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墨汁の極み,

海は,炭化した墨汁の極み。
体内の事は覗き込むことはできない。
それでいい,けれど,私たちの目の前にある,
海は,カニは,海老は,あさりは,何と
墨汁の極み,だろうか。さしあたっては,
他力に移ろう,諧謔にも聴こゆる,
他力に移ろう。それまでの波間に,
移ろう,『ヴェニスに死す』の波間の景色,
僕は,持論があって,インスピレーションでも,
目前にでも,あなたは(前世で,)『○○だ。』って,
言われたもんなら,彼が,それは発言者のそれは,
彼が『○○だ。』とゆう事なのだ。さしあたって,
白昼夢で,『あなたはトーマス・マンだ。』って,
言われれば嬉しいけれど,たぶんそれは,彼が,
『トーマス・マンだ。』と言って,妙にノスタルジー。

結局は,未来世,過去世の論題は,皆無だ。本来,
それを了解する,とゆうことは現在返りとゆうことなのだ。
そう,現在返りしてみて僕は,僕。夢の中より帰る。
『太宰治,坂本龍馬,源義経,空海,イスキリだ。』そう,
僕は,僕に向かって話す。夢の中では,アナトール・フランス。
至り来たっては,三島由紀夫。芥川先生や,エビスの夢も見た。
しかし,現在返りして,そうやって海に乗って,日本に来る,
イスキリの現在返り。どうやって,現在に帰るかと言えば,
それは,バプテスマのようなものだ。謎々を掛けられたのだ,
諭されたのだ,自己教育を促されたのだ。遠回りをして,
信州の旅行の白樺リゾートを通ることになった帰り,お手洗い
へ寄って,ふと,思い付くような,誰にだって,そんな普段に
ふと,訪れる瞬間とゆうもの,家の目の前に祖父母の頃より,
杉の樹が残してあって,冬も冷える頃となりそうな,車まで
忘れ物を取りにゆく帰り,夏の針葉樹林の香ばしさなどが伝わって,

あぁ,こちらにいても『妙にロマネスクな気分にもなる。』ってゆう,
堀辰雄先生の気概にも触れるそんな矢先,すべては与えられ,
他力に移る現代,念仏などは,往生を遂ぐなどとはゆうけれど,
あれは現在に帰ることなのだ,ふと,思い当たっては,あぁ,
そういえば,昨日までは,『夏目漱石だ。』って,自分に言って,
文豪めいた気にもなっていたなぁ。『漱石の思い出』なる,
あれは,本当に,苦悩とゆうのはロマネスクの源泉だなぁ,など
思い当たっては,筆を置く。弘法も筆の誤り,すでに物忘れ,
勘違いなどはなはだしい故に,もともとあったストイックの,
振れに振れてさぁ今日も一念に夢より帰る,現在返り。

こちらは如何?

KARMA SPRINGとゆう、LONDON ONEの書類群。

腸がつまる、など。必然的な兆候を含む、現代のシンドロームには業の湯浴み、として。沢山の娯楽をエンターテイメントのように軽く、 楽しめるかとゆう、趣味の時間を1分2分。どうしようか? ほんとうに湯舟に浸かれる瞬間は、ご褒美だけれど、郵便物を 受け取るための深夜窓口も、寒くって伺う気にはならない。
疲れている?いいや、眠たいのはいちばんのご褒美で、またあの 思考を放棄する瞬間にこそ、曖昧で朦朧とした意識の、それは、 諦念する、問題も、なにもかもなくしてしまわれるのだから、 業の問題を考えるにしても、その問題をこそ、考える理由にこそ、 思考をなくしてしまえる瞬間に、解決されるとゆう、自己回帰。
スムーズに、ヨーグルトのプレーンを朝食に、必然的にも トーストの欲しくなるのは不可思議以上の不思議な事で、 思考し過ぎる事かあ、趣味と言えば趣味らしいモノだろうけれど 逆に、その時期を通りすぎれば、遺産として、KARMA SPRINGとゆう あの書類群の、ギフトだったのだな、ギフトだったのだ。 LONDON ONEとゆう、思考の山人による、最高の贈り物。
篤姫や、真田丸のあとには、足利学校のテーマなどみられる のでは、など、そんな、太陽悪魔や、オロチ伝説の、赤猪岩受難の、 岩戸伝説や、岩窟の聖母像と重ねて、ヒトの受難は、獣神化する道程を 経て、進む。確実な過程として、行程は、目的地の、アマテラスへ。 太陽の夜明けに繋がるのは、そんな、獣神の角と眼の筋の取られて ヒトよりも人らしい、そのグラウンドダウンしてゆく人間性の、 これは、地味に滋味栄養のある、豊富な、例えば、あの古い語の 富国強兵論なども、こうした、筋肉質な糖質制限や、あるいはまた 腸の詰まりは、富国強兵に、カルマ・クリーニングを一跳びして パクチーのコンソメスープなどを啜る朝に、やはりあの、 トーストを欲しくなる、都市街の朝食風景は、ループする。あんな ループする朝食を求めて、世界は廻り続けているとしたら、 このグラウンディング指向も、また、おんなじ様に、新年のお雑煮を、 頂けそうな、そんな年末のグツグツ、カマドは周るのである。

右側のチカラを抜いて、左肩をいきり上げる。

スーパーに出掛けるまでにも、右肩で考えて、そのトータルに見届ける事を優先していた。けれども、その優先度は右肩上がりには 決してならないものだった。トータルに全体主観によってみえる その眺望は限りなくミクロで、情報分析には役立つが、 現状認識には、あまり用をなさないのだ。 現実を見詰めるとは、想像によるものでなし、それは、 未来を無くし、その視点より時間を無くし、左肩上がりで、 あえて時間軸より、あるいはイマジネーションより、もっと 空間的に、リアリティは、期待も時間もない、悪びれたモノ。 スケジュールに関して、悪態をつくくらいの丁度いいのだ。 それは、左胸で考えること、そうして、論理的なリアリティは、 とっても毒づいて、リアリティに頑強に厳密な、 NO TIMEの様。
左胸で考える、それは腹で考える。すぐにはできなくとも、 とりあえず、両脚を伸ばして、アキレス腱を延ばす所より。 あぐらをかいて、息を吐いて、リズムを刻んで、背筋をのばす。 水出し風烏龍珈琲を呑みながら、右側のこめかみにかつては チカラを入れて考えていた、トータルな全体主観を、あえて クリスマスへの供え物にして捧げ、僕はいまもう、この 土の上に落ちた南天の実のように感じながら、土の酵素を身に 付けて、プーアール黒茶を啜るように、あんな感じで、むしろ サンタクロースのように1年の1度せかせか届けものに、 あくせくそれは、黒茶を発酵させる酵素は、毒づいて僕の 論理性リアリティとよく似ている。これは、烏龍珈琲のミラクルでも、 毒は薬にもなる、ホメオパシックな奇跡的酵素生成にも似て、 本当に、実際に効果的なモノとは、毒素を酵素に変質させる何か。