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ストイック・クロワッサン。

何でも,被虐と嗜虐の間でゆくものだ,など
ストイシズムは,悪人正機と親く,そしてまた,
楽しみを,求めていたかと思えば,黙祷し,また
極楽浄土かと思いきや,失墜する。それは
それら禁欲的な,動きの中で,生命は躍動し,
そうして,揺らぎの中に,着陸する。むろん,
尊大な意味で,従順に食事を準備する私の意思は
喜んでもらおうとゆうエゴイズムだ。極楽鳥は,
夜のしじまの中で,やはり震えながら眠るであろう,
仏法僧も,樹々の間で打ち震える,何時なこうか,と。
こうして,ストイシズムに震えだしながら,ブログを
打ち込む,僕の背筋もふるえている。なぜか,なぜ。
美しさに,感動することもない,禁じられている。
グルメに感嘆することもない,眠たいのだから。
視力は衰え,背中の筋肉もゆるんでいる,夜だから。
永遠の夜,行ったり来たりとゆう意味の往生ならば,
もう脱落,脱落。現世的な意味で,ストイシズムは,
耽美的な趣味を,与えてくれる。ある意味,恬淡とした。
地球が,金星に替わるとする,ヴィーナスというだけ,
金色に輝いた,美しい星だろう。しかし,恬淡として,
『いつ替わるのだろう。』ぼーっと,しながら夜明けまで。
スタンスとしては,むしろ何時までたっても,地球だろう。
それは,いい。地球である,現状の”いま”を生きる。
この意味で,生きるとは,在ると同義になる。それで,
また,回転する地球の,本来の輝きは,動きのゆらいだ
本来の輝きは,微動だにしない,そうして昼と,夜。
脱落,とは禅宗の働きではあるまいか,とも,
脱落しきるとは,果たしてストイシズムであるまいか,とは
やはり地球は地球である,まるまる,にじゅうまる,はなまる。
よく,あの肉まん型の,ニンニク型の,マニだっけ,宝珠とゆう,
あれは,グルメだな。美しさを,輪にかけて上ゆく,グルメだ。
果たして,豪華さとは,美しさに加えて,幸せも含む。
在る,に比べて,非常に成るもので,昼の文学である。
幸せは,夜ではなく,昼に逢うもの。昼の文学とは,地球の
最も輝く時でもあって,まさに,昼とグルメ,夜と美しさ。
あぁ,どちらかといえば,ストイシズムは夜に親い。つまり,
だから,夜に眠るわけだ。昼に起きて,夜眠る。夜には,
寝床でみんな,祈ってる。昼には,幸せ,グルメ。そうだね,
ストイシズムは,夜に親い。打ち震えて往生願うのなら,やはり
昼に,しっかりグルメする”べき”だ。これが,ストア派の哲学。

(余談になるけれど,昨日はカレーを頂いた。塩クロワッサンを
追加して,パリパリのバター生地が,何にもまして,グルメだ。
カレーに合うものの,それこそがグルメだ。カレーよりも,さらに。
余談ですが。)

こちらは如何?

KARMA SPRINGとゆう、LONDON ONEの書類群。

腸がつまる、など。必然的な兆候を含む、現代のシンドロームには業の湯浴み、として。沢山の娯楽をエンターテイメントのように軽く、 楽しめるかとゆう、趣味の時間を1分2分。どうしようか? ほんとうに湯舟に浸かれる瞬間は、ご褒美だけれど、郵便物を 受け取るための深夜窓口も、寒くって伺う気にはならない。
疲れている?いいや、眠たいのはいちばんのご褒美で、またあの 思考を放棄する瞬間にこそ、曖昧で朦朧とした意識の、それは、 諦念する、問題も、なにもかもなくしてしまわれるのだから、 業の問題を考えるにしても、その問題をこそ、考える理由にこそ、 思考をなくしてしまえる瞬間に、解決されるとゆう、自己回帰。
スムーズに、ヨーグルトのプレーンを朝食に、必然的にも トーストの欲しくなるのは不可思議以上の不思議な事で、 思考し過ぎる事かあ、趣味と言えば趣味らしいモノだろうけれど 逆に、その時期を通りすぎれば、遺産として、KARMA SPRINGとゆう あの書類群の、ギフトだったのだな、ギフトだったのだ。 LONDON ONEとゆう、思考の山人による、最高の贈り物。
篤姫や、真田丸のあとには、足利学校のテーマなどみられる のでは、など、そんな、太陽悪魔や、オロチ伝説の、赤猪岩受難の、 岩戸伝説や、岩窟の聖母像と重ねて、ヒトの受難は、獣神化する道程を 経て、進む。確実な過程として、行程は、目的地の、アマテラスへ。 太陽の夜明けに繋がるのは、そんな、獣神の角と眼の筋の取られて ヒトよりも人らしい、そのグラウンドダウンしてゆく人間性の、 これは、地味に滋味栄養のある、豊富な、例えば、あの古い語の 富国強兵論なども、こうした、筋肉質な糖質制限や、あるいはまた 腸の詰まりは、富国強兵に、カルマ・クリーニングを一跳びして パクチーのコンソメスープなどを啜る朝に、やはりあの、 トーストを欲しくなる、都市街の朝食風景は、ループする。あんな ループする朝食を求めて、世界は廻り続けているとしたら、 このグラウンディング指向も、また、おんなじ様に、新年のお雑煮を、 頂けそうな、そんな年末のグツグツ、カマドは周るのである。

右側のチカラを抜いて、左肩をいきり上げる。

スーパーに出掛けるまでにも、右肩で考えて、そのトータルに見届ける事を優先していた。けれども、その優先度は右肩上がりには 決してならないものだった。トータルに全体主観によってみえる その眺望は限りなくミクロで、情報分析には役立つが、 現状認識には、あまり用をなさないのだ。 現実を見詰めるとは、想像によるものでなし、それは、 未来を無くし、その視点より時間を無くし、左肩上がりで、 あえて時間軸より、あるいはイマジネーションより、もっと 空間的に、リアリティは、期待も時間もない、悪びれたモノ。 スケジュールに関して、悪態をつくくらいの丁度いいのだ。 それは、左胸で考えること、そうして、論理的なリアリティは、 とっても毒づいて、リアリティに頑強に厳密な、 NO TIMEの様。
左胸で考える、それは腹で考える。すぐにはできなくとも、 とりあえず、両脚を伸ばして、アキレス腱を延ばす所より。 あぐらをかいて、息を吐いて、リズムを刻んで、背筋をのばす。 水出し風烏龍珈琲を呑みながら、右側のこめかみにかつては チカラを入れて考えていた、トータルな全体主観を、あえて クリスマスへの供え物にして捧げ、僕はいまもう、この 土の上に落ちた南天の実のように感じながら、土の酵素を身に 付けて、プーアール黒茶を啜るように、あんな感じで、むしろ サンタクロースのように1年の1度せかせか届けものに、 あくせくそれは、黒茶を発酵させる酵素は、毒づいて僕の 論理性リアリティとよく似ている。これは、烏龍珈琲のミラクルでも、 毒は薬にもなる、ホメオパシックな奇跡的酵素生成にも似て、 本当に、実際に効果的なモノとは、毒素を酵素に変質させる何か。