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投稿

開口一番,陰が陽に転ずる秋日に自己主張しない

ふくらはぎのマッサージ機のようなものが出てきて,それは 掃除した後の戦利品のようなものであった。親くの,神社の 奥の宮まで,友だちを連れて参った,台風後の杉の葉,枯れ枝。 故郷に帰ったような心地で,そこの幣殿に昇殿観光させて頂き, 脚が痛くて,一日たった今でも,なんだか鎖に結ばれたように, ジリジリと,根気の良い観光案内を余韻に浸るほど感じさせる, そうゆう,開口一番,陰が陽に転ずる秋日に自己主張しないことを 感じさせる,イベント用に沸かした3クールの珈琲豆使い果たして, 要らないとなったので一日で呑み干したその嗜好の曳波を,ずるずる 引きずっていないかの疑いを晴らそうとゆうかのように,秋の日は。 珈琲豆がなくなってしまったのだ。欲しかったので,行きつけの大事な 珈琲屋さんでは,しかしながら,観光途中だったので所望することは, なかなか控えめに適わず,開口一番,陰が陽に転ずる秋日に自己主張しない しかしながら,掃除の際にもそうだけれど,一瞬のタイミングのうちに, 珈琲豆を本当に,きっちり使い切る刹那のリセット力は,一瞬はかどる位。 その感じさせる,感じさせる位の,珈琲には感謝を以て,一礼二拍手。
ホログラムとゆう指向のあって,極端にピュアなエンパス指向とも言える, 大国魂とゆう概念は,古来より日本にあって,その使い方は,各自国民の フラクタル構造を指示した,そんなミクロ宇宙は,大国マクロな,日本の 支点に,暮らしは,そのまま生活の基準を基盤とする,何らかの清潔さの そんな生活水準を支える個々の想いのありように,少しの願いを嵌めながら。 何だか,脚の筋肉痛に思うのは,やっぱりそうゆう,大地の磁気のようであり, 人の願いのような,そういった国土親和性のようなモノが,常に生活体である, 僕たちの周囲を取り囲んでいる,とゆうような,地元観光以来の余韻のように。 なので,ふくらはぎはとっても大事と聴きながら,そういった,身体の軸に, 脚がコテコテ筋肉痛になる位,歩いたり,地味に腰を据えて,意地の張りようの ある,キツキツの概念を,頭頂に昇る位の堅持していても良い。意志の問題, キチッとした,意図の在処に,テーマは収束されるようである。大地と親和して, あまり海外を体験していないので解らないけれど,自己同一性は,地磁気同調する 国土親和性として,もともと,生活者に備わってい…
最近の投稿

台風に連なる,珈琲の苦み。思わず,アイスに。

とんでもない様相をしてきたものである。この台風に,無力なる
人為の,嵐に対する虚脱的インドア・ステーション。虚脱的とは,
台風に連なる,珈琲の苦み。思わず,アイスに。珈琲の苦みほど
身に滲みてくる,或いは骨肉に沁みてくる。年末さながら,明日は
お蕎麦を頂きたいものである。気持ちだけでも落ち着いて,五穀の
豊穣さを追憶していたいものである。さように,スーパーは雨漏りを,
傘は骨の折れて,いつの間にやら暴風警報。思わず,落ち着いて,とは
言ってみたものの,電子書籍にて『吾輩は猫である』を手にして,嬉しく
最初のヤカンの顔にみえる,あの節は,小学生の時に目を通してさっぱり,
理解も意味も露ほど分らなかったあの時よりこんなに嬉しく触れられる,
昨今の猫ブームで更に読みやすくは,感情的に浸っていられそうな感じ。
珈琲が不味いほど苦く感じるのである。その苦みはしかし後になって旨い。
この渋さは解るまい。漱石山人にはそう言われているかのように,飄々と
語って聴かせる,イロニー・ヒューマニズムの名手にして,さながら渋い。

暴風域の中では,ほんとうの想いも筆もすすまない。身体の心理的な作用に, 非常事態の染みてきて,やっぱり流暢な言葉遊びは可能性として,それどころじゃ ない,って言われてるようなので,読書に興ずる気休めも,そろそろ,眠るように 促される。促されるのは,苦い汁を啜った後のような,感情的に渋みのある重みの そんなさながら,眠りにしたって,何だか落ち着かない。嬉しくはあるはずはないが, なぜ顫動するように,はらはらドキドキしている?こんなに,無意識に響くくらい, 台風に連なる,珈琲の苦み。思わず,アイスに。氷を六個も入れてしまって,渋味も ひややかに消えてしまうような思惑を無視して,もう無感情に親いこの感じは,何だ。 正直に,赤信号の,武者震いだ。レッドカードのチリペッパー・ビーフジャーキーだ。 何だか,パートナーの手を付けてない,軽いカフェオレさえも,手を伸ばして,一気に 呑み干してしまおう。そんな気概で,こんな時にライトな味わいはどうしたって呑めない とは。思っていたのに一番旨いのは,クリーミーな豆乳ラテの,ぐいぐい勧むこの感じ。 無理をしないでいいのだ。はらはらしたって,ドキドキしていても,軽快豆乳な感じで。 今日は,半分休止となった公民館祭の出店で,初めてのミカン…

明け方に親い,淹れるレアリズモの

現実主事,その響きは,ロマネスクより産まれた強さの証。その, 明け方に親い,淹れるレアリズモの,虫の響きに酔っぱらうよりも 安い珈琲豆の美しさの豆乳を割って頂く,淹れるレアリズモの。 強さは欲しがったわけではないのに,ロマネスクより,産まれきて, 安い珈琲豆は,何か割った方が旨いとゆうのは,アメリカーナにも 多分,割っていただく方の好きなかたは,たくさんいられると思う。 その,高躁状態にあるのが必要なのではなくって,何か描く場合, 外側への出入り口の通り抜けて,現実主事に到る道程のすくなからず 要り様とされるのであって,強靭さロマネスク=現実主事なのだった。
ちょうど,ポピュラー・ミュージックに親い,輪郭はハッキリしている それに引き換え,輪郭を凌駕して拡がる,さりげない宇宙大の表現には 大衆派のカンムリを頂戴して,さらに演繹する奉仕精神の他者への音楽。 強さは,最大の防御のようにして,他者のためにあるものなのだ,って 結果論は語るだろう。そろそろ夢をみて,忘我のスタイルよりはなれて, 独りで,前世ゲームを語り合った日々より出発してゆかなければならない。 それは,一時的なものにはせよ,強さの,とある奉仕精神の終着駅へと。 それは,強さを持つとゆうことは,ポピュラー・ミュージックのように, いっときにせよ,他者への儀礼的精神である。と,そう,思うのだった。
教えは,身近なところにある。もう,教えを請いたくはないだろう,って
自分の精神は,昔から語ってきたのだけど,そんな精神にも,そんな教えは,
身近になところにあるって,伝えてくれたポップスの,あながち嗜虐的な
放射線状を描いて響きわたる,奉仕の精神。西部劇の面白さは,つとには,
もうあまり見る機会のすくなくなった今でも,その大衆性に,ロカビリーの
素敵な,放縦な芳醇さを,聴いては反復する,手織りブランケットのゴワゴワ。

自分で,珈琲を淹れるように。お腹は,空けば何かを食べたいと感じるように。 風邪を引けばやすむように。昨日は,我流旬彩,自分で料理をしてみたのだ。 丸い手で絞ったようなコンニャクを,白菜の細切れと,ごま油&醤油&みりんで, 煮つけにして。あとは,わかめと,あごの焼きと,大根を擦って,強めの米酢で, さっぱり酢の物。それから,トマトパックと,キュウリとタコの身を,にんにく, 油をしいて,海鮮煮込み風。…

窓を開ける,お茶沸かす,かさぶた取れる。

ひさしぶりに仮眠を取ることのできた昼間の安寧。それは, いまだかつて,病の時ほど寝られず,安寧とゆうのは昼間の 仮眠にあらわれる,健康の証だと気づいた三十路の夜明けなり。 こころの調子も良いとゆう事だな,こんな感じをもって,午睡の できる精神的な調子,サードアイチャクラとゆう第六チャクラなる ものは,第三の眼と言って,松果体と関わりのある,うんぬん。 何だか,調子の悪い時,夢の中で母親が,家庭とゆうスペースシップの 船長さんで,ちょっとやつれたおじさんだった事を思いだして,そんな 夢の情報に,夢うつつの朝方には夢の現実との境の付かず,そうゆう価値観も あり,か。と,心中つぶやいた時だった。ふっと,それは松果体なのか,この 開いた感じ,ぱぁーっと,ロマネスク開いて,カラッと健やかな妄想癖より 離れるこの視界の開けた感じ。サードアイか,何かはわからないけれど,ぱあっと それは,”ひらけた”のだ。なので,風邪のクセのある咳は残るけれども,だいぶ ブリ返しよりは,距離を離して,快方に向かっている。なので,昼間の仮眠に 非常なる安寧を抱いて,ああ,これぞ昼行燈,世も平和なる証なり。自他共にある。
春菊を炒めて頂いた。ご飯を炊いて,塩昆布を加えて,昼の食卓は以上に健やか。 フライパンが,鉄鍋のようにしっかりしたモノに換わり,近くのスーパーのフェアで ポイントによって半額になるとゆうお目玉の品。ところが,家に来てみると,この 重厚感は民芸風で実にすこぶるコレクター精神に適う。青菜を,油で炒めるのが今の ところ一番旨い。ほんとうにそうなので,ご飯に乗っけて食べる。アジアの家庭料理の 一味唐辛子などを加えて頂くあの食卓にお邪魔して,ほんとうに青菜炒めのレシピを 是非教わってきたいものだ,などうそぶいてみては,面白いほど旨い,昼の青菜炒め。 窓を開ける,お茶沸かす,かさぶた取れる。病が治るとは,気の持ちようも強いのだけど それに関わらず,ほんとうに一様に平和を感じる,ホログラムは共鳴して,ぼくは平和に いま健康になる,とゆうことに,平和を感じる。銀行の振り込みなどに出掛けて,夕方の 下校中の子供たちに『こんにちわ』,あいさつ交わす。「アカシアの雨」の現代カバーを 聴きながら,現代には違いないけれど,過去の時代の何が素晴らしいって,ロマネスクの 重みの果てしない,松果体パラダイス。み…

搾乳するように珈琲を淹れる秋の日に

いよいよ堰を切ったかのように,珈琲をドリップする習慣の 再スタートで,しばらく保存してあった豆は,実際にはあまり 美味く感じられなかった。三島由紀夫のインタビューなどを, きつっと聴いていて,急に呑みたくなったし,限定的な,その 口調の良く言えばハッキリしたモノの喋り方にしても,本当に 良い面しか受け取られない,そんな夕べをシトシト降りながらの 珈琲も,搾乳するように珈琲を淹れる秋の日にと言った,そんな 感じに,一気飲みぐい呑みに,したたかに喉を通る,粗挽きの ドリップしたその苦汁の一滴一滴には,桎梏の作文作業の映る。
小説は,潮騒ほどしか実際の所,読んだことはなかった。むしろ, 触発されるのは,若きサムライのために,など人文的な論壇における 口調に到って思春期のかくあるべく触発されていたので,本当に され過ぎない程度に,書を置いて,なんだか,しっちゃかめっちゃか 動き廻っていた二十代には感謝しつつ,今となって,まだ三十代半ばの 今更サムライになれる訳もない,とゆう体力に限界を設けては,実に 電子書籍には著作権の問題なのか,ほぼ三島文学はないのであって, なので,ぼくはフラ・アンジェリコの画集や,サド侯爵の著作検索など 行きあたって君主論など探ってはみたものの,今より三島文学の面から 文芸的な,歴史著作群に思い当たる所はないはずだったので,さては 美しい星などの,最近の映像作品などを当たるか,このヨーロッパ主義の 苦汁のロマンチシズムの匂いのする,雨の日の淹れる珈琲の余韻に浸って, とにかく,神棚に三島文学を形骸的にも据えて,ぼくも精神的に復活しないと いけないのではないか?
珈琲は出口を造る。快楽物質の感受性ポイントを,少なからず開いてくれる。 美味しくない珈琲などありはせぬ,自然の象徴は人間にとっての美味の成否よりも, そこに現象化する珈琲豆の神秘そのものだ。 モカの産地は,エチオピアとイエメンの両者に渡っての生産者によるモノで, イエメン産は,あまり量販店では目にかかることのないように感じるのだけれど ドイツ的なイエメンと,フレンチなエチオピアの印象のする,そんな感じによって, エチオピアのキリスト教会遺跡群に,地下に渡って掘られた礼拝堂にて,イマジン, 祈りに徹する機会はことごとく消えた。なので,ドイツ的なイエメン産の豆によって 祈祷よりダンシングして,…