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思索に時間は要するけれど,運筆には瞬く間の抽象表現

芥川先生を武内宿禰のように,ミラレパなどをサナトクマラのように
捉えてきたけれど,漱石山人を,そのように宿禰公や,クマラのように
考え直して,元来漱石は”仲哀=ニギハヤヒ=スサノオ”だと思っていたが
それらは,『サナトクマラ=武内宿禰』のようなトライバルな存在だ,と
見詰めなおしてみるのだった。かたや,キャタピラ青虫のように,あの確か
不空上人=井伊直弼公を繋いでいたしずかな柱も倒してしまう,それらは
自我の確立。むしろ漱石より,イーゴとしての三島文学にまたも返り咲く。
オーブンレンジで珈琲の焙煎を試みるのは,果たして,深煎りまで持っていく
のには,僕には適した遣り方だと感じるこのブラウニーな薫りのうちにあって,
まだまだ,「若きサムライのために」や「葉隠入門」などを適しているように,
そうやって感じる春の陽気を訪れさせる彼の自我確定期に,古銭の阿修羅神像など
京念珠を手の平に掛けて遣って,こうして,少しずつ深い煎り方へ換わってゆく
こうした春の訪れを垣間見る。朧月夜にまた,菜の花の時節なり,また深煎り。

連続してすすむ,黒い珈琲豆の選別のように廻転する,芥川先生のたまわく,まるで
”愛とは媚徳に外ならない,その故にグラウンディングする愛。”などとは,その辺り
”チャーはまるで完全態だよね,”など言われては駆け込むお手洗いに向かって,その
意味は?それは午後にケーキでも食べたいな?など,妄想して,帽子への執着も今は
もう解けて,ウィンドウショッピングしたい欲求も,いいや。手洗いで,”imagine”。
思索に時間は要するけれど,運筆には瞬く間の抽象表現には,いいや。まだ,まだ
辿り着くことのない漂着するべきあの白砂青松の畔まで,いいや。まだ,まだ。すすむ
この悠久なひと時を,媚態ではなく,松の青い針で,刺激する歯ぐきなど,思考などを。
そうして,思索はイザナミへと向かう。大谷崎=イザナミ,また,太宰伯=イザナギの
この対比を以って,最大限の愛情を掲げてのイザナミ女神へのこの興味関心は続いて,
こうして朝になって感じるそのヒステリクス=ヒューマニズムを超えた何かの,悲母の
ごとき瞑想の内に座す静かな集中その,メディテーション=リラクゼーションを跨いだ
このイマジネーション=ヴィジョンそうして強い願望実現のマジカルミステリーについて
ただ黙々と興味関心をあらわす太宰伯…
最近の投稿

看護する側に廻り、眠りに落ちる、共に眠りに。

岡本太郎=セザンヌ=バイロンの火星長老による招聘を受ければ、
義朝=石田三成=楠木正成=家茂の聖者の行進を垣間見る藪木の隙間。 セガンティーニ=ヨハネス・タウラー=ペスタロッチー=カラヤンの子羊は、 また、ミレー=シュペルヴィエル=モーツァルトとゆうルシファー獣神の、 〈飄々として哀切とした、剽窃されて漂泊した自我〉なる者かく言う、あの モネ=カント=コロンブス=マルコポーロ=ディオゲネスの冷徹した眼光を、 ただ、火星長老とゆうのは、とつとつと、そう言って区別することにアートを みるのだった。ただ、そうやって、みるだけなのだったとゆう。 野生酵素を摂るように、優しさが残酷じみてゆき、そうやって グラウンディングとゆう呼び名のもとに、怒りや焦燥さえ含んで 我が心は我が身へと変わってゆくものなら、それは嬉しさのモノ。 そうやって、人間性は、ハートでは扱うのでなし、充分に丹念にして、 もっと、腹の底より、怒り、泣き苦しみ、笑おう。とは言う、 つまり、単純に、セクシュアリティによって、怒り、哀しみ、そうして 微笑みを浮かべるのであったら、頭脳ではない、完全に下方よりの 感情を体験できるのなら、それが、グラウンディングである。とは言うモノ、 根を降ろす、とゆう惑星に張ってゆく清濁併呑の心根は、そういった 太陽神経叢によって、考えて知悉し、また、情緒を宿すのだ、とゆう。
そう。例えて、喜びについて、語りたいのだった。それらは、 どんな茶葉でも、豆乳チャイに。そうして、それらは、どんな酵素シロップも 烏龍茶割りにして。眠りに落ちれば、人格は修復され、戻ってくる秀逸な。 ジンジャーハニーは上の空。いつも、どんなタンニンに合わせて行けば、 そう。考えているので、眠りに就いて戻ってくる感覚は、やはり三島文学よりも 太宰のヒューマニズムなのだった。檀香の匂う、龍馬祭壇の例えてあれば、 それは、トビナガスネに、イザナギの黄泉返りのようにして、それで もうすでに、取り返しの付かない記憶錯誤も、錯綜した宮の水のように 桜の香りに、桜餅の夕べ。喜びについて、語りたいのだった。それらは サルタヒコのリルケ=ヒュパティア=ドナテッロ=ラムセス2世とは、 また対置するのも良いことです、それは、よいことで、それでいて。 肝心なのは、眠りに戻っては我輩は太宰である。と、連呼自称しつつ、 この、ジャーニー…

Experience of Humanism, プライベートな突然変異

きっと、外格みたいな自己自身、あの究極の虎の女神みたいな自分に、 戻れる日があったなら。と、ずっと思っていた。それは、何だか大きな山を 抱えて、壁をいだくように進み始めてからは、住人の棲家としての虎には、 その、内面の繊細さを、むしろ逆に輪郭線をくっきりとして、まざまざと 寂しく、細々く、僕はそんな道をアンニュイに辿ってきたのだった。 身体性の証左として、活動によって嗜好の砕ける瞬間には、この行動によっては 運筆さえも雲散霧消するところまで、僕の思考は身体になった。まるで、 ソフトクリームにパラソル型にポップなシュガーを掛けるみたい、 カフェラテに、ジンジャー加えるような、そんな心地においては、 もうすぐ、酵素にパラレルなスムージーを造る際には、何をか、 やはり豆乳がベスト。シャリシャリにするのが、良いね!など、多分に 色々と試してみたいのだった。パラレルとは言えども、それは 朝型か、夜型かの違いに他ならないので、どちらかの生活自体へと シフトすれば、それは1つの記憶に絞られるのだから、どちらかを 択ぶなどとゆう、そんな提案と、あるいは記憶領域について、その上で 夢の強さを活動自体に明るさで支配し、薄めれば良いのだった。
仏壇とゆうか、違い棚みたいなところに、古銭で造形された仏像のあって 仏舎利のようなモノまで入っているのでは?など、モノモノしくも 感じられる、その横には、セージ葉を日本酒に漬けたり、または 毎日のお茶などを供えているのだった。それは、曽祖母の若い遺影の 置いてあった、事実上かつての仏壇であったので、そうした 記憶の一端に、何かしら僕の記憶を仕事に換えるほどの転換ポイントを ONスイッチに押し掛けておいては、また、このラビリンスざまの自分に。 自分の人生にスタイルなどあったのなら、軸のないケイオスに対して。 もどかしい、情念の夜の世界に訣別してゆく、これは、眠りに入れば、 必ずも忘れられる類の記憶であるので、むしろの無論のことには、 決して忘れられることのなかったカーマローカを、もうすぐに。 眠りに就いて忘れてしまう。そう、そうなのだ。そうなのだった。
沢山のドリンクメニューを、考えていた。ホワイトカプチーノ、 クリームチーズオレ。デカフェ烏龍ドリップ珈琲豆乳のきな粉砂糖添え。 そろそろアイスドリンクに替える前には、デトックスざまのホットなのは …