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親知らずポーズ,

ストックホルム症候群,とゆう,
苦しみから,それを受け容れるばかりか,
食わず嫌いの”逆”になるようなこと。
僕は,被虐者と,ゆうテーマは,
自然に対しておこなわれるべき,時と
思って,”ストックホルム症候群”に対する,
自然一体化,自然を受け容れ情感さえ抱く,
この災害の多い自然に対する,愛情をさえ
抱いてしまう自分の,自らの食わず嫌いの”逆”

KARMA SPRING,とゆうストックホルム。
アニミズム,とゆうストックホルム。
忘我の告白,とゆうストックホルム。
苦行からの,脱落,脱落。とゆうのも,
ベリージュースにハチミツの,シャーマンからの
脱皮。とゆうのも,すでにそれをして,理想主義を
超えた行為の発端は,ストックホルム症候群。
よく心のフィルターは,ないばかりか,魂が
露わである。その僕の繊細さは,修道院の姿。

すこしずつ,
少しずつ,頭の皮が厚くなったけれど,
もうすぐ,シャーマン・シンドロームがどう,
頭脳の皮が分厚くなったとして,
どうして,それが健康なのか,
難しい,けど。虚弱体質だったんだなぁ。

シシマン,とゆう箱が置いてあって,最初は
激しい着火剤か何か,かと思ったら,猪肉の
肉まん,だから猪まん,だった。最近,夜の
日が変わるころに,頭がぼーっとして,眠たく
なるなぁ。と,お肉を食べても消化がすこやかだなぁ。
そう思って,不思議がって,休日に夜更かしをして,
なにが健康なんだろう。文学の出汁,業の泉の
とりあえずクランベリーのハチミツ割を呑む,
するめになっていったように,噛めば出汁がでるのは
消費者がいるからで,グラウンディング,とゆうテーマ
から,すれば。一夜干しから,活きたイカの姿に戻って,
噛めずに墨は吹くけれど,するめから『烏賊』に戻る,
それがシャーマニズムである訳で。

するめにはなる必要は,ないから。食べては活き,その
食べては墨を吹き,消費者は必要とせず,その消費者は
捕食者であるから,生産者になる必要なく,
捕食者とゆう自然者に対して,
自ら,”捕食者”になって,消費者となる『烏賊』。

するめにとって,出汁の文学やクリエイティブな業の泉は
必要ない。
ぼくは,活きた烏賊でありたい。自然者はそのままで,
捕食者がそのままで,でも,消費者はいて,生産者も,
アニミズムはそのあたりを模索して。ただ,そのまま
哺乳の慣性の続く感性は,はたしてありうるのか,どうも,
朝はやってくる。朝は来ない,そのあたりは考えない,でも
続いてゆくこの世界は,存続を願うより,当たり前のこと,
なんだけど,『あたりめ』ってゆう,するめの姿に,捕食者も
活きてる,猪肉も生きてる,とんでもない,自らの死など,
よみがえったとしても,完璧な世界は変わらない,完璧な
もともと完璧であった世界は,受け容れる以前に,当たり前に
完璧だ。完璧だから,システム。それで,哺乳の慣性を認める,
この世界は,また朝の来る。

こちらは如何?

KARMA SPRINGとゆう、LONDON ONEの書類群。

腸がつまる、など。必然的な兆候を含む、現代のシンドロームには業の湯浴み、として。沢山の娯楽をエンターテイメントのように軽く、 楽しめるかとゆう、趣味の時間を1分2分。どうしようか? ほんとうに湯舟に浸かれる瞬間は、ご褒美だけれど、郵便物を 受け取るための深夜窓口も、寒くって伺う気にはならない。
疲れている?いいや、眠たいのはいちばんのご褒美で、またあの 思考を放棄する瞬間にこそ、曖昧で朦朧とした意識の、それは、 諦念する、問題も、なにもかもなくしてしまわれるのだから、 業の問題を考えるにしても、その問題をこそ、考える理由にこそ、 思考をなくしてしまえる瞬間に、解決されるとゆう、自己回帰。
スムーズに、ヨーグルトのプレーンを朝食に、必然的にも トーストの欲しくなるのは不可思議以上の不思議な事で、 思考し過ぎる事かあ、趣味と言えば趣味らしいモノだろうけれど 逆に、その時期を通りすぎれば、遺産として、KARMA SPRINGとゆう あの書類群の、ギフトだったのだな、ギフトだったのだ。 LONDON ONEとゆう、思考の山人による、最高の贈り物。
篤姫や、真田丸のあとには、足利学校のテーマなどみられる のでは、など、そんな、太陽悪魔や、オロチ伝説の、赤猪岩受難の、 岩戸伝説や、岩窟の聖母像と重ねて、ヒトの受難は、獣神化する道程を 経て、進む。確実な過程として、行程は、目的地の、アマテラスへ。 太陽の夜明けに繋がるのは、そんな、獣神の角と眼の筋の取られて ヒトよりも人らしい、そのグラウンドダウンしてゆく人間性の、 これは、地味に滋味栄養のある、豊富な、例えば、あの古い語の 富国強兵論なども、こうした、筋肉質な糖質制限や、あるいはまた 腸の詰まりは、富国強兵に、カルマ・クリーニングを一跳びして パクチーのコンソメスープなどを啜る朝に、やはりあの、 トーストを欲しくなる、都市街の朝食風景は、ループする。あんな ループする朝食を求めて、世界は廻り続けているとしたら、 このグラウンディング指向も、また、おんなじ様に、新年のお雑煮を、 頂けそうな、そんな年末のグツグツ、カマドは周るのである。

右側のチカラを抜いて、左肩をいきり上げる。

スーパーに出掛けるまでにも、右肩で考えて、そのトータルに見届ける事を優先していた。けれども、その優先度は右肩上がりには 決してならないものだった。トータルに全体主観によってみえる その眺望は限りなくミクロで、情報分析には役立つが、 現状認識には、あまり用をなさないのだ。 現実を見詰めるとは、想像によるものでなし、それは、 未来を無くし、その視点より時間を無くし、左肩上がりで、 あえて時間軸より、あるいはイマジネーションより、もっと 空間的に、リアリティは、期待も時間もない、悪びれたモノ。 スケジュールに関して、悪態をつくくらいの丁度いいのだ。 それは、左胸で考えること、そうして、論理的なリアリティは、 とっても毒づいて、リアリティに頑強に厳密な、 NO TIMEの様。
左胸で考える、それは腹で考える。すぐにはできなくとも、 とりあえず、両脚を伸ばして、アキレス腱を延ばす所より。 あぐらをかいて、息を吐いて、リズムを刻んで、背筋をのばす。 水出し風烏龍珈琲を呑みながら、右側のこめかみにかつては チカラを入れて考えていた、トータルな全体主観を、あえて クリスマスへの供え物にして捧げ、僕はいまもう、この 土の上に落ちた南天の実のように感じながら、土の酵素を身に 付けて、プーアール黒茶を啜るように、あんな感じで、むしろ サンタクロースのように1年の1度せかせか届けものに、 あくせくそれは、黒茶を発酵させる酵素は、毒づいて僕の 論理性リアリティとよく似ている。これは、烏龍珈琲のミラクルでも、 毒は薬にもなる、ホメオパシックな奇跡的酵素生成にも似て、 本当に、実際に効果的なモノとは、毒素を酵素に変質させる何か。