチャニティより
してみれば,邪悪なものなのかも知れないけれども,自分自身のあの
樹の一本になって葉を茂らせる中を通り抜ける水の一音壱音になって,
根本的に当然のように,カオス=静謐さの一致点にある,その在り処。

自然の裡に座す,これがグラウンディングとゆうものではなかった?
とにかく身体を温める,玉子酒は要らない,ブランディーももしくは
あまり欲さないので,ケーキにもあくまで全粒粉の粉っぽさののこる,
そんな感じでよいので,だから,ときには一本の麦になる,この頭脳。
どうしたら,いいやそれは健全かは露知れず。けれども,どうしたら,
全身をリンパ液の廻るような,いたって心身陶然としてグラウンディング,
するあの心地になれるのか?いたって平凡に趣味する不可思議さのはてな。

熱源なのだな,そうして瞑眩なのだな。そうやって,情熱に向かって,
とっさに翻る,目下の牛若丸のような跳びすさり。この月夜に没香の,
しずかな匂いのするような黄葉した樹々の萌えるような匂いを,ここで
感じる弁慶のくだり,に彼の武骨さはこの芳香にヤられたので,あって
強さを求めていたわけではない。元来,武骨さは強さは理想にあらず。
かぐわしい夜の月明りにほれ込む,あのビシッとした身なりの翻りにて。

段々と,夜の匂いにほろ酔いでくるようだ,と。そんなこと,を言って。
弁慶は九郎義経について行ったそうな,また,草団子,お番茶を啜っては,
ほろ苦い照れ笑いをするくだり,そんなものがあったのかどうか露知らぬ。
樹々の香りに無上の笑みを起こすその喜悦に対して,いかに無感動なれど。
この自己同一性と,自然一体化の混沌的陶酔感はすでにあった物事どもを
計らずも付いてこさせる神秘的な風情。もちろんには,草団子も,お茶も
旨かったから外ならぬ故。

もう,水風呂もとんと這入らず,はいられず。そうして,夢の居場所も,もう。
実践面には移さず,影響もされず。このまま,樹々の匂いに溶けてしまおう,と。
そんなとこから,始まって自己同一性と,自然一体化の混沌的陶酔感には,もう。
これで,これはそれで,それでし…